結局僕が本気で考えていることは、「生きている。けど死にたい」と思う思考=志向をどうやって正当化するかってことなんだろうなぁ。
「生きたい、だから生きている」ということを正当化するのはとても簡単で、ただ生きていりゃ良い。そしてそれと同様に「死にたい。だから死ぬ」ということも、自殺さえしてしてまえば簡単に正当化されるんですよ(*1)。そしてそれ故に、その二つは別に両方とも苦しくはなく、何の助けも要らない訳です。でも「生きている。けど死にたい」ということを正当化するのは……無理でしょう。ですが、それにすがる人がいるのもまた事実なのですね。
さてそのような思考=志向の人は当然そのように「死にたい」と思っているから、まず既存の「生=正」という考えのもとに作られた様々な倫理になじめません。ここで「既存の倫理にはけっこうみんな反逆してるじゃん」とか言うそこのあなた!確かにその倫理がどのように具体的なものになるかはあなた達の中でも結構議論があります。しかしそのような方法が目指す根本目的に於いては、「生きたい、だから生きている」と言うあなたは全く疑いすらしない訳です。それが「生きている。けど死にたい」人である僕にとっては全くイライラする訳なんです。
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例えばこの文章
http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans/hs-j.html
これに対しては本当に既存の倫理に対しては反抗しているブログ界の奴らも全く賛同ばっか
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans/hs-j.html
なわけです。が、確かにこの文章は方法としては既存の社会に反抗する様なメッセージを出すふりはしてますが、しかしその根本目的においては既存の自己啓発メッセージや社会道徳と全く同じなんですね(だから僕はこの文章を批判する人が一人も居なかったことに絶望するわけなんだけどね)。それは「幸福になろう」です。例えどんなに方法論的に斬新なことを言ったとしても結局そこの点においては同じな訳です。実際この文章が伝えたいメッセージ全てに「幸福になる為に」を付けても何の違和感もありません。例えば「幸福になる為に怠惰を正当化するな」とか「幸福になる為に風上に立て」とか「幸福になる為に難しい問題に取り組め」とか「"幸福になる為に"時間を無駄にするな」とか……もっと抜き出すことも出来るけど、そろそろ抜き出してるこっちが吐き気がしてくるので止めにします。とにかく結局この文章を書いている人は、人々が全て「幸福」を求めてるかの様な前提を持ってこの文章を書き、そしてこの文章を賛美している人も、人々が全て「幸福」を求めてるという前提で持って「この文章は素晴らしい!是非高校生達に読ませたい」とか言ってやがる訳です。そしてその前提は確かに「統計学的に正しい」、つまり、「幸福」を求めてない奴なんてごく少数なんだから、そんな奴ら無視してしまっても殆ど不利益は無いんです。でも、世の中には「幸福」を求めていない、いや、求められない人だって居るんです。シェークスピアやアインシュタインやモーツァルトや金メダルを勝ち取った人を何故目指さなければならないのか?僕には全く分からないんですね。
しかしこの文章は「その様な態度(*2)は幸福を遠ざける」という再帰的な倫理(つまり全く馬鹿げた論理ってこと。トートロジーは決して論理の証明にはなりえません)で持ってその様な態度を否定します。
まず、高校にいるうちは知らなくてもいいことから始めよう。人生で何を為すかってことだ。
成る程。確かにそのように「何を目標とするか」という問いを他人が出すときは、結局その問いは「何を以て幸福になるか」という問いなのだから、その様な問いに答えることは無駄であるかも知れません(というか、明らかに無駄でしょう)。しかし、だからといって自らの問いとして「人生で何を為すか」という問いは決して考えなくて良いには(僕の場合)ならないのです。確かにそんなこと考えずに何が可能かを学ぶとか自分は何が好きなのかを発見する方が有益なことは事実です。が、むしろそれ故に逆説的に私達は「人生で何を為すか」を考えてしまうのです。何故か?「人生で何を為すか」という問いは、実はその裏に「(人)生そのものを肯定出来ない」が故に生じる「人生では何かを為さねばならない」という強迫観念を潜ませているからです。それを無視して何が可能かを学ぶとか自分は何が好きなのかを発見しろなんていうのは傲慢以外の何物でも無いでしょう。さらにこの文章を書いた人は次の様な文章を書いて「反抗」を否定します。
じゃあどうしようかね。ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。ぼくは反抗した。それは間違いだった。ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、なにか臭いものを感じていた。だから全部投げ出したんだ。なら、どうなろうと知ったことか、ってね。
教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、ぼくはこれでおあいこだと思った。そんな授業でいい点数をもらってどんな意味があるっていうんだ。
今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、おまえ反則しただろ、ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。反則はどうしたって起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。ただゲームを続けるんだ。
きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。そう、きみが思っているように、授業で習うほとんどのことはクソだ。そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。でも、反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない [7]。だから、ただゲームを続けるんだ。
最初この文章を見たとき、僕は本気でこの文章の意味が分かりませんでした。最初に世界がクソとかそういうメッセージがあるので、つい自分の持ってる「世界は最悪だ」という思想と重ねて考えてしまったのですね。しかし通して読んでみて分かりました。要するに彼が言っている世界がクソっていうのは別に例えば思想的に「何故不平等が存在するか」などを考えて「人間は結局闘争から逃れることは出来ない(id:rir6:20050606:tousou)」という考えに行き着くとか、「三秒に一人の子供が死んでいるのにそれに対し殆ど何も感じない自分(id:rir6:20041124:1113764820参照)」を考察して、「結局の所、人の存在に意味など無い(id:20050427:1114540784とか参照)」と絶望するのとは全く種類が違うんですね。じゃなけりゃ↓みたいな見ているこっちが頭痛くなる脳天気な意見は書けないはずです。
[7] どうして社会が君にファウルするんだろう。その主な原因は、無関心だ。高校を良くするという外圧が全く無いからだ。航空管制システムは優れたシステムだが、それはそうでなくちゃ飛行機が落ちてしまうからだ。企業は製品を作らないとライバルに客を取られてしまう。でも学校がダメになっても飛行機は落ちないし、競争相手もいない。高校は邪悪なのではなく、ただランダムなんだ。でもランダムであることは、かなり悪いことだ。
企業はファールしないと!へー、だったらこれは、これは(この文章を書いた外国人にも分かる様に外国の事例を敢えて紹介していますが、もちろんこういったことは日本にも山程あります)一体何なんでしょうねぇ。ジョークとしても醜悪過ぎるでしょう。被害者達にとっては悪意があろうか無かろうが関係ない。そして、最も重要なのはこの様な被害はいつ自分に置き換わるかも分からないのだ。確かに最初はこういう私達の遙かに遠くでこの様な犯罪は行われる。しかしそれを一旦見て見ぬ振りしてしまえば、企業はそれによって免罪符を得、私達の周りでも犯罪が行われるようになるでしょう。そして私達にはそれを止める道理は無いのです。だって途上国の人達も私達も同じ人間である以上、途上国の人達に許されたことが自分たちには許されないなんてことはありえないのですから。
だからといって僕は―今までのは話をひっくり返す様に思えるかもしれませんが―反抗が有効だとは思いません。結局どんなに小手先でやりくりしたって、人間が生きてる限り闘争は無くならず、不平等は無くならないからです。でもだからといって「生を肯定」=「不平等を肯定」することは僕には出来ないんです。
しかしこの文章を書いた人はそんなことまで考えて世界がクソと言っている訳でなく、ただ「自分が行ったことが無駄になる」ということを以て「クソ」とか言ってるんですね。だからもしその行為が有益であるなら、その行為がどんなに他者を傷つけたって「クソ」ではないのです(そのような利己的行動という基準も論理的には崩壊したんだがなぁ……id:rir6:20050425:1114379319参照)。この文章を書いた人は言います。これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、おまえ反則しただろ、ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。反則はどうしたって起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。ただゲームを続けるんだ。と。しかし「何故そのゲームに参加しなきゃならないのか(or参加するのは嫌だ)」とは決して思わないんですね。その「ゲームに参加すること」=「生きること」は再帰的に賛美され、そしてそれを以て「生」への反抗は否定される。そのことが僕には嫌で嫌で仕方がないのです。
ではどうすれば良いのか?簡単なことです。この文章が批判する方向へ行けば良いんです。例えばこの文章ではこんなことを言うんですね。
大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。教授たちはみんな手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を発表している。でもね、確かに難しい考えがいっぱい詰まっているせいで理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。こんなふうに言うと中傷に聞こえるかもしれないけれど、これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。ある物理学者が、人文科学者の論文には、知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものがしばしばあると考えた。そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、人文科学の学術誌に投稿したら、その論文が採択されたんだ。
まぁこの『ソーシャル・テクスト』事件っていうのは結構その当時も問題になったことで、まぁ確かにこの文章を書いている人みたいに「学問は生という『幸福』(幸福なんてものは生を肯定しない限り生まれ得ない!)の為になされるのだ」なんていう脳天気な信条を持った人にはとても衝撃だったろうし、そしてまたそういう信条の為に『ソーシャル・テクスト』事件によって批判される様な人文科学(要するに「現代哲学」とかそこらへん)を学んでいたひとにとっても衝撃的だったでしょう。
しかしそれはあくまでそっちの話。そりゃそもそも「思想」というのはそんな脳天気な信条を持った人には向かないんだから、そんな人がなまじ皮相だけ「現代哲学」を身につけたって、そんなもの否定されてしまうのは当然。別に「現代哲学」が悪いんじゃなくて、単にそういう脳天気な信条を持ちながら「現代哲学」を学ぼうとしたその人が悪いんですよ。
だからそれとは反対に「生=正」をいまいち肯定出来ない人にとっては、この問題は何ら特筆すべき「問題」ではなく、またそれ故に現代哲学は未だそのような人に魅力的なものとして存在している訳です。だってそうでしょう?要するにこの『ソーシャル・テクスト』事件が「問題」として扱われるには次の様な「世の中には絶対に正しいものがあるが故、その正しいものから正しい言葉の使い方が導きだされ、そしてそれは人間を正=生へと導いてくれるのだ」という前提が必要なのです。そしてそれ故に、彼らは「正しい言葉の使い方をしていない!」として「現代哲学」を批判するわけですが、しかし「現代哲学」っていうのはまずその様な前提を疑うんですね。例えば、「彼らはこれをでたらめ論文というが、しかし何故書いた人がそれを『でたらめ』だと言っただけでそれが『でたらめ』だと言えるのか?文章というのはそれを読む人も含めて共同で価値を規定していくものであり、原作者が全てを決められるなんていうのはおかしくないか?」とか、「そもそも何で『でたらめ』だからといってそれが否定されなければならないのか?『でたらめ』なものが有害で『でたらめ』でないものが有益なんてどうして言えるのか?」とか、そんな風に幾らでも突っ込み所があるのです。しかし何故「現代哲学」はそこまで疑うのか?その答えは簡単です。「現代哲学」は「生=正」という前提を持ってないんですね。例えばこの『ソーシャル・テクスト』事件を「問題」として扱う人は正しい言葉遣いをすれば世界はより良くなるなどと言いますが、しかしその世界が良くなるって一体どういうことなのでしょうか?多くの人が生きること?じゃあただ生きるだけで人は幸せなのか?そんな疑問がふつふつと沸いてくる。そういう人こそまさに「現代哲学」に向いている人なのです。つまり「現代哲学」というのは本当にそういう前提すら崩壊してしまった人の為の学問な訳で、そうでない人、つまり「学問は生という『幸福』(*3)の為になされるのだ」なんていう脳天気な信条を持った人にとっては馬鹿らしく見えても仕方がないのです。いや、むしろ彼らに馬鹿にされるからこそ、「現代哲学」は考えるに値する学問足り得るのかもしれません。
さて、文に戻りましょう。どんな特定のジャンルについて批判しているか。ということを中心にしてこの文章を読んでいくと(そしてそれがこの文章を生かせる唯一の方法だ)こんな表現に出くわす
悪いモデルに気をつけよう。特に怠けることを肯定するようなものにね。ぼくは高校生の時に、有名作家がやっているような「実存主義的」短篇小説をいくつか書いたことがある。そういうものっていうのは、読んで面白い小説を書くよりも、たぶん簡単だ。これは危険信号なんだ。そのことを知っているべきだった。実際、ぼくが書いたものはどれも退屈だった。ただ、有名作家みたいに知的で厳粛なものを書くっていうことがすごいことに思えてただけだったんだ。
今はもう十分に経験を積んだから、そういう有名作家が本当は全然たいしたことないってことがわかる。
成る程!「実存主義的」短篇小説を書けば良いんですね!これはなかなか為になる言葉でしょう:-p。前にも僕はid:rir6:20050329:1113813528で「実存主義」が本当は根っこにとてもどろどろしたものを抱えており、そしてそのどろどろは小説においての方がより良く出る(isbn:4409030426:titleと比べてだけど)ということを言いましたが、まさにそのような考えはこの文章を説明しようとするときにぴったり当てはまります。つまり、「生きたい、だから生きている」と考えている人にとっては「実存主義的小説」はとても嫌なものらしい。ということは、逆説的に「生きている。けど死にたい」という様な人にはとても心地よいものとなるんですね。というか、よく考えるとそれはまさにロカンタン(isbn:4409130196:titleの主人公)ですよね。
なるほど、確かにもし「実存主義的小説」を書こうとするなら、それが「退屈」になるのは仕方ないでしょう。しかし「退屈」が否定的な意味を持つのは「退屈でない」ものが存在しなきゃなりません。しかし確かに「生きたい、だから生きている」と考えている人ならば生きることそれ自体が素晴らしいものとなるのですから当然生そのものを「退屈でない」ものに出来るのかも知れませんが、しかし「生きている。けど死にたい」と考える人にとっては、生きていることそれすらも「退屈」なのですから、「退屈」/「退屈でない」の二分法は意味を失う訳です。そして、「生きている。けど死にたい」と考える人にとっては、むしろその二分法を越えた場所にこそ小説の真の価値があると考えるのですが……まぁ「生きたい、だから生きている」と考えている人には理解出来ないでしょうねぇ。
しかし何ではてなダイアリーでさえこの文章を批判する人が一人も居ないのか……本当に、「既存のBLOG界は素晴らしい」なんていう幻想が嘘であることが良く分かりますなぁ(id:rir6:20050626:children参照)。こういう様な文章に騙される人が何で偉そうに子供たちに「メディアリテラシー」なんか語れるのか、世の中には本当に不思議なことばかりですねぇ。。。