首相「靖国参拝は日本国民として自然な感情」@日本経済新聞だそうだ。
というわけでBulkfeedで「自然な感情」という言葉について検索してみた。
するとこんな記事が出てきた
恐怖の原因@ たくろふのつぶやき
少年犯罪に対応する方法は更生が基本。「自然な感情」という言葉の抱えるウソを良く体現している例だと思いました。
常識だし、頭では理解できる。
でも、誰だって近所に彼が住むことになると知ったらそれまで通りの安心した生活を送ることはできないだろう。これは更生した少年犯罪者に対する偏見などではなく、生理反応に基づく自然な感情だと思う。
この場合の恐怖感というのは、どういうものなんだろう。
自分の家に帰ってきたら、部屋の真ん中に誰かの死体から切り離された生首がころがっていたとしよう。生首は何も危害を加えてくるわけではないし、生首の存在で何か物理的な変化が起きるわけでもない。しかし、ふつう人間であれば生首には相当な恐怖感を感じるだろう。その首を処分してもらった後でも、その部屋にそれまで通りに普通に暮らせるかというと、ムリだと思う。恐怖感というのは、自然な生命体の有り様をねじ曲げる行為を本能的に避けるための反応だろう。
酒鬼薔薇聖斗の行った犯行は、生命体の自然な有り様に著しく逆らった行為だ。普通に考えて尋常じゃない。近所に彼が住むことが分かったら当然持つであろう不安感は、その犯行の特殊性を想起されることによる本能的なものだろう。仮に彼がどんなに罪を償う気持ちがあったとしても、どんなに精神的に更生していたとしても、彼は世間的には自室に転がる生首のような存在ではないか。となりのアパートに引っ越してきたちょっと陰のある無口な青年と、挨拶を交わすうちにちょっと立ち話するくらいになったとする。そうなってから、「実は彼は酒鬼薔薇聖斗なんだよ」と知らされたら、偏見抜きで純粋に恐怖を感じるのではないか。
どうも、少年犯罪の更生に関して寛大な社会復帰の必要性を解き、更生者に対する偏見に警鐘を鳴らす論説は、人間の純粋な恐怖感という感情を無視している気がする。例えば、墓地はそれ自体が悪いことなど何もない。しかし、「夜の墓地を歩くのを怖がるのは墓地に対する偏見です。お墓に悪いから怖がるのをやめましょう」と言われたって、怖いものは怖いのだ。お墓には悪いが、それは慣習でも偏見でもなく、純粋に「死」にまつわるものを避ける「恐怖という本能」によるものなので、やめましょうと言われても困る。
凶悪犯罪経験者の社会復帰に寛大なことを言う人は、自分に直接関係ないから寛大なことが言えるんだと思う。自分に幼い子供がいて、かつ隣に社会復帰した酒鬼薔薇聖斗が住むことになっても、同じことが言えるだろうか。お分かりでしょうか?つまり彼は酒鬼薔薇聖斗に対しての恐怖を社会がそのような影響を与えるから生じるのではなく、"自然に"生じる物と考えることによって「酒鬼薔薇聖斗の社会復帰に対し寛大なことを言うことはこの事を自分と直接関係ないからそういう事をいうのだ。なぜなら酒鬼薔薇聖斗に対する恐怖は"自然な感情"であり、修正することは不可能なのだから。」という論理を組み立てているのです。
少年犯罪の更生について真面目に考えるというのは、自分の身の回りにそういうことが起きたときに自分がどうするかを考えることだと思う。自分に影響のない、遠く離れた位置から勝手なことを言うのはあまりに無責任ではないか。