Rir6アーカイブ

2005-02-06


[宗教]幼児的全能感

「あなた」は言う、「君は幼児的全能感を脱し、本当の『個人』として自立しなければならない」と。

「僕」は思う、「それは嘘だ」と。

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「僕」が此処に居て、「あなた」がそこに居る。「僕」の考えている事は「あなた」には分からず、そして「あなた」の考える事は「僕」には分からない。確かにそう考えれば、「自己」と「他者」は違うという事が分かる。

だが、それでは「僕」は「僕」のことを分かるのだろうか?

「僕」の心臓、肺、胃がどのような状態なのか、僕は分からない。「僕」は、まず僕の「身体」が分かっていない。

では「心」はどうだろうか?「僕」は、今一体何を考えているのか?

「僕」は、「ここからどのような文を書きたいか」考えている。「僕」は、「テレビを見たい」と考えている。「僕」は、「お腹がすいた」と考える。「僕」は、「こんな文章書くの止めてオナニーしたい」と考える。そして「僕」は、「その様に考える『僕』」を考える。

それらは別々の僕のなのだろうか?それとも、あたかもウインドウズが本当は一度に一個の計算しかできないのに、それぞれ細切れに計算を行って、それによって擬似的にマルチタスクを実現しているのと同じなのか?

僕は、確かに観察する時は一つづつしか観察できなかった。「テレビを見たい」僕と、「お腹がすいた」僕は、厳密に言うと同時に観察できていない。そこには何かしらの時間の差が生じていただろう。いや、そう考えなければ「時間」というものは消滅してしまう。何故なら、全ての行動は時間を必要とするという、その論理が「時間」というものの存立の基盤となっているからだ。

だとすれば、やはり「僕」はあくまで一つであり、別々の「僕」は幻想に過ぎないのだろうか?

だがしかし、そこにまた僕は一つのおかしさを発見する。「僕」は「僕」の行動を観察しているわけだが、しかしその観察はあくまで「過去」の僕の観察である。何故なら、僕は一つしか無いが故、「行為」と同時に「観察」は出来ないからだ。

しかしここでまた「時間」という存在が、今度は障害として存在するようになる。「時間」は「行動」を伴うわけだが、またそれ故に「時間」は「変化」をも伴うようになる。この私達が生きている「世界」は、「無」では無いが故に、ある行為が行為単体で消滅せずに別の変化を起こし、それ故全てが絶えず変化しているのだ。

ということは、確かに「現在」に於いて私は一つな訳だが、しかしその「現在」の「僕」と過去の「僕」は変化するが故に同一ではないことになる。

おかしいではないか!何故「テレビを見る僕」と「お腹がすいた僕」の同一であるのに同一でないのか?きっとどこかに間違いがある。

僕は、その間違いは「時間」というものに存在すると思う。そもそも僕らは「時間」そのものを認知したりはしていない、僕らが認知しているのはあくまで「時間」に影響されることによって生じている変化だ。僕は今見た時計、そしてもう一回見た時計の差異によって(*1)「時間」を認識する。だが、そもそも「時間」なんてものはなく、「変化」は「時間」を必要としないとすれば?

大体、この世は全て「何か」によって満たされているとすれば、そこに時間が入り込む余地は無いのだ。「何か」Aと「何か」Bが何の隙間もなく隣接しているとして、AがBの方向へ動くのならBもまた同時に動くという事になる。そこに時間は介在しない。

とすれば、やっぱり「テレビを見たい」僕と「お腹がすいた」僕、そして「それを観察する」僕は別々の存在ということになる。

だがしかしそれでもやはりその「僕」と「僕」との別は「僕」と「あなた」の別とは違う。何故なら、相互に違う「僕」は、しかし違ってもお互いの考えていることを知る事は出来る。だが、「僕」と「あなた」はそれは出来ないのだから……

だが、ちょっと待った!「知る」って行為は、果たして本当に「知る」ということなのだろうか?

まず前提として、僕は他人の心を知る事は出来ない。もちろん推測することは出来る訳だが、しかしそれはあくまで推測であり、実際に本当にそうなのかは分からないのだ。

では、「僕」はどのようにして違う「僕」のことを知っているのか?二つの「僕」という主体は、お互いを知っていると言う。何故なら、相手が発する「私はこういう物です」という情報と、「僕」が思っている「もう一つの『僕』の像」は一緒だからだ。

だが、果たして本当にそうなのか?例えば僕が「あなた」について持っている像を言い、そしてその像に対して「あなた」が「その通りだよ」というサインを送ったとしよう。だが、通常それによって僕は「『あなた』の心を知る事が出来た」とは思わない。しかしそれが何故か「自己」という象限に於いては認められてしまうのだ。やはりそれはおかしいだろう。

とすれば、やはりそれぞれの「僕」という物はお互いを知る事は出来ないのでは無いか?とすれば、それぞれの「僕」は結局「他者」と同じということになる。

(大体僕はこの文に於いて「あなた」という言葉を使うわけだが、この「あなた」は当然実在する訳が無くて、「僕」と同じ所にいる物なのだ。しかし僕はそれを他者として扱う事が出来る。ということは、やはり「自己」と「他者」の区別は無くなるだろう)

さらに言えば、その沢山に細分化されたそれぞれの「僕」だって、そこに「自己観察」という行為が存在する限り、そこに同一性を見いだす事は出来なくなるだろう。何故なら、「観察」というものはそこに「距離」が無いと出来ないのであり、そうするとまた「観察される『僕』」と「観察する『僕』」という風に細分化されるのであり、結局どんな「僕」だってそこに唯一性や絶対性を認める事は不可能になる。

そうなのだ。実際のところ、僕は何も分からない。自分が何者で、何を求めているのかさえ。そして、何をしているのかさえも。

……あれ?おかしいじゃないか、もし「僕」が何も分からないとしたら、じゃあ僕は何を始点に分からないということを言えるのか?

そうなのだ。「何も分からない」というのは「何でも分かる」というのと同様の逃げなのだ。僕には只一つ分かるものがある。それは「世界」の存在だ。

「僕」がここに存在する。「あなた」がここに存在する。それは確かに「判断不可能」=「分からない」ことだ。だが、「無が無いこと=存在するもの(世界)が存在する事」、それは絶対に確実なものなのだ。「僕」が居ても居なくても、「あなた」が居ても居なくても、「人類」が居ても居なくても、「地球」があっても無くても、世界は存在する。これは絶対的に確実な事なのだ。

しかしそれは必ずしも「救い」を意味しない。

そもそも「世界」とは全てを包み込むものである。しかしそれでも人はこう思う。「『自己』と『世界』の間には厳然たる壁が存在する」と。だが、その「自己」=「僕」なんてものの境界線があるのかがわかんない事はこれまで散々話してきたではないか。

「しかしもし『自己』と『世界』が同一ならば、私は『世界』を思うがままに出来る筈なのだが、しかし実際は出来ないではないか!」と人は言うかも知れない。だがあなたは本当にそれをやってみたのか?「『世界』を思うがままにしたい」と言うが、「思う」って一体何なのだ?

通常僕らは「思う」という行為が―周囲から何かしらの影響を受けるとしても―「自己」より発すると思っている。そしてそれ故に、「思う」という行為はその「思った」事が成就して欲しいという自己の「欲求」から発生すると考える。だがしかし、「自己」というものがその仮面をはがされた時、それに依存する「思う」という行為もまた、仮面をはがされる。つまり、そこらへんにあるボールが転がるような、普通の「運動」へと変化するのだ。つまり、「思う」という行為の目的(=「欲求」成就)が無くなるのだ。ボールは確かに転がせばある一定方向に動くわけだが、しかしそのボールは別に何も「思う」ことはないし、そのボールが何かにぶつかったって、確かにボールは止まるが、それは果たして嘆くべきことなのだろうか?

そしてそれは人間にもいえる。全くこれは腹立たしいことなのだが、私達(*2)は自分の思ったことが叶わないとき、確かに落ち込んだり悔しがったりするが、しかしそれは即、死には繋がらないもの、ボールが壁にぶつかった時止まるのと同じことなのだ。その様な反応というのは結局自分を生かす為のものであり、第一落ち込んでいるときも人間はどっかで腹を減らして飯を食う。もし「目的」というものに絶対性を認めるなら、その目的が達成しなかったときは死ぬべきなのだ。

いや、実は死ぬ事すらも壁にぶつかって止まるのと一緒なのである。死とは一体何か?「分からないもの」なんて言うのはもう止めよう。実際「生」と「死」の差なんてものは相対的なものである。「死んだら二度と生き返れない」なんて言うけど、例えば僕が死んで単なる物となったとして、その物が分子となって他者の身体に入ったらそれは即ち「生き返った」という事だろう。大槻教授なんかは生まれ変わりの実在を否定する為に「死んだ人間の身体の原子が全て別の人間の身体と再利用されるなんてまずあり得ない」と言ったらしいが、私達は常に身体の原子を入れ替えながら生きているのだ。だとしたら別に全部の原子がそっくりそのまま入らなくても一部だけで十分だろう。「私」というものの絶対性が否定される以上、「生」と「死」の絶対性も否定される。生きる事に意味は無いし、死ぬ事にも意味は無いのだ。だから、生きる事を欲することも、死ぬ事を欲することも、結局どちらも安易なロマンチシズムに過ぎない。

(突然だが、僕がオナニーを激しく嫌悪する理由。それは、やはりそれが「生」の絶対性を激しく否定するからなのだ。オナニーというのは果てしなく無意味な行為だ。別にそれを行わなくても死ぬ訳じゃないし、何かが変わる訳でもない。でも僕はそれを行う。まぁ、考えればそれはどんな行動にも言えるんだけど、でもオナニーはより直接的にそれを表すわけで……ってんなこと誰も聞いてないか)

結局僕らはそこら辺に転がっているボールみたいに「運動」することしか出来やしないのだ。これの一体どこに「救い」を見いだせと言うのだろう?

そう、確かに「僕」=「世界」なのだ。この世界には意味は一つしかない。「存在する事」だ。ところが僕はそれを嫌がる。僕は「世界」を否定したくてたまらない。しかし、それすらも「世界」を存在させる為の運動の一つでしかなく、「僕」の絶対性を構成することは出来ないのだ。第一、こんな文を書きながら、僕は「学校に行く」という運動、「食事をする」という運動を止めることは出来ないからだ。(*3)あー、気分が悪い。

そして僕は知っている。こんな様な悩みもどうせ20歳を過ぎれば消えてしまう事も、大人になったらきっと今の悩んでいる僕を「あの頃は若かったなぁ……」とかそんな感じで見る事を、そして、僕は「人間」から「動物」になるのだろう……

でもやはり僕はそのような未来を容認する訳にはいかない。かといって死ぬ度胸もない。どうすればいいのだろう。僕は、何かを望む事が出来るのだろうか。多分出来ないだろう。でもなぁ……

(所で、僕が本当にこの様なことを悩んでいるのか疑問に思うひとも居るだろう。だがそれを裏付ける状況証拠がある。それは「括弧の多さ」だ。実際僕の文章の中に登場する括弧の頻度というのは殆ど偏執的だと自分でも思う。だが、それを僕は止めるわけにはいかないのだ。なぜなら、僕の指向の中ではあらゆる物の間の壁(*4)が溶けかけている訳だが、しかし一方でそれを認めたくない自分も居るわけで、その為に僕は存在しない壁を、せめて文章中では妄想的でも存在させようと思って括弧を付けているのだ。という訳で、読者の中には括弧が嫌いな人も居るだろうが、そればっかりはどうか許していただきたい。。。)

[カルト]カルト宗教の折伏に遭いました……

なんかこういう記事ばっか書いているからなのか知りませんが、中学の同級生から宗教のお誘いを受けてしまいました。

で、それが普通の宗教だったら別に断れば良いんですが、僕が受けたのは「[[顕正会]]」という、インターネットで調べてみるとそりゃあ危なそうな宗教みたいで、大変困ってます。

どうすれば良いんでしょう……

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それは僕が土曜日にのんびり寝ているときでした。突然電話が自宅に掛かってきまして、で、出てみると何か中学校の同級生のS(仮名)と名乗っていて、で、「日曜日に会いたい」とか言うんですね。でも僕はその人とは今は何の付き合いも無かったし、「何の用事なのか?」と聞いてもはっきり答えないのでで妙だなーとか思ったんですが、その時寝てて寝ぼけていたので、速く電話終わらせたいなと思い、ついつい待ち合わせの約束をしてしまったんです。

で、まあ近くのファミリーレストランで待ち合わせすることにして、で、翌日の日曜日(今日ですね)に行ったんですが、しかしそこにはS君の他に、もう一人居て、で、S君はその人のことを先輩のO氏(仮名)だと紹介したんです。

で、彼らは僕をそこのファミリーレストランの駐車場に止めている車の中に「とりあえず話でもしよう」と言って連れて行ったのです。思えばそこで逃げとけば良かった気もするんですが、しかしネットではあれだけ強気でいられる僕も現実世界ではとても小心者な訳で、僕はそれを断れるわけもなく、なすがままに車の中に連れていかれたんです。

で、その車の中にはさらにもう一人居て、彼らの紹介によるとその人はO氏の父だったそうなのです。全くどこの世界に親子同伴で世間話をする人が居るのか?まぁその時点で僕は「こりゃ何か怪しいものだな」と薄々感づいていたのですが、しかし一方で僕の中には「大人が居るんだったらそんな犯罪関係のことでは無いだろう」と思っていました。

で、彼らはちょっと車を走らせ(車はO氏の父が運転)、その間S君とO氏は世間話をし始めました。まぁ時々僕に声を掛けてくるんですが、殆どO氏が話をしてS君が頷くという感じで、「ああ、この二人には何かしらの上下関係があるんだな」ということを僕は感じていました。しかもその世間話(というか余りに一方的だったんで「話」と呼べるかは疑問なんだけど)は妙に流ちょうで、僕は何かそこに、そのような「世間話」を練習した跡を読みとっていました。

もうその時点で僕はATフィールド全開だったのですが、しかしそこで僕はあるものを発見しました。運転席の左の扉にあるポケットに「……F市支部」(「……」のところは隠れて読めませんでした)というのが書いてあるパンフレットがあるのを。

この時点で確信しました。「あぁ、やっぱり宗教か」と。

で、いつしか車はあるコンビニの駐車場に着きまして、で、何かO氏の父も車から降りてどっか行きました。しかしそこでもまだ世間話は続いてたんですが、しかしそれは段々大学受験の話になってきます。

O氏は「自分は受験で面接が苦手だったんだよねー」という話をします。そしてその話を一通りした後、彼はこう言いました。

「しかしそんな面接が苦手だった僕も、あることをやる事によって不思議と面接が得意になったんだよね。何か知りたい?」

キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

当然素直に「はい」という様な僕ではありません。僕は現実世界では確かに小心者ですが、しかしその分、よりひねくれているのです。当然僕は話しをはぐらかそうとします。(でもまぁ、結局車の中に居るんだし、話に付き合う以上その方向に向かうのは当然のことなんですから、無駄なあがきなんですけどね。)

そうそう、その時車は止まっていたのですが、しかし車のリモコンキーをO氏はずっと握っていました。今思えば、あれは僕が出ようとしたときに備えてのことだったのでしょうか……

で、話を元に戻すと、結局僕はどんなに話を振られても「知りたい」とは言わなかったので、結局O氏は一人で勝手に話し始めました。曰く「富士山に朝晩お祈りするだけでそうなるんだよ」と。

そこから先はもうS君とO氏によるステレオ折伏でした。「そもそもこの宗教を始めたのは日蓮上人というお方でね、彼は元寇を予言し……」、「これを初めてから僕もクラスでテストの順位が中間ぐらいだったのに何と三番になれた」、「俺なんか静岡県で一位だよ」、「親の胃ガンも早期に発見できてね……」、「アトピーが治った人も居るんだよ!?」、「へー、アトピーって治りにくいんでしょ?」……

そしていつの間にか「そうだ、君もちょっと家に来てお祈りしてみようよ!ちょうど夕方のお祈りの時間だし」という話に何故かなり、で、そのO氏の家に連れて行かれました。ちなみに、彼らの目はその時とても澄んでました。

家はここらへんでは極普通の家でした。ただ違うのは、その家からはお経がずっと聞こえてきているということと、家に頻繁に人が出入りしているということです……

で、僕はその家の中に連れて行かれました。しかし家の中には「日蓮上人に背く日本は必ず滅ぶ」という怪しいポスターがありました。それを見たときはさすがに僕もちょっと怖くなりましたが、しかしもう家の中に入ってしまった以上、逃げる事は不可能なのです。

で、僕はその家でおそらく一番広い部屋に連れて行かれました。そこでは大勢の人が壁に掛かっている掛け軸に向かって必死でお経を唱えていまして、で、その人たちに向かってO氏は「今日は新しい人が来たので皆さんちょっとお下がり下さい。」と言うのです。

そしてそこで僕はお祈りの仕方の話を一通り聞いて、で、実際にお祈りする事になり、しょうがないからナンミョーホーレンゲーキョーとか適当に唱えていました。

しかしやっぱり訳の分からない言葉を唱えていると必然的に人間っていうのはその内ぼーっとしてくるんですね。で、多分馬鹿な人はそれを「神さまが来たんだ!」とか思うのでしょうが、まぁこれでも一応こういう変なサイトを運営してますから、そういう現象についての予備知識はあったので特にそれで感動したりすることはありませんでした。

ただ「○○(僕の名字が入ります)のご先祖の霊様……」という文を読まれたときはさすがにぼくもちょっと申し訳ないなと思ったので、そこは心の中で「ご先祖様ごめんなさいね」と思ってましたが。

で、一通り終わった後、僕は何か「これからキンギョウを始める人の為に」という浅井会長という人の書いた文をO氏が読むのを聞いてました。まぁ聞いてたって言っても右から左に抜けてくんですがね。

で、お祈りのときに使わなければならない数珠と、お祈りの時に言わなきゃならないことが書いてある冊子をもらって

追記折角なので、写真を撮ってFlickrでアップロードしてみました。

Religious cult

やっとのこと家に帰して貰ったのです……「一週間後にまた来る」という言葉を残して

で、早速家に帰ってそのO氏に聞いた内容をもとにどんな宗教なのか調べてみたんです。すると……

顕正会年表弁護士紀藤正樹のLINCへようこそ!

01/07/02

入会断った男性に暴行=「顕正会」会員3人を逮捕-千葉県警(時事通信)2001年7月2日(月) 22時46分-TOPニュース01/07/03

 宗教法人「顕正会」(本部さいたま市)への入会を断った男性に暴行を加えたとして、千葉中央署は2日、暴力行為処罰法違反の疑いで、同会会員で設備業の桜井祐也容疑者(21)=千葉県佐倉市六崎=、無職太田隆司容疑者(20)=千葉市緑区大木戸町=、佐倉市の無職少年(18)を逮捕した。

 調べによると、3人は1日午後8時ごろ、千葉市中央区のJR本千葉駅前のガード下で、同会への入会を断って逃げようとした同県習志野市の無職男性(19)に殴るけるの暴行を加えた疑い。男性は軽傷。男性は同日午後7時から約1時間にわたって、同ガード下で3人から別の男性とともに入会の勧誘を受けていた。

ガクガク(((( ;゜Д゜))))ブルブル

顕正会とは顕正会被害者の会

 顕正会とは、浅井昭衛を会長とする、『国立戒壇』建立を最終目的とする、狂信的カルト教団です。 『国立戒壇』とは、日本国民全員が顕正会員になり、憲法を改正して顕正会を国教化し、国家的な意思を表明されて初めて建てることができる宗教的建造物です。

現在、会員数公称100万人と言っていますが、実数はその1割にも満たないと言われています。布教とは、名ばかりの強引な勧誘は、暴力事件、監禁など反社会的行為を全国で引き起こし、社会的問題として、マスコミでも取り上げられています。会館や、各地の拠点に連れ込まれ、嫌々入会させられては、苦情の声が届けられ被害者の会には、脱会希望届が多数保管されています。

大地震が起こるとか、外国が攻めてくるとか、何の根拠も無い恐怖心を煽り、日本を救うためと言っては特に未成年が勧誘に駆り立てられていますが、浅井の発言には、つじつまが合わず、冷静に考えれば誰でもおかしいと気付く幼稚な理論に踊らされている会員は、半ば哀れであり、その無法行為の被害に遭っている多くの人たちが救済されることを心より願い、顕正会の実態を公表していきます。

ガクガクガクガク((((((((;;゜Д゜))))))))ブルブルブルブル

対処の方法Q&A

Q8. それらしい電話がありました。電話での誘いはどのようにあるのですか?

A. 顕正会は、学校の卒業生名簿等、様々な名簿を利用し、ゲリラ的に電話で勧誘してきます。その手口は、あたかも知り合いのような話し方で、「久しぶりに会おうよ」「相談があるんだ」「聞いて欲しい話がある」等、電話口で顕正会の名は出さず、その正体を明らかにしません。言葉巧みに勧誘してきますが、その誘いにのってしまうと、ファミリーレストラン等に呼び出され、入会するまで帰れない状況をつくられてしまいます。ですから、そのような電話があった時は勇気をもってキッパリ断ることが大切です。また、あまり親しくない人からの連絡で、何の用か明確にせず、とにかく会いたいというケースには、こちらから「顕正会の勧誘ではないですか?」と聞く事も大切です。

orz...見事に引っかかった……

どうすれば良いんでしょう。というか僕はもう入会したということになってしまっているのでしょうか?でもまだ具体的に刑事事件になる様な被害は受けてないしなぁ……(←そう思っている内に泥沼へ引きずり込まれるんですね)うーん。

本当に皆さん僕はどうすれば良いでしょうか?僕は宗教は嫌いじゃないけどカルトな宗教団体は大っ嫌いなんです。とくにこういう集団は……何か知恵を下さい皆さん、お願いします。

(と言いつつ、一方では「良いネタが出来た」と喜んでいる僕も居るんだよな。とほほ。。。)


*1: 比喩的表現

*2: あえて「私」という言葉を使っている所に反抗の跡を読みとって欲しい

*3: まぁ、例え止めたとしたってそれは結局「我慢する」という運動に成ってしまうんだけどね……

*4: 「自己」と「他者」とか、「生物」と「物」とか