http://d.hatena.ne.jp/okra2/20050624#1119575392
共存を考えたときにグラフィッティの行為としての意味は無くなる。
例え相手が共存を望んでいなくても(この場合は彼らが望んでいないかすらも怪しいが……)、私たちは共存という選択肢をずっと示し続けるべきでしょう。それは別に彼らの為ではありません。私達自身の利益の為なのです。
====
つまり、グラフィッティの社会性を考えればそれは暴走族の暴走行為と同じ、「普段見失われている被抑圧者(という自意識を持った者)の意思表示」なわけで、反社会的だからこそ成立するんだと思うんですが。
どうも分からないんですが……皆さんが言う「グラフィティをやる奴らは反社会を目指してるんだ!」という断定の根拠は一体どこから来るのでしようか?むしろ僕から見ると彼らは反社会的というよりは非社会的(「社会に反抗している」のではなくて、「はなから社会という概念がない」)なのであって、別にその行為が社会的であろうか無かろうが気にしないのでは無いでしょうか?
それ以前にこのタイプの方は分析はしても意見は言わない(感情論としても)のは何ででしょう?
意見(提言)はもう既に「グラフィティの社怪学(id:using_pleasure:20031006:p1)」で書いてるからだと思います。あと感情を出さないのは、別に感情を無視してるわけではなく、それをそのまま出しても(グラフィティ問題の解決策を考える場合には)無意味だからだと思います。
あと、ここらへんの扱いが微妙な事柄に関しては、「論」だけじゃだめですよ。
実生活での感覚が抜けてる人と、社会的な問題に際してどう対面しろって言うのでしょうか。
実生活のドクサ(偏見)を抜いて考えるのは学問の基礎であり、そしてその学問的手法は社会的な問題に対し一定の効果は上げられているでしょう。
いいじゃん。もっと簡潔に書けば。
「マスコミが何か騒いでますが、やりたいことをやればいいんです。規制されればされるほど行動の価値が上がる」とか書けばそれで十分じゃなかったんでしょうか。
別にid:using_pleasure氏はグラフィティ側の主張だけを代弁したいんじゃなくて、グラフィティを描く側と地域住民の側、両方が幸せになる道を考えているんですから、そのような文章はid:using_pleasure氏の本意ではないでしょう。
今は迷惑なだけって気持ちの方が圧倒的に大きいんで、迷惑です。と同時に
- 法規制しても止めないヤツがいる。それどころか益々価値が増す。共存なんて無理だし、そういう子はどんな共存を図ってもやる時はやる。
- 問われるべきは絵の巧拙そのものよりも行為。
- そもそも受け入れられる必要なんてあるの?
って事で、今は「やめてね。」としか思えませんな。
だから別に「自分の家に落書きを描かれて迷惑だな。やめて欲しいな」と思うこと自体を否定している訳じゃないんですよ。むしろその様な気持ちを真剣に考えて、だからこそ本当に彼らが家の壁に落書きしないで済むような方策を考えるべきなんです。もちろんこれは強制ではありませんから、別に落書きが減らなくても平気ならば現状の取り締まりをどんどんやれは良いでしょう。しかしそれは問題の解決には全くならないのです。
>zeroset
そもそも「ヒトには好き嫌いがある」って単純な事実が何で分かんないんだろう。okuraさんも書いてるように、生活感覚が無くなってるとしか思えない。変な例えだけど、id:using_pleasureさんの家に突然クリスチャン・ラッセンがやってきて「これは芸術活動」とか言いつつ家や自動車にイルカの絵をガンガン描き始めたら、そして識者とかいう人がやってきて「ラッセンの絵は何万人もの人が芸術と認めているので、あなたも芸術と見なすべき。またラッセンは自然保護活動にも協力しているので社会的にも有益。抗議するより前に、行政に税金でお金を出してもらって保護すべき」なんて言われたら、どうするんだろ。……俺はやだな。単純に、趣味じゃないもん。
いや、だから別にid:using_pleasure氏は「自分(id:using_pleasure氏)がそれを素敵だと思うから」世間もグラフィティと共存しろと言っている訳じゃないと思うのです。「グラフィティは現代の一部の若者の構造的問題から生じているのだから、対処療法的にグラフィティを取り締まったってまた別の人間がグラフィティを書くだけだから」何かしら自分の家にも落書きされず、またグラフィティを描く一部の若者達も満足するような共存策を考えるべきだと言っているんですよ。
クリスチャンラッセンとグラフィティを描く一部の若者達との違いは、ラッセンは一人だけどグラフィティを描く一部の若者達は何千人~何万人も居るということです。もしラッセンが自分の家に落書きしてくるなら、ラッセン一人を逮捕して落書きを消せば済むことだけど、グラフィティは例えその描いた人を捕まえて落書きを消したとしても、また別の人が落書きしてくるのよ。何故ならグラフィティというのはid:using_pleasure氏が「グラフィティの社怪学(id:using_pleasure:20031006:p1)」で解説している通り構造的な問題に起因するものだから。よってもし本当に家に落書きされることを好まないのならば、公共の場に落書きスペースを作るなりした方がよっぽど功利的という話なの。
前朝生を寝ぼけ眼でぼんやり見てた時、その時の回は北朝鮮問題だったんですが、森本さんとか姜さんとかが一生懸命討論していたのを見て、何故かいつの間にか左と右の真ん中が定位置になってしまった:-)小林よしのりが、その討論のことを指して「なんかそこら辺の人達の討論を聞いていると、理ばっかりで情が全くない気がするなぁ」というようなことを言ったのね。で、まぁ森本さんとかの方はその言葉を笑って聞いてたんだけど、それに対し姜さんは珍しく結構大きな声を出して「情を大切にするからこそ理を駆使してなんとか情を大切にしようとするんだ!」という感じのことを言ったのです。
ま、だからといって情だけを語る人が居ても良いとは思うけどね。ただそういう人達が一生懸命理を駆使して情を守ろうとしている人に対し「お前らは情を無視してる」とか言うから訳の分からないことになるんであって………
良くこの種の問題(*1)で「共存」とか「寛容」とかを口に出す時誤解されるんだけど、別に「共存」とか「寛容」とかが必要な理由って言うのは、「人はみな助けなければならないから」とかそういう定言用法的な宗教的倫理ばかりでは無いのね。そうじゃなくて、もし「共存」を選ばなければ相手とは敵対することになる場合において、敵対する方と共存する方どちらが自分の損になるかを考えて、敵対する方が損になるから共存するという功利主義的な共存もあるのよ。また他にも、これから先自分がどのようなことになるか分からないから、自分がどんな環境になっても最低限の生存は確保できるようにしようという、セーフティネット的な共存もある。
で、今回の問題に限って言うならば、僕は今回の共存という方策は功利主義的であると言えると思うのだ。だって何回も繰り返しますけど、彼らがグラフィティを書くその裏には構造的問題があり、そしてその構造的問題が容易に解決しない以上、取り締まりの強化(*2)では、グラフィティを描く人間を生み出す根本の原因を取り除けないのだから、グラフィティを描く人間は無くならないのです。だとしたら、もし本当に自分の家に落書きされることを無くしたいなら、有る程度のお金を投じても、公共のスペースに絵を描く場所を作ったりして、グラフィティを描く人々と共存するしか道はないのですから。