僕の2ch-BLOGやニュースブログで書いてきた記事の目的は、「万人にとって共通するs/n比」という幻想との戦いと言っても良かっただろう。
ある人がある書き込みを「荒らし」という、その判断というのはどうしたってその人の妄想でしかない。何故ならその書き込みが万人にとって不要なものならば、そもそもその書き込みをする人自体存在しないことになるからだ。
この世の全ての文章にはその人の自己が詰まっている。確かに中には「客観」という仮面を被っている物もあるが、それにしたって「客観的な自分」という仮面を被りたい主観的な自分の仮象なのだ。結局全ての文章はその人にとって「自己利益」の成就を目指す利己主義でしかありえないし、また、そうであるべきだとも思う。
自分の嫌いな文章ならば「自分はこの文章が嫌いだ」と言えば良い、「大多数の利益だから・・・」とか言って言い訳するのは偽善以外の何物でもない、吐き気がする。
繰り返そう、万人にとって共通なノイズなど存在しない、何故なら、ある事象に対し意味を与えるのは、主観的な自我なのだから。自我が共通であり得ない以上、どんな価値観も共通ではなく、それは「ノイズとそうでない物を差別する」という局面に於いても同じだ。
彼は一体何を目指すのか。広告のない、万人にとって清き世界か?そんなもの不幸になるに決まっている。
しかし「万人にとって清き世界」を目指す潮流というのは世界的なものであるのもまた事実なのだろう。その潮流の元で有害図書は廃棄・隔離され、富める者は町の周りを塀で囲み、そしてさらにネットにすら壁を作る、犯罪者は一生許されることなく(被害者はともかく、第三者に許す・許さないを決定する資格があるのだろうか?)、ハンセン病の患者は宿泊を拒否される。その果てにあるものはいったい何なのだろうか?
力というものが魔物であることは歴史を紐解けばすぐ分かる。自分は広告などBLOGに書かないからと言って安心しているそこのお前、広告かどうかを判断するのはお前じゃないんだぞ。そもそもこの宣言が何故「広告」と断言せず「自己利益」などという曖昧な言葉を使ったのか分かるか?拡大解釈が可能だからだよ。そう、やがてお前のBLOGを弾圧できるようにするためにな。マルチン牧師の言葉を思い出すがいいさ。
僕にはこの後の2ch-BLOGが手に取るように分かる。最初は広告を各個削除していくが、やがて面倒になり広告を掲載したIPを規制するようになる。そしてその内「名誉毀損となりそうな記事も削除していこう」となり、最後は「管理人の気に入らない発言は削除します( ̄ー ̄)ニヤリッ」となる。何度も繰り返されてきた歴史だ。
思えば、兆候は確かにあった。一部の特殊な住民の意向でトップ欄の記事が2ch-BLOGばかりになったり(「2chネラーの多い独特な切り口のちゃぶろの記事」だって。馬鹿じゃねーのか?ちゃぷろの連中の意見なんて、2ちゃんねるに行けば嫌と言うほど見れるじゃねーか、ここなんてまるっきり極東板と同じだ、「そんで「僕ちゃんblog作ったから兎に角見てほしいのっ!!」っう厨房テイストな思考回路のblogさんで埋め尽くされています。」とか言うが、お前だって人に見て貰いたいからわざわざチラシの裏じゃなくBLOGに書いてるんだろうが。正直格闘技に興味ないのにトップに出てくるあなたの記事はうざかった。だが、それは我慢すべき範囲のことなのだ)した。だがこれは明らかに別問題だ。トラックバックは削除しても本文は残る。だが、BLOG削除は本文さえ残らない!
僕は逃げよう。さようなら2ch-BLOG夫人よ。君は、どうする?