Rir6アーカイブ

2006-01-23


まだ二次試験は残っているわけだがとりあえずセンター試験は終わった(……)ので、一息つける意味で一日(23日)だけ記事を書く。

[政治的批評]鬼束ちひろを非モテ・非コミュ達は政治的に聞け!

目の付け所は良い記事だと思う。だがはっきりいってそれだけの文章だ。世間話のタネにはなるかもしれないが、それ以上の何者でもない。

まずこの文章が何を目的としているのかがはっきりしていない。今日は、非モテ・非コミュはどんな女性アーティストが好きかっていう話です。という最初の文を見る限り、この文は非モテ・非コミュたちがどんな音楽を好きなのかについての社会科学的な分析に思える。しかしその後彼は「非モテ・非コミュ達は自作自演系アーティストが好きだ」と言っているが、それを示す裏づけは全く示されないのだ。もっともこれは内容というよりは形式の問題であって、例えば「私は非モテ・非コミュだからこんな歌手の曲が好き」とか「非モテ・非コミュ衆はこんな曲を聞くべきだ!」(*1)というものだったら別にデータなんか全く必要でないのだが、しかし最初にどんと「私は今から『主張』ではなく『分析』を書きます」と言ったからには、データを出すのは絶対不可欠なのであって、それができていない限り、[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20060121%23p2:title=はてなブックマークでの反応]にもある

「自分はこれが好き」と書けばいいものを、他者の欲望に恣意的に押しつけるやり口は、「今年の春は○○が欲しい!」と煽るモテ資本の戦略と同じ。さすが彼女餅の考えることは違う

ように、「自分の好みを分析文に載せて語るな」という批判を受けて当然なのである。

でもこの文章にはそれよりもっと重要な問題がある。それは

「鬼束ちひろ」を他のCoccoとか椎名林檎とかと一緒にするな!

ということだ。これは「価値観の相違」とかでは絶対に済まされない問題である。何故なら「鬼束ちひろ」という存在はそのような「価値観の自由」とか「言論の自由」という<正義>を揺るがす、多分に(反)政治的な存在だからだ(そしてそうだからこそ、非モテ・非コミュは彼女の歌を政治的に聞かなければならない)。これを認知しない限り、どんなに鬼束ちひろのことを論じてもそれは「鬼束ちひろの世間的イメージ」への評論であって、「鬼束ちひろ」には到達しないのだ……。

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Cocco・椎名林檎に自意識はあるか(いやない)。

先ほどの記事では次のような記述を持ってCocco・椎名林檎と鬼束ちひろを「自作自演系」としているが

なんちゅうか女性アーティストで非常にアーティスト性と自意識がお高くいらっしゃる方々いらっしゃいますよね。そういった方々の総称です。名前はともかく、ここを1グループに括るのには違和感ないと思われます。

違和感大有りである。確かにそれらの人々はシンガーソングライターですから、自らが歌を作っているという意味でアーティストとしての自覚はある。でもそんなこと言ったらフォークシンガーだってみんな「自作自演系」になってしまうのだ。だから問題は「自意識」ということになるわけ。では彼女らは果たして「自意識」を持っているか?

反感を承知で言おう。Cocco・椎名林檎らか書く歌詞には確かに自らを指す一人称の単語(「わたし」とか……)が数多く見られる。しかしそのわたしはあくまでその歌の主体の周りにあるコミュニケーション世界(歌う主体にとっては歌う本人の周りにあるコミュニケーション世界のことであり、聞く主体にとっては聞く本人の周りにあるコミュニケーション世界のこと)によって秩序付けられたコミュニケーションツールとしてのわたしであって、世界に密着、というより同化した、極めて動物的なわたしであり、そしてそうである以上、それは「自分」ではあるかも知れないが、「自意識」ではないのだ。

例えばCoccoには「カウントダウン」という曲↓

まだ間に合うわ今なら

まだ戻れるわ急いで

あの女にはできない

この想いには勝てない

さぁ 早くして

撃ち殺されたいの?

血迷った過ちに

気付いて泣き叫ぶがいい

はり裂けたこの胸に

甘えてごらんなさいな

時間がないわ

跪き手をついて

わたしに謝りなさい

力なくしなだれて

わたしを愛していると

つぶやきなさい。

成るほど確かにこれにはわたしが出てくる。きっとこのわたしは恋したあと結構のめり込んで相手にうざがられて、で別れを言われるんだけどそれに納得できなくてストーカーとかしちゃうんだ。それで周りからは「あの娘は顔は良いんだけど性格がねー。」とか言われてて、精神科に通って何か薬とか貰っているのです。極めてありふれた、ある種予定調和の光景だろう。椎名林檎も同じ、彼女の場合はそこにちょっとインテリアとしての「知」が入ってきますが、それがまた一層歌詞におけるわたしをコミュニケーションツール化する。そのコミュニケーションツールとしてのわたしという地平においては、彼女らの曲はモーニング娘。だったりゆずだったりの歌と特に差異は無いのだ。

もちろんコミュニケーションツールを全否定する気は更々無い。コミュニケーションツールとしてのわたしが自分のコミュニケーションを円滑にするなら、それこそ携帯電話を使うようにわたしという道具を使えば良い。ただ勘違いするな、あなたたちがそのようにわたしを道具として、自らのコミュニケーション世界における役割として消費する限り、それは世界と同化した「モノ」であり、そこに世界とは離れたものであろうとする意思、つまり「意識」は一寸たりともない。(世界との区別無きものが身体を支配しているという意味で、彼らは動物的である)

鬼束ちひろが歌う(=認識する)「世界」の構造

それに大して鬼束ちひろの歌詞はどうか?例えば『月光』の歌詞は

I am GOD'S CHILD

この腐敗した世界に堕とされた

How do I live on such a field?

こんなもののために生まれたんじゃない

突風に埋もれる足取り

倒れそうになるのを

この鎖が 許さない

こんな感じだ。そして

その歌の主体が苦しいのは分かるんだけど、でもその苦しみの原因が何なのかは具体的に指し示されない。これが鬼束ちひろの曲の特徴なのである。そりゃ一応歌詞の中に

貴方の感覚だけが散らばって

とか

最後になど手を伸ばさないで

貴方なら救い出して

という文はある。しかしじゃあ具体的にどんな状況なのかは分からず、そもそもこの「貴方」が誰なのかさえはっきりしない(「彼氏」かもしれないが「親」かも知れず、「親友」という線もある)。何故ならこの「貴方」に関する文章はその貴方の属性には殆ど関係ないから、逆に言えば(大文字小文字問わず)どのような他者も「貴方」になりえるということなのだ。

(一応言っておくと、今話していることは鬼束ちひろの大体の傾向について述べているのであって、当然このような傾向に当てはまらない、それこそCoccoや椎名林檎と同じような歌も鬼束ちひろは歌っているのだから(*2)。しかしその様な曲は少ないし、更に言えばそれらはデビュー初期に集中しており、路線が定まった中後期においては、この様なコミュニケーションツール的な曲は殆ど無いのだ。)

しかし何故そのように鬼束ちひろの歌詞は曖昧なのか?先ほどの記事でも鬼束ちひろは

電波っていうよりも意味不明。意味不明なんだけどよくよく聴いてみると怖い内容

という風に評されているが、このような理解は正しい理解であり、そしてそれゆえ鬼束ちひろを評するにあたっては全く意味を為さない(何故ならそのような「正しい理解」である限り、歌詞が意味不明な理由を単なるマーケティング上の理由(*3)としてしか捉えられないのですから。それが正しいか間違っているかは知りませんが、少なくともそんな評論に意味は全くない)。問題はその意味不明さを確固たる「意味」としてメタ的に捉えられるかなのだ。

ここで再び「自意識」というものに焦点を当てたい。「自意識」というものが成立する為には、当たり前だが「自己」と「他者=世界」の間に断絶が必要となる。というか「自意識」とは「自らを意識する=自己と他者の差異・断絶を感じる」ことなのだから、「自己」と「他者=世界」の間の断絶こそが自意識だと言っても過言ではない。Coccoや椎名林檎の歌に何故「自意識」が無いかと言えば、その「自己」と「他者=世界」の間にある区分けが、その歌の状況を理解するという行為によってその断絶が埋められるからである。

それに対して鬼束ちひろの曲はどうか?実は鬼束ちひろの曲においては、「貴方」という言葉は椎名林檎やCoccoと比べてそれほど重要な言葉ではない。例えば彼女の『シャイン』という曲の歌詞を読んでもらいたい。

恐れのない空気 私は幼く 曇った気持ちを 葬ったわ

干からびた笑顔 細い両腕は 何度でも 毒に まみれながら

It pressed me It pressed me It blamed me again and again

椅子を 蹴り倒し 席を立てる日を 日を 日を 日を 日を

願ってた

痛みを清める 鮮やかな花吹雪 忘却の空は 晴れない

It pressed me It pressed me It blamed me again and again

椅子を 蹴り倒し 席を立てる日を 日を 日を 日を

It pressed me It pressed me It crushed me again and again

ボロボロになって 起き上がれる日を 日を 日を 日を 日を

『月光』よりはむしろこの曲の方が鬼束ちひろというアーティストの存在の意味を端的に表しているでしょう。この曲はとにかく「苦しみ」を訴えるわけだが、しかしじゃあその苦しみは一体何処から来るのかは、この曲は全く触れていません。それどころか「私」以外のどのような生物もこの曲には出てこないのだ。ではこの曲には「私」以外の何も無いのかというと、もちろんそうではありません。「私」を苦しめ痛み付ける何かがあるのだが、しかしそれが何なのかは全く意味不明なのだ。その理解と不理解の差こそが「断絶」となり、そこに断絶が生じるわけで、「意味不明」はそのような仕組みで自意識存立に重要なメタ的意味を持っているのだ。

しかしこの自意識存立機制は、確かに何かしらの確固たる規律(=大きな物語)をもとに「自己」と「他者」を区別することが出来なくなった現代においては、唯一と言っても言い自意識存立機制なのだが、しかしその一方でこれは「理解不能」というものを常にメタ的に理解しなければならないのに、メタ的に理解されたらそれはもう既に「理解不能」ではなくなってしまうという根本的矛盾を抱えているのだ。

この矛盾を解決するにはそのメタ的理解の外に「理解不能」なものを認知し続けなければならない。つまりこの自意識存立機制は、常にそれを用いる人に外に外に革新することを義務づけるのだ。鬼束ちひろという存在がデビューしてからどんどん自らの歌い方であったり歌詞内容を変化させるのもその義務によるものである。

何故非モテ・非コミュは鬼束ちひろを政治的に聞かなければならないか

そして―ここからが本題なのだが―実は非モテ・非コミュ達に鬼束ちひろを政治的に聞くことを進めるのも、実はその鬼束ちひろという存在の革新性に起因する。何故ならその「自意識を常に持ち続ける」というのは、前にid:rir6:20051213:1134428417で非モテ・非コミュがすべきこととして挙げた「『日常』価値観を破壊する」ということと殆ど同義であるからです(「日常」においては何もかも予測範囲な為、当然断絶は生じず自意識も生じないのだ)。つまり鬼束ちひろは非モテ・非コミュの方法論的先駆者(*4)なのです。だから非モテ・非コミュは彼女の軌跡を参考にすべきなのです。

しかし参考にするといっても、ただ彼女の歌を聴けばいいと思ってはいけません。彼女は先駆者であるわけですが、しかし先駆者は必ず何処かで誤った道筋も通ってるのですから。

例えば彼女は『イノセンス』でこんな歌詞を歌っています。

足を鳴らすけど

闇から逃げられずに

感情(こころ)がにがい

僕は無罪だけど

君が 君が 奪って行く

小さな隙間さえ

足りないなら そう言って

与えるから そう言ってよ

君は何処を見てるの?

僕の目を見ずに

足りないなら 求めて

全然足りないと

そして僕は報われる

君の海から助かる

だがはっきりいってこんな歌非モテ・非コミュには何の参考にもなりえない。だってこんな経験がある人はそもそも非モテ・非コミュでは無いでしょ。ただ漠然と聞いているだけでは鬼束ちひろは決して為にならない。彼女が用いている方法論について自覚的になり、そしてその中で成功した事例だけを取り捨て選択して、最大限に利用しなければならないのです。そのようにその文章及びそれを聞く自分の構造(*5)を自覚しながら、それでも敢えてその構造で読むことを、政治的に聞くという言葉で表現しているのです。

(この「政治的」という概念はカール・シュミットの概念とは微妙に関係ない。要するにイデオロギーに自覚的であることを指す為に使っているのだ(非モテ・非コミュについて語った記事のコメント欄キャシャーンが批難されるのは、メッセージに還元して作品の未完成度を誤魔化すという俗情との結託に賭けている点でしょう。まあメッセージ云々いってしまう奴らは、何も観てないといっているに等しいですけどwという馬鹿野郎なコメントがあるが、これは政治的な読み方ではない。何故ならメッセージを伝えることは「俗情だ!」と言って批判するくせに、「作品の完成度」というイデオロギー(「作品の完成度」を重視するか否かも当然イデオロギーであり、相対的な指標に過ぎない)については神聖化しているからだ。その記事ではCASSHERNという映画を政治的に読み解き、そしてメッセージのイデオロギーと「作品の完成度」というイデオロギーをそれぞれ比較対照して、敢えて前者を優先すべきだと結論出来たのだ。その文章で述べた「俗情との結託」とはそのようなイデオロギー考察を抜かしてある一つのイデオロギーに乗っかることを指しているのであって、その視点から考えればコメントを書いた人の方が余程「俗情との結託」を行っていることが一目瞭然であろう">*6)。もっと他に良い言葉があったら教えてください。)

鬼束ちひろを政治的に聞く方法

は自分たちで見つけなさい。

と言いたい所だが、それじゃ酷だと思うので幾つか例をだそうと思う。

まずは『everything, in my hands』

「貴方のようにはなりたくないの」 そしてこの耳を潰したくなる

「貴方のようには決してならない」 見事な嘘など踏み付けたくなる

案外何もかもが この手に在りそうな気がしてるのに

「私ならどうにでもなる」と 手当たり次第放り投げてみる

この身体が血を噴き出す程 ぶつかれる壁があればいい

貴方のようにはなりたくないの ずっと内部で高鳴り続けるのは

貴方が教えた聖書の裏側 "足りなかった"なんてよく在る結末

ねえいい景色だと思う? 貴方が愛を押し込んだ瞳に映るのは

「私ならどうにでもなる」と 荷物を置いて走り出してみる

説明など敵わないくらい 真っすぐに進めればいい

案外何もかもが この手に在りそうな気がしてるのに

いつになればこの仕組みが 狂い始めてくるのだろう?

いつからすべては儚さを 増して行ったのだろう?

「私ならどうにでもなる」と 手当たり次第放り投げてみる

この身体が血を噴き出す程 ぶつかれる壁があればいい

ぶつかれる壁があればいい

ぶつかれる壁があればいい

一目読んだだけで分かる人は分かるだろうが、この文章は「貴方のようには決してならない」 見事な嘘など踏み付けたくなるという他者の拒絶案外何もかもが この手に在りそうな気がしてる全能感に溢れ、まさに非コミュのお手本と言っても良い。貴方が教えた聖書の裏側 "足りなかった"なんてよく在る結末なんてエヴァのトラウマ克服にちょうど良いし、いつになればこの仕組みが 狂い始めてくるのだろう?とかはまさに「日常」の破壊そのものである。

しかしこの曲は単体ではあまり意味を為さない。何故ならこの曲は行うことは示してくれるが、その行うべきことを行う為のエネルギーの出し方は示してくれないからだ。

そこで今度はこの曲が収録されているアルバムの一曲前の曲『シャドウ』を参照してみよう

結局今まで私を裏切ってきたのは私

非情が突き刺さる丘で この目は覚めただけ

愚かさに縛られないように 這い上がったつもりでいて

この爪は綺麗なまま

満たすの 満たすの 自分を満たすの

「そうすることで手が放せない」と 精一杯笑ってみせて

脆さを暴くの 身体が割れるような

瞬間を待つの 待つの

待つの

誰かの何かがトドメを刺すのを待ってる私

「そんなものじゃ効かない」と微笑んでいるけれど

居心地の悪さに酔って 上手く立てないでいるの

ここが何処だって同じ それが私なら同じ

実はこの自己批判曲があるからこそ『everything, in my hands』はその劇的な力を発揮していると言えるのだ。つまり非モテ・非コミュは自らが「日常」によって苦しめられている一方で、その日常に安住している側面もあるのだ。まるであたかも昔「日米ブルジョワ帝国主義粉砕!」を叫んだ学生達が、その当のブルジョワ帝国主義政府が運営する大学に居たように。だからこそ、やがてそのような学生達が「大学解体!」と自らを批判し始めたように、非モテ・非コミュも自己の日常性を批判し、そしてそれにより自らの持つエネルギーを最大限にまで引き出す。そういう機制がこの二つの曲の並びには実はあるのでは無いかと感じる。

なお、この後も鬼束ちひろは『everything, in my hands』的曲を作り続け、次のアルバムでは『everything, in my hands』の攻撃性をさらに増強させた『Tiger in my Love』を作るわけである。

貴方がその醜さに怯えるために全てが鏡であればと願った

小さな小さな足跡たちはいつも傷口ばかりを掻きむしった

私は遠くへ?

出来るだけ遠くへ?

一人だって気付いた瞬間在り余る悲しみは柔らいだ

泥を塗っては冠を与えたりいつも寝場所なんて無かった

結局このしなやかな心にかなうものなんて無い

私を土足で荒らしても 余白など無くても

全てはこの肌に触れる事さえ出来ない

貴方には決して見えたりしないでしょう?

Tiger in my Love

また鬼束ちひろの重要なテーマとして「正」批判とその裏返しの『狂』賞賛というものがある。『月光』では正しさの象徴である神を批判し、『Cage』では

誰か言って

上手く信じさせて

"全ては狂っているんだから"と

と言い、『Castle・imitation』では

有害な正しさをその顔に塗るつもりなら私にも映らずに済む

と言う。これらが凝縮された歌が『BORDERLINE』である。

雑音が静けさに変わる瞬間を

絆が少しずつ欠ける惨劇を

切り裂けば楽になれた証拠を

どうか見逃さないで

置き去るのは過去だけでいい

FEEL ACROSS THE BORDERLINE

NOW YOU'RE SAVED AND YOU UNDERSTAND

さあ 神の指を舐めるの

貴方には低温な重さしか見えない

それなら秘密など共有出来ない

歯車が音を立てる時には

依存を自覚していて

掴んだその手を放して

FEEL ACROSS THE BORDERLINE

NOW YOU'RE SAVED AND YOU WAKE UP

さあ この運命を辿るの

奪うのが何を害すれば

世界は歪むのも惜しまずに

FEEL ACROSS THE BORDERLINE

切り裂けば楽になれた証拠をどうか見逃さないで。これは「テロ」に怯える一般人=正義=日常批判であるとも解釈出来るでしょう。というかそれ以外に解釈の仕様がありません

そしてこれらのことを全てまとめこんでメタ化して、さらに革新的にしたのが『育つ雑草』です。当然革新の(今のところ)頂点にあるこの曲は鬼束ちひろの曲の中で最も優れているのだ。

悲劇の幕明け 花のようには暮らせない

食べていくのには 稼がなきゃならない圧迫的に

さ迷うようにして悲しく

生き急ぐようにして悲しく

前へ前へと 押されて行くの

経験を忘れる 育つ雑草

気分は野良犬 綺麗だと 何度でも 言い聞かせて

落ちるように浮き上がる

これじゃ始まりも 終わりも無い

気分は野良犬 私は今 死んでいる

悲劇の幕明け 「愛している」 と明かりをつけて

貴方は どんな風に 認めてくれたの 許していたの

そして また遠回り そして また同じ味

上手くいかなくて ひどく困る

もう必要もない あらゆる救済

気分は野良犬 次第に勘付いて行く

両目は閉じないまま 厚い皮膚を脱ぎ捨てる 蘇り再生するため

気分は野良犬 私は今 死んでいる

捨てれる 選べる 逃げれる 笑える 眠れる 飛べる

私はフリーで 少しもフリーじゃない

経験を忘れる 育つ雑草

気分は野良犬 綺麗だと 何度でも 言い聞かせて

落ちるように浮き上がる

これじゃ始まりも 終わりも無い

気分は野良犬 私は今 死んでいる

もう必要もない あらゆる救済

気分は野良犬 次第に勘付いて行く

両目は閉じないまま 厚い皮膚を脱ぎ捨てる 蘇り再生するため

気分は野良犬 私は今 死んでいる

どーよ。私は今 死んでいるですよ。もう必要もない あらゆる救済ですよ。私はフリーで 少しもフリーじゃないですよ。これはある種21世紀の革命宣言では無いだろうか?

後書き&参考リンク

さて、いかがだっただろうか?別に全てを理解する必要はないから、文の一部でも良いから、理解し、そしてあなたの闘争に役に立つことを祈る。以下にこの文章の参考になるであろうリンクがあるので参考されたい

随分前に書いた鬼束ちひろ評論。大分この頃とは考え方も変わったが、変わってない部分もあると思う。

非モテ・非コミュを本質的に理解する為のテキスト(とエラソーに言ってみるが、当の人々からは批判どころか無視をくらった……)

[政治][政治思想]21世紀における政治活動の困難さと展望

最近の日本の反動(勢力)というと、話題になるのは「救う会」&「作る会」の草の根保守だったり、2ちゃんねるを中心に活動する所謂ネット右翼だったり、刀剣の会と愉快な仲間達などなわけだが、しかし彼らはやることこそ派手だが、そんなに人々の賛同を得ている訳ではなく、そしてこの日本は一応曲がりなりにも議会制民主主義ですから、幾ら少数の人々が気張ったところで、多数派の人々が変わらなければ政治状況というのは動くわけがない。

しかし今日本の政治状況は確実に変わり始めている、それも悪い方に。自由が「安全保障」の名の下に奪われ、貧富の格差や失業問題などあらゆる方面で「自己責任」論が跋扈し、平和への願いはエセリアリズムとしての「国益論」に潰される。例えば現在マガジン9条では憲法9条国民ネット投票という企画を行っているが、ここでの投票では改憲派が護憲派をもの凄い勢いで抜いているのだ。これを殆どの護憲派は「所詮ネット右翼の集団投票でしょ?市民の大勢は違うよ」と言って一笑に付しているが、もしこれが本当に市民の多数派と違う意見なら、今頃はネット右翼に対抗して市民が投票している筈なわけで、そうならないということは、やはり市民の大多数は改憲容認派であることを認めざるを得ないだろう。

簡単に言うと、我々は今明らかに負けているのだ。これはどうしたって認めざるを得ない。だが一体何故?勝利者である草の根保守やネット右翼は勝因分析として「やっと日本人も自分の国に愛国心を持つようになったんだ」という風な解釈をし、そして一部の評論家も敗北要因の分析として、そのような一億総愛国者化説を支持している。

だが本当にそうだろうか?本当に日本国民はみんな、「自国の歴史に誇りを持つべきだ!」と思い、尖閣諸島は戦争を起こしてでも守るべきだと主張し、拉致被害者を救う為なら北朝鮮の人が幾ら死んでも「自業自得」としか思わない右派に変わったのだろうか?

確かに今、拉致被害者問題や歴史教科書を宣伝する為にデモに出かけたり街宣活動に参加する人は増えている。しかしその数は何だかんだ言って日本人の中のごく少数の人達であって、それこそ1960年代の「政治の季節」に比べたら本当に微々たるものであるわけです。つまり、確かに一部の日本人の間で右派思想が確実に浸透していることは認めざるをえないが、それが本当に国民の多数派を形成しているかというと、かなり疑問なのだ。

それでは一体何故日本国民は、右翼思想を手に入れたわけでもないのに反動化しているのか。その理由は↓の記事の中に隠されていると思う。

日毎に敵と懶惰に戦う―早稲田大学でビラ撒いた人が逮捕された件(id:zaikabou:20060122#1137907198)

↑の記事の著者は所謂「ネット右翼」では無い(ネット右翼だったらまだ救いがあるんだけどね)。しかしにも関わらず彼は早稲田大学でビラをまいた人は手前らの権利だけ守りたいから本当に邪魔。さっさといなくなれと言い放ち、ビラ配りを禁止することはもうちょっと穏当にすれば許されるとのたまう、反動的立場をとる訳です。

思うのだが、実はこのような反応を取る人が今の日本では多数派になっているのではないだろうか?つまり、自分の周りで誰かが「自ら(手前)の権利を守ろうとする行動」=政治活動を行うことに我慢が出来ず政治を自らから遠ざけたがり、それ故に永田町外での政治活動(=権力から離れた政治活動=反権力的政治活動)を規制しようとする反動的権力と結託し、結果日本全体が反動化している。そんな仮説が立てられないだろうか?つまり政治を嫌うからこそ、政治をしなくてすむようにしてくれる政治勢力にコミットする。そんな反政治と反動政治の枢軸が、生まれつつあるのかもと、ふと思うのだ。

そしてもしそのようなことが真実なら、政治活動家はそのようなことにどのように対処すればいいのだろうか?この記事ではそんなことについて検証していきたいと思う。

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捏造される「政治」に関するトラウマ

そもそも何故この記事の作者は「政治」が嫌いなのか。例えば↓の記事では政治活動が自治活動をダメにしたと主張しています

日毎に敵と懶惰に戦う―改めて 強烈な臭いはそれらを無意味に遠ざけていないか(id:zaikabou:20051101#1130824548)

私が大学生の時、自分の学部には自治会があった。ゼミに関する情報共有だとか、有用な活動もしていたんだけど、某セクトの影響力が強すぎて、自治会に入るということは即ちそのセクトの政治活動に身を投じることと同義だった。そして、不透明な資金の流れとかいろいろ問題があって、結局、大学当局に潰されて非公認組織になってしまった。

それ以来、自治会は消滅し、大学構内の公共スペースの扱いとか、例えば喫煙の扱いとか、教授の生徒からの評価とか、学生側から大学に組織立ってアプローチする手段は極めて手薄になってしまった。

私があるサブゼミのなかで、自治会の存在意義、みたいな話をしだしたら、まるでセクトの一員じゃないか、オルグしにきたんじゃないか、という目で見られて、つまり学生のなかには自治会=政治活動=某セクト、という意識が強固に刷り込まれていたのだ。

結果的に、彼らのやっていたことは、組み合い潰し、第二組合と一緒だったのではないかと思う。いや、彼らの側に学生生活の向上なんて意識は全く無く、政治活動だけがすべてだったのだとしたら、大学側との闘争に敗れたという認識があるだけで、結果的に自治活動を妨げたことなど、どうでもいいのかもしれないが…

この記事ではまるで政治活動があったから自治活動が潰れたと言っているが、それは全くのデタラメだろう。不透明な資金の流れはどんな団体でも起こりえるし、実際に潰したのは大学当局だし、一つの自治会がダメだっただけで他の全ての自治会がダメだとレッテル貼りをするのは単なるその話を聞く学生の馬鹿さ加減が原因だ。だがしかし何故その様な政治活動を否定する為のデタラメ論理が構築されなければならなかったのだろうか?

日本で民主政治を存立させる条件としての「世界」認知

政治活動は現代の民主主義においては大体の物が「自らの権利を守ろうとする行動」として定義出来る。そしてそのような現代においての政治活動はその基礎に自然権を持つわけだが、しかしこの自然権という発想が実はとても厄介なのだ。

自然権とは、まさに人間がこの世界に生まれたとき(=自然状態)から既に持っていた権利のこと。しかしそこで私達は疑問に思う。人間は生まれたときから既にその自然権を持っていたというが、では一体その権利は何処から来た物なのか?何を根拠にそういう権利があることを認めなければならないか?

一昔前のキリスト教圏においてはこの根拠は結構単純だった。「神との契約」だ。神がその自然権に根拠を与えたという根拠をもとに、キリスト教圏の人の多くは政治活動をしてきた。神が与えた自然権なのだから、それを守るために闘うのに対しては神が正当性を与えてくれる。この考え方のもと、数多くの革命・戦争が行われてきたのだ。

そして実はそれ故に日本では戦前に民主主義が根付かなかったのだ。日本は明治維新以降あらゆる部門で西欧化したが、キリスト教の精神だけは入らなかったのだ。だから大正デモクラシーも輸入した根拠が無く方法だけの理論だけのやり取りによる、上っ面だけの政党政治に終始し、そして昭和に入ると、「八百万の神国日本」という根拠(まぁ「神国日本」という枠組みは明治以降に捏造されたものなんだが、しかしその前にいた様々な土着の神様が、その捏造の根拠を支えたのだ)に基づいた軍国主義が上っ面の民主主義を吹き飛ばし、戦争が始まったのだ。

そして日本は最後には自国ただ一つになり負けた。まぁもともと味方をしてくれる国なんて開戦初期から数国しか居なかったのだから、要するに日本は世界を相手に喧嘩を売って負けたといっても過言ではない。そして日本は「連合国軍」という全世界を代表する軍(*7)によって支配され、日本国憲法が成立し民主主義の国に変わったのだ。

しかし一体その民主主義は何を根拠にしているのか?実はそのことは日本国憲法前文を見れば一目瞭然である。

 日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。

日本国憲法前文ははっきりと、この国が自然権を保証する民主主義国家に生まれ変わった理由を「戦争」においている。ではその戦争とは一体何だったか?アメリカとの戦争?中国との戦争?いや違う。日本は「世界」に喧嘩を売って敗れ、そしてその敗戦により日本は民主主義国になることと平和国家になることを「世界」と約束したのだ。日本において平和国家であることと民主主義国家であることは同じ根拠なのだ。その根拠は即ち、「『世界』との約束」である。日本は「神との契約」の代わりに、「世界との約束」を行ったのだ。

しかし「世界」は不可視な存在になり、結果自然権の根拠も不可視になった

そしてその約束は冷戦崩壊までは確かに機能していました。何故なら冷戦期には一部の国で地域紛争は起こっていたものの大きな変化は起こらず、アメリカ=自由主義とソ連=社会主義による二分統治は変わることは無かったからです。その当時、「世界」は一昔前のキリスト教における神と同じぐらい強固なものだったのです。

しかし冷戦崩壊はその「世界」を一挙にバラバラにし、闇の中へ放り込みました。国の形だけでなく、価値観も四散したのですから。そしてその結果「世界」は不可視のものとなり、結果民主主義と平和国家の原則もその根拠を見失ったのです(更に言えば、戦争を知る世代がどんどん居なくなっているのも世界の不可視化を拡大させている。戦争とは結局世界と日本との直接の戦いであったから、戦争体験世代は世界というものを強烈に感覚に焼き付けている。ところが戦争を直接体験していない世代になると、どうしたって世界の印象は薄くなるから、ちょっと世界が複雑になっただけですぐ世界が感じ取れなくなってしまうのだ)。その状況を端的に表しているのが北朝鮮問題です。北朝鮮という見えない「世界」により、日本は不安を覚え、その不安を口実に平和国家の原則を捨て、更に有事法制という名において民主主義の制限を行おうとしているのです。

そしてそのような、北朝鮮に限らず世界のあらゆるものが見えなくなるという不安は、人々を「世界」から「日常」へと逃避させたのです。

日常イデオロギーの侵食

例えばちょっと前までは、運動家という存在は結構輝かしいものでした。何てったって自分たちが「世界との約束」によってすることが義務付けられているのに、忙しくて出来ない政治活動を、代わりにやってくれるのですから。自分は特にノンポリなのに、町でデモ行進していたりビラ配りしている人を見ると、その人の主張している内容が何であろうと声援を送る。そんな人が昔は結構居たそうだ。そして政治活動を行う人も、そのような期待に応えていた。

しかし「世界との約束」が徐々に無くなっていくと、それが変わっていった。町でデモをする人やビラ配りをしている人を見ても迷惑感しか感じなくなってしまうのだ。何しろ別に「世界との約束」なんて無いのだから、自分は何ら後ろめたさを感じることは無い。むしろ彼らは世界(とその付属品の様々なイデオロギー)が消えた代わりに最近著しく規模を拡大させている「日常」(この「日常」は空間のことを指すと同時に、その空間を機制するイデオロギーでもある)を大事にせざるを得ない(何てったって彼らにはその「日常」しか持っていないのだから)が故、そこに侵犯してくる政治活動を疎ましく思うようになる。かつては彼らが居るところは「世界(だって世界との約束を果たしているのだから)」であり、それが故に少々邪魔でも「世界との約束」を果たすためにその邪魔さを我慢しなければならないと考えられていたのだが、今は彼らが居るところはまぎれもない「日常」であり、故に人々は彼らを侵入者としてしか扱わなくなるのだ。そしてその動きが反動的政府に利用されるのだ……

どのようにしてそのような動きに対抗したら良いか?

さて、そろそろ制限時間(1/23の23時59分)も終わりに近づいてきたので、まだ説明したいことは一杯あるがそれはまた今度にし、では今私達が何をすべきか考えることにする。

私達が出来る行動は大きく分けると次の2種類だろう

  1. 複雑化する「世界」をそれでも一生懸命認知し、認知させる
  2. 「日常」のイデオロギー性を指摘・批判することで、人々を「日常」から連れ出し、「世界」に目を向けさせる

1は要するに啓蒙だ。実際に外国に行くのも良いだろうし、日本の中にある非日本(在日外国人だったり米軍基地であったり)に焦点を当てるのも効果的だ。ホワイトバンドなんかも3秒間に一人の子供が死ぬ「世界」を示したという意味で、1のやり方のかなりよい例だと思う。

2はid:rir6:20051213:1134428417の終わりの方に書いた。またこれは祭り的イベントでおきやすい。といっても祭りに参加してしまったらそれは日常性の奴隷であって、お勧めするのは、祭りの最中にふと空を見上げ、そして空の上から自分を俯瞰するつもりになることだ。そうすると日常の構造性がなぜかとてもよく分かるのだ。

とにかく、一番いけないのはこのような日常イデオロギーに負け、政治から逃避することである。確かに今世界は全くといって良いほど見えない。しかしにも関わらず世界はある。そしてあることを認知しない限り、それに相対することは出来ないのだ。


*1: 今書かれている記事ではその種の主張を行っている

*2: 『イノセンス』など

*3: 「意味不明にしておけば解釈の幅が生まれより広範囲のリスナーが確保出来るから」とか「他者との差別化」とか

*4: または「モルモット」

*5: マルクス主義的に言えばそれは「イデオロギー」である

*6: 例えば非モテ・非コミュについて語った記事のコメント欄キャシャーンが批難されるのは、メッセージに還元して作品の未完成度を誤魔化すという俗情との結託に賭けている点でしょう。まあメッセージ云々いってしまう奴らは、何も観てないといっているに等しいですけどwという馬鹿野郎なコメントがあるが、これは政治的な読み方ではない。何故ならメッセージを伝えることは「俗情だ!」と言って批判するくせに、「作品の完成度」というイデオロギー(「作品の完成度」を重視するか否かも当然イデオロギーであり、相対的な指標に過ぎない)については神聖化しているからだ。その記事ではCASSHERNという映画を政治的に読み解き、そしてメッセージのイデオロギーと「作品の完成度」というイデオロギーをそれぞれ比較対照して、敢えて前者を優先すべきだと結論出来たのだ。その文章で述べた「俗情との結託」とはそのようなイデオロギー考察を抜かしてある一つのイデオロギーに乗っかることを指しているのであって、その視点から考えればコメントを書いた人の方が余程「俗情との結託」を行っていることが一目瞭然であろう

*7: もちろん実際はほぼアメリカ軍なのだが、しかし名目上は「連合国」なのだ