Rir6アーカイブ

2005-05-03


[情報社会論]「BLOGを書く」ということ

排気ガスを吐いて 腹ぺこのバスが来る

夢の先に連れてってくれんだ どうだろう

強く望む事を 書いた紙があれば

それがそのまま 乗車券として

使えるらしい 使えるらしいんだ

asin:B0002KVDCM:titleより「乗車権」

http://blog.goo.ne.jp/catchme_2005

それは生きるということ、つまり地獄

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最初は誰もが「戯れのない心だけ持って、この世界へと降りた」はずなのに(*1)

我先に群がり 行列出来上がり

ぎらぎらの目 友達も皆 どうしよう

強く望む事か 適当でもいいか

取り敢えずは 乗車券の替わり

何故人々はBLOGを書き始めるのか?それには色々な理由があっただろうが、少なくとも最初から人を非難したり、群れて誰かを攻撃するためにBLOGを書き始める人は居なかった筈だ。きっと、「自分が持っている情報を他人に教えて、その代わり他人から自分が知らない情報を教えて貰いたいから」とか、「もっと社会を良くするため」とか、「もっと友達を増やしたいから」とか、そんな穏やかな理由だった筈だ。もしかしたら、「ネット上で不毛な争いが一杯起きてるから、それをおさめる為」なんて理由だった人も居るのかもしれない。どっちにしろ、最初から何の意味もなくただ他の人を批判・攻撃する為にBLOGを書き始めた人なんか居なかった。

大義名分という名のごまかし

どけ そこどけ 乗り遅れるだろう 人数制限何人だ

嘘だろう これを逃したら いつになる

あぁ ちょっと待ってくれ 俺を先に乗せてくれ

なぁ どうせ 大層な望みでもないだろう

しかし……いつの間にかBLOGにおいて人は他人を批判し、そして攻撃する様になる。だがしかしそれは別に自分がBLOGを始めた理由を忘れたからではない(*2)のだ。何故ならその批判・攻撃には必ず「○○の為に……」という大義名分が付くからだ。曰く「彼を批判することによって、よりこの問題を明確に他の人に伝えられるのだ」とか、「彼がその行為を止めることは、ひいては彼自身の為になるのだ」とか、「彼を批判することによって、彼によって攻撃されている沢山の人を救うことが出来るのだ」とか。

そしてまた、その批判によって救われる人が居ることも事実なのだ。ある人の発言を批判することによって、そのことを感謝する書き込みがコメント欄に書き込まれる。「実は私もこの人の発言をおかしいとは思ってたんです。」とか、「最初私はあの人の発言を聞いて『その通りだよなぁ』と思っていました。しかしあなたの記事を見て、自分が騙されたことに気付きました。」とか。そしてそれに比べて、その批判された発言を擁護する人間は少ない(*3)。その為最初は「こんなこと書いて良いのかな?」と思っていても、後付けで「やっぱり自分は正しかったんだ」という自信を持つ様になるのだ。

だがしかし彼らは忘れている。本当に苦しんでいる人は、そもそもBLOGにコメントを書いたりして、発言する気力すら失っているということを。大体、「彼自身を批判しているのではない。彼が行った行為や、言った発言などを、彼自身の為に批判しているのだ。」と言うが、結局人間というのは、その行った行為や、言った発言によって構築されているのだ。だからそれを批判するというのは、彼自身を批判するのと何の変わりもないのだ。彼自身の為にと言うが、その様な「彼」は結局その人の中の幻想でしかない。だから批判は新たな批判を生み、その波は全てを覆う。

そしてカリスマが生まれる。

鈍い音で吠えて 食い過ぎたバスが出る

泣き落としで 順番譲る馬鹿がいた

運ばれて数時間 乗り継ぎがあるらしい

次の便は 夜が来たら 出るらしい

そしてその批判の応酬の中であるブロガーは脱落し、そしてそのある者を批判し脱落させたブロガーは、その功績により信頼を得る。何故なら、人は比較によってしかその人が話していることが正当かどうか確かめられないから。そしてその様な批判闘争の中で、常に批判に勝ち続けた者は強大な信頼を得、逆に一回でも批判闘争に負けてしまえばその人は一切の信頼を失う。しかし人々はそれでも批判闘争を止めることは出来ません。何故なら闘争を止めるということは即ち闘争に負けたことを意味するし、もしそうなって信頼を失ったら、誰も自分の意見に見向きしてくれなくなる―そしてそれはブロガーにとって「死」を意味するのです。

だから人々は必死で批判闘争に勝つことを目指す。でもどうやって?結局の所、批判闘争の勝ち負けは「多数派になること」でしか示せません。つまり、自分の方の意見が多数派になれば勝ちだし、逆に相手の意見が多数派になれば負けなのです。もちろんそのような議論の仕方は民主主義社会では極めて正当なものである。それは間違い有りません。(創発的権力とやらも、つまりはそういうことなのだろう。">*4)

ですが、殆どの人は自分の意見を多数派にする術など知るはずもありません。ではどうすれば良いのか?簡単です。「今現在批判に勝ち続けている人」に付いていけば良いのです。その様な人が出す意見に賛同の意志を示し、そしてその人が批判・攻撃する人を、自分も同じように批判・攻撃するのです。また、その様な行為によって、「今現在批判に勝ち続けている人」はさらに力を増します。(*5)そしてその様な人は「カリスマ」と呼ばれる。

しかしカリスマは倒され、そしてそれを倒した勇者がまた新しきカリスマとなる

あれ ここに無い でも こっちにも無い

なんで乗車券が無い

しかしカリスマになるということは決して良いものではありません。確かにカリスマになれば自らの記事を見てくれる人も増える。だがそれは、一方で自分に襲いかかってくる人が増えるということでもあるのです。何故なら、信頼を沢山持っている人を批判・攻撃することに成功すれば、その人が持っていた信頼をごっそり自分たちの物にすることが出来るからです。そのため、時には徒党を組んででも人々はカリスマを倒そうとします(*6)。もちろんカリスマもそれを分かっていますから、一生懸命そうやって戦いを挑んでくる相手と戦いますが、しかし戦えば戦う程信頼は増え、またそれは、それに群がる人々が増えることを意味しますので、この戦いに決して終わりはありません。そして、そんな中ふと油断して、世の中の多数意見と違うことを言ったりすれば、その途端カリスマは倒され、この批判闘争から脱落してしまうのです。

そしてそのカリスマを倒すのに重要な働きをした勇者は、そのカリスマの持つ信頼を優先的に受け継ぎ、新たなカリスマとなる。

だがそのカリスマでさえも、やがて倒される。

予定外 見付からないまま 日が落ちる

あぁ ちょっと待ってくれ 俺もそれに乗せてくれ

おい そこの空席に 鞄置いてんじゃねえ

そしてその新たなカリスマは、その様に、カリスマもちょっとした事で簡単に倒れてしまうことを知っているから、自分が倒されない仕組みを何とか作ろうとします。例えば、今まで述べた様な、BLOGのルールを示し

――なるほど。たしかに商品情報などは、雑誌や企業の公式サイトよりも、ブロガーの日記のほうがアテになることって多いですね。ただ一方で、ちょっとした一言が集中砲火を浴びやすいのもネットにはありますし。

隊長 ああいう集団ヒステリー現象は、書く側にもうかつな部分があるんですよ。歯止め策というか、書ききらない策というのが書く側にもう少しあっていいんじゃないかと思います。ネット住民は欺瞞に敏感です。両論併記をうまくやっていかないと、特定の方向の人たちから目の敵にされる。で、何かきっかけがあるとダーッと攻撃されるんです。

――隊長のブログは、そのあたりの裁き方が見事ですね。

隊長 やっぱり2ちゃんねるで経験したからだと思うんですよね。あのころ、自分のスレッドとか立って、「禿げ」とか書かれるわけですよ。最初、頭に来てしようがなかったけど、「他の人から見るとそういうことなのね」と自分なりに理解できるようになって、匿名で書いている人との間合いを自分の中で設定できるようになったんですよね。

罵倒されたときに、下手に削除なんかすると、かえって自分の手の届かないところでやられる可能性が高まるだけ。むしろ、無料でコンサルしてもらってるぐらいの気持ちで、罵倒されたことを取り込むぐらいにならないと。

そしてそれを肯定することによって、逆説的に自分はこの様なルールの観察者である=参加者ではないことを示したり

彼らはヒマであるがゆえに、社会に偏在する欺瞞に対する洞察が鋭い。

それは右派とか左派とかいう次元の問題ではなく、本質的に偽善や欺瞞を嫌うのであろうと思う。

彼らのなかにこれらの欺瞞が投げ込まれると、簡単に炎上する場合がある。

彼らは右翼でもやくざでも在日でも政治家でも教師でも部落でも塗装工でも芸能人でも高校生でも自殺者でもヤンキーでも左翼でも創価学会でも活動家でも犯罪者でも官僚でも大手企業でもマスコミでも

欺瞞でさえあれば程度の差はあれどんな問題にも喰いつくのである。

本当に時事に関心がなかったら、情報に接しても読み解く努力をしない。

しかし、いったん欺瞞が明らかになると瞬間風速的な集団形成が可能になるというのは、

相当リテラシーが高い人間が無意識かつ自発的に役割分担をして驚くほど広範囲に情報を伝達し、読み手に関心を持たせているからなのだ。

それは「ネット右翼」なる組織、つまり命令系統によって形成されるそれではない。

スピードが違いすぎるし、そんなものが組織できるのならとっくにしている。

むしろ、より高機能なネットワークが広がっているのだと思われる。

しかし例えその様にシステムを可視化したって、その様なシステムから逃れることは出来ない。確かにそのような可視化は一時的にバリアとなるかもしれないが、しかし結局それも人間が作り出したものである以上、何処かに穴があるのだ。どんなに頭が良くても、人は完璧でいることは出来ない。しかし信頼を得れば得る程、人は完璧であることをそのカリスマに要求する。そしてその要求が限界に達したとき、また革命が起き、新たな勇者が生まれる。旧世代のカリスマを供物として

そして人々は気付く。自分が結局は巨大な闘争機械の一つに過ぎず、やがて消え去る運命にあるということを

違う これじゃない これでもない 違う

人間証明書が無い 予定外 俺が居ない

やばい 忍び込め

しかしそんな果てしない批判闘争を続けて一体何になるというのか?成る程、確かにそういう果てしない批判闘争は、社会とその思想をより良きもの、より正しきものとする。だが、それが一体何だというのか?いくら社会が良くなったって、そこに自分たちが居なきゃどうにもならないじゃないか。もし完璧にユートピアな社会があって、そこに到達したら批判闘争は終わると言うのならまだ頑張れる。だが、そんなユートピアが無い、あったとしても決して到達できないことはもはや痛い程分かったじゃないか(*7)。だとしたらいい加減に批判闘争を止めるべきなんだ。批判闘争は一体何を生みだしたのか?累々たる死骸と、一握りの生存者、しかもその生存者達同士も未だに戦い続け、そしていつか負ける。決してそれを望んだ訳じゃなかったのに!

けどそれは出来ない。批判闘争を止めた途端、そこは「死」が待っている。もし死にたくなかったら、「僕は批判闘争を止めるから、あなたも批判闘争を止めなさい!」と、他人を批判するしかない。だが結局それは新たな批判闘争の戦術としかならない。「死」か「闘争」か、いや、結局闘争をずっと勝ち続けるなんて出来ないのだから、僕達には「死」しかないのだ。

もしかしたら最初にBLOGを始めた事自体が過ちだったのかもしれない。BLOGを始めるということ。それはつまり多くの他者の視界を取ろうとするという意思表示に他ならない。人は誰もが―出来ればより多くの―誰かに見られたい。にも関わらず人の数は有限だ。ということは、「他者の視界を取る!」という宣言は、つまりはまた別の人から、他人の視界を奪うという宣言と同義だったのだ。だが今更それを言ってどうなる?結局自分たちはもう既に始めたのだ。そして、例えここでどんなに叫んでも、今から始める人の心にはこの言葉は届かないだろう。何故なら闘争は心の中で始めると決めた時点でから始まるのだから。

誰も逃れ得ぬ「地獄」

あぁ ちょっと待ってくれ やはりここで降ろしてくれ

なぁ こんな人生は 望んじゃいない 望んでたのは

あぁ 見逃してくれ 解らないまま乗ってたんだ

俺一人 降ろす為 止まってくれる筈もねぇ

結局、全てのBLOGを書く人、いや、ネット上に文章を書く全ての人は(倫理的に)カリスマを批判できないだろう。彼らがもし罪を犯したのならば、自分たちだって同じ罪を犯しているのだから!しかしにも関わらず、私達は彼らを批判することからは逃れ得ない。他者は決して罪を許しはしない。もし彼らの罪を批判しなければ、自分たちの罪が批判される。しかし彼らの罪を批判したって、それは一時しのぎにしかならないのだ。止めたい。だが止められない……

いっそのこと本当にカリスマが完全無欠な人で有れば良かったのだ(*8)。もしその様な人が居るのならば、その様な人に付いていけば、少なくとも自分は安泰となるから。しかしその様な人は絶対に居ないのだ。

決して叶わぬノゾミ

強く望む事が 欲しいと望んだよ

夢の先なんて 見たくもないから


*1: asin:B000007VS8:titleの「幸せは罪の匂い」より

*2: と本人達は思っている

*3: もしかしたらバイアスが掛かって少なく見えるだけかもしれないが

*4: 創発的権力とやらも、つまりはそういうことなのだろう。

*5: ここら辺のからくりは「BLOGは面白くないのが当然だ、僕も含めて(id:rir6:20041217:1113765057)」に詳しく書いた。っていうはっきり言ってしまえばこの記事自体「BLOGは面白くないのが当然だ、僕も含めて」の焼き直しです

*6: =コメントスクラム

*7: ここら辺は「『悩み続ける』という戯れ(id:rir6:20050208:1113809554)」参照

*8: 実はそう願っているからこそ僕はあえて「カリスマ」という風にぼかしているのだ。僕は本気で今回の事件で、カリスマが起死回生の一発をやって、この文章が全く無効化することを望んでいます……