「異質さの発見」ではなく「同質さの発見」である。
被害者には重さは変わらない@Going My Way
犯罪や事故が起きたとき、そこには加害者と被害者が存在します。被害者はいろんな場合があるけれども必ず損害を受けています。交通事故のようにお互い過失があるような場合は過失相殺するのはいいと思いますが、犯罪などの場合に責任能力の有無で被害者に補償がされないというのはおかしいと思います。障害者の明と暗@悪徳不動産屋の独り言悪徳不動産屋の独り言: 障害者の明と暗交通事故なんかでは被害者保護の観点から、加害者となる運転者がお酒を飲んで運転していても保険金が被害者に支払われます。それでも補償というのは金銭でするしかないので被害者としては納得できない点もたくさんあると思います。
裁かれるのは「犯した行為」であって、やったことが犯罪なら、責任能力の有無に関係なく有罪とすべきで、その後に情状を酌量するなり保護処分にすべきもの、と常々考えている。
普通の犯罪とかの場合、刑事と民事が違うというのはあるでしょうけれど、責任能力の有無で犯したことを重さが変わるわけではないと思います。被害者にとってなんの違いがあるでしょう?責任を取れない人に襲われたらあきらめろというのでしょうか。なんかおかしい気がします。民事で損害賠償の裁判を起こせばいいのでしょうけれど、刑事の方で不起訴とかになるとなんとなく変な感じがします。差別をしてはいけない世の中ならば、やった事の責任に関しても差別をしてはいけないような気がします。
うちのお店にも一般的に言う「障害」をお持ちのお客様がよくいらっしゃるようになった。実に「正しい」意見である。このような意見が世の中で共通認識となれば社会は僕以外にとってはとても生き易くなるでしょうね・・・
障害者の方はお話していてハッキリと二つのパターンに分かれる。「障害を現実のものとして受け止め前向きに人生を歩むタイプ」と、「陰に篭るタイプ」である。中間は無い。
数年前、重度の脳性小児麻痺で、電動車椅子に乗って、介助者と共に来店なさった30代半ばのOさんは前者のタイプだった。自分の意思を必死で伝えようとする様子は痛々しかったが、どうにか会話をすることができた。ボランティアの介助者も、必要最低限の助け舟しか出さず、「極力本人に任せている」とのことだった。傍からすれば、「これ以上の不幸は無い」、というような障害をお持ちなのに、前向きに生きているのが伝わってきて、私はとても感動した。介助の方が仰るには、「両親は病気になった我が子(Oさん)を捨ててしまって、今までずっと施設のお世話になっていましたが、本人の希望で独立することになりました。24時間体制で介助が付きますので家主さんにご迷惑をお掛けすることはありません」、とのこと。実の親に捨てられた、という想像を絶する体験と重度の障害を持ちながら、Oさんは必死になって全身の力を込めて私にこう言い切った。
「こんな身体になったことも、自分を捨てた親も、何も恨んでいない」、と。
いろんな不幸をお持ちのお客様に接してきた私も、しばらくは言葉が出なかった。
以前、Oさんと逆の意味で同じようなことを仰った障害者の方を思い出した。
もし、あなたが、「今、とても不幸で死ぬほど辛い」、と思っているなら、中村久子さんの「こころの手足」という本を是非読んで頂けたら、と思う。そうすれば、今の自分が抱えている悩みがどれ程チッポケなものか良く分かるだろう。あの三重苦のヘレン・ケラー女史をして、「私より不幸な人がいた」、と言わしめた女性である。私は読んで号泣した。
(中村久子さんに関してはこちらの補足説明が分かり易いかと思う)
一方で、「自分は障害者なのだから、これくらい許されて当然」、「周りが配慮して当たり前」、という人にも出会う。こちらは心底悲しいタイプである。たいていは、「健常者には障害者の気持ちなんて分かりっこない」、と決め付けてくる。そう言われてしまえば、健常者は「いえ分かります」とは言えないものだから、そういう発言は極めて卑怯である。文字通り、本当の「障害者」である。
以前も述べたことだが、刑事事件の裁判で、責任能力の有無を判断するための「精神鑑定」が取り沙汰されることがあるが、私は全くナンセンスだと思っている。裁かれるのは「犯した行為」であって、やったことが犯罪なら、責任能力の有無に関係なく有罪とすべきで、その後に情状を酌量するなり保護処分にすべきもの、と常々考えている。だから私は仕事の上でも、障害者であっても健常者であっても全く同じ対応をする。ただ部屋探しの条件が少しだけ変わってくるだけの話である。むしろこちらが、「障害者だから」、と何か特別な対応をすることは障害者の方に失礼になる、とさえ思っている。障害があることを逆手に取る障害者には、丁重に他の店に行かれることをお勧めしている。
私が相手をしたくないのは、「障害者」の人ではなく、「自分は障害者だから」という人である。実は私は、「体が不自由でいらっしゃる方」を障害者とは思っていない。障害者かどうかは、外観や身体の不具ではなく、「心の在り方」で決まると思う。言い換えるなら、五体満足な身体を持ち合わせている健常者の中にも「障害者」は5マンといるのだ。
そういう意味で言えば、私自身もまた、ある意味「障害者」なのかも知れない。
私は、国籍や、肌の色や、障害の有無でお客さんを差別したことは決して無いし平等に接してもいるが、「陰に篭るタイプ」の人が来店すると相手にはしない。そもそも「感謝する気持ち」が無い訳で、下手をすると責任転嫁されることも有って、そういう人を相手にしても仕事の達成感が得られないからだ。これは、私にとっては収入より大切なものだ。
その後、Oさんとは街でよくすれ違う。自分で電動車椅子を操作するのに手一杯のご様子なのでお声は掛けないが、今も元気でいらっしゃるようで、会う度にホッとしている。
無差別殺人なんかは、たしかに、弱い所や人ばかり襲っていますよね。それでいて、「責任能力なし」は無いものです。というコメントがありますが、しかし実際は無差別殺人のような犯罪ほど精神鑑定が必要とされていたりもするのです。