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2004-03-13


[異論]「自然な感情」という言葉の暴力性と「国民感情」という幻想

首相「靖国参拝は日本国民として自然な感情」日本経済新聞だそうだ。

というわけでBulkfeed「自然な感情」という言葉について検索してみた

するとこんな記事が出てきた
恐怖の原因 たくろふのつぶやき

少年犯罪に対応する方法は更生が基本。
常識だし、頭では理解できる。

でも、誰だって近所に彼が住むことになると知ったらそれまで通りの安心した生活を送ることはできないだろう。これは更生した少年犯罪者に対する偏見などではなく、生理反応に基づく自然な感情だと思う。

この場合の恐怖感というのは、どういうものなんだろう。

自分の家に帰ってきたら、部屋の真ん中に誰かの死体から切り離された生首がころがっていたとしよう。生首は何も危害を加えてくるわけではないし、生首の存在で何か物理的な変化が起きるわけでもない。しかし、ふつう人間であれば生首には相当な恐怖感を感じるだろう。その首を処分してもらった後でも、その部屋にそれまで通りに普通に暮らせるかというと、ムリだと思う。恐怖感というのは、自然な生命体の有り様をねじ曲げる行為を本能的に避けるための反応だろう。

酒鬼薔薇聖斗の行った犯行は、生命体の自然な有り様に著しく逆らった行為だ。普通に考えて尋常じゃない。近所に彼が住むことが分かったら当然持つであろう不安感は、その犯行の特殊性を想起されることによる本能的なものだろう。仮に彼がどんなに罪を償う気持ちがあったとしても、どんなに精神的に更生していたとしても、彼は世間的には自室に転がる生首のような存在ではないか。となりのアパートに引っ越してきたちょっと陰のある無口な青年と、挨拶を交わすうちにちょっと立ち話するくらいになったとする。そうなってから、「実は彼は酒鬼薔薇聖斗なんだよ」と知らされたら、偏見抜きで純粋に恐怖を感じるのではないか。

どうも、少年犯罪の更生に関して寛大な社会復帰の必要性を解き、更生者に対する偏見に警鐘を鳴らす論説は、人間の純粋な恐怖感という感情を無視している気がする。例えば、墓地はそれ自体が悪いことなど何もない。しかし、「夜の墓地を歩くのを怖がるのは墓地に対する偏見です。お墓に悪いから怖がるのをやめましょう」と言われたって、怖いものは怖いのだ。お墓には悪いが、それは慣習でも偏見でもなく、純粋に「死」にまつわるものを避ける「恐怖という本能」によるものなので、やめましょうと言われても困る。
自然な感情」という言葉の抱えるウソを良く体現している例だと思いました。

彼は「しかし、ふつう人間であれば生首には相当な恐怖感を感じるだろう、と言います、しかしそれは明らかに間違いで、例えばアフリカの内戦中の死体がごろごろ転がってるような所で生まれ育った人は生首に恐怖心なんか抱かないだろうし、日本でも近代以前は晒し首なんて風習がありました。つまり「生首を怖がる」という感情は「本能」とか「生命体の自然な有様」などという物ではなく、時代・地域・共同体によって制限される種類の、とても社会的なものなのです。

そして更に彼は「酒鬼薔薇聖斗の行った犯行は、生命体の自然な有り様に著しく逆らった行為だ。・・・不安感は、その犯行の特殊性を想起されることによる本能的なもの」といいます、しかしそもそも人類そのものが「生命体の自然な有り様」に激しく逆らった種*1であります、だけれどその事について不安感を表明しているのは本当にごく一部のグリーンピースとか宮崎駿とかのエコロジストと一部の宗教だけです。

結局の所「酒鬼薔薇聖斗」が恐いというのはある社会に属してる人間が抱く感情なのであって、決して「人間の本能」、「自然な生命体」などという普遍性を持つ物では無いのです。

では何で彼は「自然な感情」という言葉を使うのか?その答えは次の文にあります。
凶悪犯罪経験者の社会復帰に寛大なことを言う人は、自分に直接関係ないから寛大なことが言えるんだと思う。自分に幼い子供がいて、かつ隣に社会復帰した酒鬼薔薇聖斗が住むことになっても、同じことが言えるだろうか。

少年犯罪の更生について真面目に考えるというのは、自分の身の回りにそういうことが起きたときに自分がどうするかを考えることだと思う。自分に影響のない、遠く離れた位置から勝手なことを言うのはあまりに無責任ではないか。
お分かりでしょうか?つまり彼は酒鬼薔薇聖斗に対しての恐怖を社会がそのような影響を与えるから生じるのではなく、"自然に"生じる物と考えることによって「酒鬼薔薇聖斗の社会復帰に対し寛大なことを言うことはこの事を自分と直接関係ないからそういう事をいうのだ。なぜなら酒鬼薔薇聖斗に対する恐怖は"自然な感情"であり、修正することは不可能なのだから。」という論理を組み立てているのです。

ここに「自然な感情」という言葉の暴力性が存在します、これは「本能」という言葉の暴力性と同じ物で(ちょっとフェミニズムをかじった人なら良く分かることだと思うのですけど)、ある行為を「自然な行為」と定義することによって、その行為に対する批判を封じてしまう暴力なのです。

さて、靖国参拝に関する発言に戻りましょう。ここまでの文章を飽きずに読んでこれた人なら、この発言の意図の意図の一つが分かると思います。つまり靖国参拝に対する批判を封じてしまうことです。

しかしこの発言にはもう一つ意図があります、それは「日本国民として」という言葉に隠されています。

感情が地域・歴史・共同体によって制限される社会的な物であるというのは先ほど説明したことなのですが、では日本国民というのは皆同じ地域・歴史・共同体を生きてきた同じ社会の人なのでしょうか?

例えば日本国籍に帰化した人を考えてみましょう、日本国籍に帰化した人は総理大臣という立場から考えれば明らかに日本国民でしょう、しかしその人は明らかに平均的な日本国民とは違う歴史を歩んできました、また、そこまで特殊な例でなくても、例えば北海道に住んでいる人と東京に住んでいる人と沖縄に住んでいる人ではどう考えても違う地域で人生を歩んできました。

更に言うと世代によっても歴史は違いますし、同じ年代でも見ているアニメが違ったりすれば歴史も異なってきます。つまり、一口に日本国民と言ってもそこには一つの社会だけがあるわけではなく、様々な(重層的に)社会があるのです。

それでは何故小泉首相は「日本国民としての感情」があると言ったのか、それはつまり「日本国民は皆同じ社会を生きてきた」という幻想を、国民に植え付ける為なのです*2

かつて中曽根康弘という人は「日本は単一民族である」という幻想を国民に植え付けようとして、アイヌ民族の人達などから袋叩きに会いました。しかし今回の小泉首相の発言に対しての批判はあまり無いように感じます、実際は今回の小泉首相の発言というのは「日本は単一社会である」という意味で、中曽根の発言と殆ど同じ様な意図なのですけどね。。。

まとめ
  • 感情は社会によって作られる
  • だから感情といえどもその全てを肯定する事は間違っている
  • 日本は単一の社会ではない
関連サイト:
首相「靖国参拝は日本国民として自然な感情」日本経済新聞
恐怖の原因たくろふのつぶやき
首相「靖国参拝は日本国民として自然な感情」SKY-wind.com うぇぶの片隅で
(無題)Another Way

*1)というか「生命体の自然な有り様」という物があるかどうか自体もちょっと難しい問題なんですけど、まぁそこの所は今回取り上げません。
*2)というよりもしかしたら首相自体もそのような幻想を持っているのかも知れない。ただ僕としては首相がそこまで馬鹿だとは思いたくないんだよね。。。
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20040309AT1E0900109032004.html