映画秘宝が断言「殺人映画と現実の犯罪に因果関係はない。だが『わたおに』と性犯罪の因果関係はある」@歯車党日記
映画秘宝が断言「殺人映画と現実の犯罪に因果関係はない。だが『わたおに』と性犯罪の因果関係はある」殺人映画と殺人は無関係だけど、幼女のフィギィアと幼女わいせつは関係ある!、こりゃまた凄い新説ですな(w
04/03/18-01:27
本書は、実際に起こった殺人事件の映画化作品と、映画にインスパイアされたと言われる殺人事件、その他もろもろの殺人事件を記事としておりますが、映画と殺人との直接の因果関係は証明されておりません。
昨今、映画をはじめとするメディアの暴力描写が、社会に悪影響を与えるという論議がよくなされていますが、本書を読んでいただければわかる通り、そんなことは絶対にありません。
「映画を観て人を殺したくなった」などと言う発言があっても、それは戯言か、詭弁か、そう言う本人に精神的な問題があるからです。
繰り返しますが、殺人は許されない行為であります。でも映画と実際に起こる殺人との間には一切、因果関係はありません!
編集部一同
(「別冊映画秘宝 実録殺人映画ロードマップ」より)
実にもっともな正論である。でも、同じ編集部が別の本ではこうである。
まあ、現実世界には子供を無惨になぶり殺したりする奴は宅間守受刑者とか宮崎勤受刑者とか、ジャパンにもいる。それで大体の判決が死刑だ。前途ある子供さんの命を複数奪ったとなったら、これは死んで償うしかないというのが世間の相場なのです。
もっとも、たとえ殺さなかったとしても、新潟の佐藤受刑者や夏場になると雲霞のごとく発生する幼女誘拐魔の方々にしても、結果は同じ事です。世間は許しません。しかもそういった奴ら(ならびに不健康な彼らの同志)は『週刊わたしのおにいちゃん』とかネットで購入するような奴らばかりなのだから、 Amazon.comやbk1といったオンライン書店の義務として、購入者の名簿一覧を公安と公×党に送る方がいいと思います。
(映画秘宝2004年5月号・P48「私は何故にガキどもを殺してしまうのか? 殺しのテクニック、フレディー・クルーガー48手」(構成◎編集部+高橋ヨシキ)より)
まあ、映画秘宝は良くも悪くも頭の悪いアナーキーなノリが魅力の一つでありますし、そういうのが好きだから自分もA5版の「悪趣味洋画劇場」時代から欠かさず読んでいるわけだけど、自分らの萌えオタ嫌いにかこつけて、こうも露骨なダブルスタンダードかまされると正直萎えるわけで。この分だと、次号では鬼の首をとったように高崎の事件をとりあげて「萌えオタは犯罪者」とはしゃぎまくりですかね>秘宝編集部
断言まではできんが俺も基本的には「映画秘宝」と同意見。あまり軽々しくメディアが人格に与える影響を云々するべきではないし、俺自身が「萌えオタク」みたいなのを毛嫌いしているのも自覚しているのだが、それでもそう言えるのには一応根拠がある。これに対しては元の批判記事を書いた人が次のような批判をしています
哲学的な議論はどうか知らんけど、常識的に考えれば「殺人欲求」を持っている人間なんてそうそうおらん。既に殺人を考えている人間が殺人映画を見て「手段のヒントとして」影響を受けることはありうると思うが、逆にそういうことを考えていない人間には「ただの映画」としてしか映らない。と思う。しかし「わたおに」は、人間がそもそも備えている「性欲」をベースラインに据えたものであるが故に、それを刺激する「妄想増幅装置」として機能している一面があるのではないか、と。
わかりやすく言ってみる。「殺人映画を見るのは別に殺人が好きな人というわけではないけど、『わたおに』を見るのは明らかに幼女が好きな人だから、犯罪との因果関係を考えれば、直結とまでは言わないけど少なくとも前者よりは後者の方が結びつきは強いでしょう」ということ。どうだろうか。
( ゜д゜)ポカーンが、僕はそれとはちょっと違う視点でこの記事に疑問(というか反論?)を持ちました。
一つだけ聞きたいんだが……この方だけでなく、件の映画秘宝の編集者にも、文春の記事で高崎の事件とわたおにを結びつけるような書き方したっていう記者にも。
「あんたら、実際に『わたおに』買ってブックレットまで読んだ上で“性欲の妄想を喚起する”って思ったのか?」
もし本気でそう思ったんだとしたら、むしろあなた達の方が心配です(^_^;)。ていうか、絶対現物観ないで週刊誌などの記事などの印象から組み上げた『わたおに』の妄想だけで叩いてるんじゃないんですかと。そもそも、あの異常な販売状況から考えると自ら買おうと望んでがんばらない限り手に入れ難かったと思うし、「俺自身が「萌えオタク」みたいなのを毛嫌いしている」とおっしゃってる方がわざわざ『わたおに』買いに行くとも思えませんし。
ボーヴォワールの言葉を借りれば、「女(男)は女(男)に生まれるのではない。女(男)になるのだ」ということになる。男が男らしいのは、男性ホルモンやペニスがあるからではなく、男らしく、男らしくと育てられるからだ。女が女らしいのも、同じ理由。男らしさと、女らしさは、その人の解剖学的な性別とはまったく関係ない。らしい。大体もし性欲が本能だとしたら、何故生殖行動などまったく出来ないような幼女のフィギィアに性欲が湧くのだろうか?
まだ信じない人は、この本の第五章「性欲は本能か?」だけでも、本屋で立ち読みしてほしい。この章で小倉千加子は、いわゆる「野生児」(狼などの野生動物に育てられた子供)の観察例を引き合いにだしている。
野生児っていうくらいだから本能むき出しだろう、とふつうの人は思う。しかし、1799年にフランスで発見され、フランソワ・トリュフォーの映画の題材にもなった「アヴェロンの野生児」(男の子)や、1920年インドで発見された2人の野生児(女の子)は、ついぞマスターベーションはおろか、性的な関心を示す行動さえしなかったというのだ。
なぜか?その理由は、彼ら野生児には「自分は男(女)の子である」という自己認識が完全に欠如していたからだ。では、なぜ自己認識が欠如していたのか?野生児には言葉がないからだ。言葉がなければ「自分は男(女)の子である」という考えそのものを持つことができない。
ほとんどの人が、男が女の体を求め、女が男の体を求めるのは「動物的な本能」だと思いこんでいるが、実は人間のセクシュアリティーは、ひじょうに文化的で知的な現象なのだ、と小倉千加子は言っている。
さらに小倉氏は、身体的には男性(女性)なのに、女(男)の子として育てられた人に関する学術研究を引用している。それによれば、ある年齢まで男 (女)の子として育てられた人が、後に解剖学的に女性(男性)と分かった場合、ほとんどの人が解剖学的な性転換を選んだということだ。
つまり、「ペニスがあるから男の子らしい」というのは単なる俗説で、本当は「ペニスがあろうがなかろうが、男の子らしく育てられれば男の子らしくなってしまう」のだ。