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2007-09-16

[生きる]「幸せそうに生きるということ」をニコニコ動画に学べ!

最近思っていることを書く。

「幸せそうな人」は何処へ?

今、「お金を持っていそう」な人や、「何でも思いのままにできそう」な人っていうのは世の中に一杯居るけど、「楽しそうに生きてそう」な人って、どれぐらい挙げることが出来るだろう?

例えば、ブログとかを見てみると、それこそベンチャー企業の社長とか、カリスマ○○とかは一杯見ることは出来る。彼らはお金も持ってれば名声もある。きっと世の中の人たちは日々「ああいう人みたいになりたいなぁ」と思い、そして精進しているんだろう。

でも、僕は彼らを見ても、それほど羨ましいと感じられない。その理由は、まぁ確かに負け惜しみ的なことも大分あるけど、一番大きいのは、彼らがその様な地位・名声を得るために、とても「がんばった」、そんなことが透けて見えるからだ。そして、僕は「がんばる」ことを楽しいと思えない人間なので、彼らがとても「楽しそうに生きている」様に見えず、なんか、凄いとは思うけど真似したくないと、そう思ってしまうのだ。

生産性とか、なんでそんなに気にするの?(個人の心構えの問題として)

例えば、上記で挙げた人たちって言うのは、よくブログで「Lifehack」とかいうのを紹介する。なんか、どんな風に生活を送れば、自分の生産性が向上するかとか、そんなノウハウを彼らの言葉で言えば「Lifehack」と言うらしい。例えば頭の中で考えていることは全てどこかに書いて、順々に処理していくとか、朝頭がはっきりしている時間に色々なことは済ませるとか、そういうノウハウをブログで書いて共有して活用する、そんな光景を、よく目にする。

でも、正直僕は「なんでそんな努力までして仕事を一杯やんなきゃいけないの?」と思う。そりゃあ仕事の順序をきちんと決めれば、仕事の能率は上がるでしょう。朝早くに仕事をやれば、仕事がはかどるのも何となく分かります。でも、そんなの別にどーでもいいというか、むしろ僕は、そうやって仕事の順序を決めちゃったら、「あー次なにすればいいんだっけ(あうあう)」っていう貴重な休みがなくなっちゃうじゃん、とか、朝はやっぱりとくだねが終わる頃の時間に起きてそのまま笑っていいともが始まるまでぼーっとすごしたいなぁ、とか、そういう風なことを考えてしまう。

そりゃあさ、理屈は分かりますよ。仕事を早く済ませればその分休みも増える。だからLifehackとはむしろ怠け者のためのものなんだ、とか。でも僕にとっては、そうやってきちんといつ仕事していつ休むかって計画立てるってこと自体、とても働き者的で、「ごくろーさん」な考え方だと思うのだ。だって僕はいつだって「今」休みたいんだから。そして今休んで、問題を先送りできないギリギリの時に来て、あうあうと作業を始めるけど、結局締め切りまでに終わらず、みんなに迷惑をかける。これこそが真の怠け者なんだよ、えっへん(匿名で良かった。実名で発表したら、多分この文を見て僕を本気でぶん殴りに来る人が数十人くらい居るな)。

昔って、もうちょっとみんな「幸せそうに生きる」怠け者が多かった気がするなぁ。

といっても、僕はせいぜい人生20年くらいしかまだ生きてなくて、昔の雑誌とか読んでの想像でしかないんだけどね。

例えば、1980年代の雑誌とかを見ると、それこそ「幸せそうに生きている」人って大勢いるんですよ。なんか「自分の好きなことしかやってませんよー」とか「なんか頑張るのとか正直カッコ悪くね?」とか。「働いたら負けかなと思っている」という発言は、今だからこそ問題視されるけど、多分1980年代とかに言ったら、「まーそういうのもありだよね」的に扱われたんじゃないかなぁと、そう感じる訳。

そして、メディアに一杯出る人も、「どう考えたってこの人そんなに頑張ってないけど、メディアの気まぐれで一杯取り上げられているだけだよなぁ」という人が大勢居た。(*1)多分真面目な人からしたら「こんな人取り上げるぐらいなら、もっとアフリカの飢餓問題とか真面目に扱え!」と怒り出すんだろうけど、僕はそういう人が好きだし、そういう人にあこがれる。

“努力した人が報われる”時代

翻って今はどうか。そりゃあ、今でもそういう一発屋というか、メディアに祭り上げられている人っていうのは大勢居る。でも、なんかそういう人に対する視線が、昔よりは厳しくなっている気がする。そして、じゃあ人々はどんなのを喜ぶのかというと、きちんと努力をして、その成果によって偉くなっていった人。例えば子供の頃からスポーツの練習をして、有名人になったり、苦難の時代を経て、何個も賞を取るような漫画家になったり。そして実際、メディアに取り上げられる人も、そういう人が多くなっている。例えその本人が「いやいや自分なんて」と謙遜しても、周囲が勝手に「いや彼(女)はこんな努力していた」という風に努力を紹介してくれる。というか、そのような人たちしかこの非常に「効率的な」世の中ではメディアに取り上げられるほどの存在にはなれない。

でもそれって、本当に良いことなのか?

はっきり言って、僕はそうは思わない。そりゃあ、色々な人が切磋琢磨して、自らの能力を高めていけは、もっと生産性を高められる。でもそれって、環境に適合して自分たちを繁栄させようとする動物や、ある一つの目的の為に全ての器官を動かすロボットと全く同じじゃないですか。僕は、人間の本質はそんなところにはないと考えています。(*2)

もちろん、そういう意見に同意しない人たちがいることも知ってます。でも、今のこの勤勉な人が褒められて、怠け者には生きている価値がないとまで言われる、そんな世の中に飽き飽きしている人も、多いと思うんだけどなぁ。

最適化が終了した世界

で、やっと本題。

まぁ、そうは言っても、実際もはやマスが何か非効率的に「努力せずに運だけで成り上がった人」や「本当は全然能力なんかないのに、周りが勝手に祭り上げる」なんてことはありえないと思うんですよね。昔「歴史の終わり」とかいうことが言われて、もう何か社会が劇的に変わったりすることはないだろうという議論があったけど、それって要するに世界システムの最適化が終了したということだと思うんですよ。そして、最適化が終了した世界においては、そりゃあ上に挙げたような場合はもうないだろうと。

でも、じゃあ怠け者、能力がないし努力もする気がない、そんなダメ人間たちは日陰でただうずくまって「日常こそがすばらしいんだ……」と自分をだましながら死を待つ以外に方法はないのか?

つい最近まではそう思っていました。しかし「そうじゃないんじゃないか」と思わせる、あるウェブサービスに最近であったんですね。その名は「ニコニコ動画」です。

ニコニコ動画というカオスは「幸せ」を生み出せる……か?

ニコニコ動画というと、人々はなんかすごい映像技術を用いたアイマスMADとか、またはアニメ本編がそのままUPされた動画などがよく注目されます。実際、ニコニコ動画のアクセスの大半(=マス)はそういう動画でしょう。しかし、まぁ確かに僕もそういう動画はよく見る(*3)んですけど、それ以上に見るのが「歌ってみた」、「踊ってみた」系の動画です。それも、いさじ氏とかの有名なやつではなく、本当にコメントが10~50くらいのそんな動画です。

そういう動画っていうのは、それこそ本当に「これはひどい」というタグがぴったりな動画ばかりです。でも、そんな動画でも、というかそんな動画だからこそ、ある種の人々はコメントを付けてくれて、そこにコミュニケーションが生まれる(「音痴乙」とか「自演乙」とか。)わけです。更にそこでもし何かちょっと勢いが生まれれば、それを元にMADが作られ、(一瞬ですが)ニコニコ内で有名になれるもしれない。

向上心なんか持って自分を傷つけるくらいなら、とことん堕ちてダメ人間として楽しく生きようよ!

こういうのを、「努力することを放棄している」、「本当に頑張っている人たちを馬鹿にしている」という風に受け取る人も居るかもしれません。あるいは「ダメな人間が傷のなめ合いをしているだけ」と思うかもしれません。きっとそういう風に思える人は「自分はこんな所で満足しないぞ」と思い、切磋琢磨してマスを目指すのでしょう。

でも、僕はそうは思えない。むしろそうやって気張って「もっと才能を磨こう」とか踏ん張っている人たちを見ると、「なんか『趣味』に自分が乗っ取られちゃってるなぁ」と哀れに思います。

大体才能って何なのか?多数派が気に入るような絵を描いて、多数派が喜ぶような音楽を作って、「萌えー」とか「燃えー」とか言われること。多くの人が求める「才能」なんて、所詮そんなものじゃないですか。そんな身勝手で馬鹿らしい基準で決められる「才能」に一喜一憂して、即売会に来る客が好むような絵や音楽を作ること。そんなのが本当にこの短い人生の中ですべき「楽しいこと」なのか?自称「俺はダメじゃない向上心があるクリエイティブなオタクなんだ」さんは、そこのところをもう一度よく考えるべきだと思います。(*4)

そして、僕はそんな人たちの真似をするよりは、ニコニコ動画で10個くらいしかコメントを付けられないような才能のない、けれど楽しんで人生を過ごすことが出来る、そんな人間として、生きていきたいと思います。

[アニメ]新エヴァ劇場版について

感想書かないって書いたけど、余りにネット上で絶賛されているのをみて、そういう絶賛している人間に対し、怒りを通り越して憎しみが湧いてきちゃって仕方ないので、書く。

新エヴァは、オタクを慰撫するための映画でしかない

まず最初に、こういう事実を端的に述べておく。今回の新エヴァは、オタクを慰撫し、そしてその代金としてお金を得る映画だった。そして、かなり可能性の高い予測をするならば、今後も新エヴァはそういう方向で作品を作っていくだろう。

どのように考えてそう導き出したかを説明する前に、まず10年前に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」、つまり旧エヴァについて考えてみる。

僕は旧エヴァの本質は

この分だけを読めば十分理解できると考えている。もちろん、だからといってこの順番で見ても、カルピスの原液をそのまま飲むようなもので、耐性のない人は腹を壊すかも知れないから、ヤシマ作戦とかなんかシンクロっぽい作戦とか、そういう回を見て、萌えたり燃えたりして自分を慰撫するのも結構かも知れない(*5)。でも、それを本質と勘違いするのは、カルピスを薄める水がカルピスの本質だと主張するのと同じぐらい馬鹿な行為だ。大人しくローゼンメイデンとか涼宮ハルヒでも見て「萌えー」とか言ってろ。

エヴァが「エヴァ」たる所以、それは、そういう「餌」を貪り食う、オタク青少年(女)自身をまるで鏡の様にブラウン管の中に映し出し、そして、「てめぇら本当はこんなんなんだぞwww」と嘲笑したことにある。

「鳴らない電話」の衝撃

僕の場合、それに気づいたのは、第3話「鳴らない電話」の一シーンである。ここから少し自分語りに入ることを許して頂きたい。(というか、「私」がどのように見たかを語らずにエヴァを論じようとしても、それは空虚だ。)

ケーブルテレビで再放送を見ていた僕は、中学生で、「エヴァ」については、なんかとんでもない作品であることは知っていたが、正直1、2話を見た限りでは、「まぁ面白いよね」程度の感想だった。そして、深夜の再放送でエヴァ第3話を見た後、徹夜で学校に行き、いつも通り昼休みに一人で机に座ってiPodで音楽を聴いていた時、僕は気づいたのだ。

これ、シンジ君のあのシーンと全く同じだ!

そう、昼休みの僕と全く同じカッコウ、同じ姿勢で、シンジ君も音楽を休み時間に一人で聴いていた(*6)。もちろんそれはたった一瞬のシンクロなのだが、しかし無視するにはそれは余りに合致しすぎていた。

そして、その事についてずっと考え一日が過ぎ、(その時のエヴァ再放送は日替わりだったので)また夜中にエヴァ第4話を見た時、その気づきは、確信に変わった。

これ、僕のことを描いている!

「僕たち」ではない、「僕」である。あのとき、僕は確かに、家出し、街を彷徨い、周りのビルが襲いかかってくるかのような感覚に恐怖した「僕」をアニメの中に見たのである。そこにいたのは、孤独でいることを求めながら、いざとなるとその孤独に怯える、哀れな少年だった。

そして、退屈な中だるみ(*7)が続いた後、僕は後半から再び「僕」をアニメ上に発見し、そのまま最終回まで熱中し、そして最終二話でがっかり(*8)後、夏エヴァを借りてきて、もの凄い心地よい絶望感に浸っていた訳だ。つまり、TV版で、というかこれまでの僕の人生で散々ほのめかされながら、誤魔化され続けた言葉。「キモチワルイ」を面と向かって言って、切り捨ててくれた訳だ。

そして、世界に切り捨てられたまま、チルドレンは年を重ねたのだ。

元々、新エヴァは不安を喚起していた

話を元に戻そう。上記に書いたとおり、エヴァは当時のオタク的、それもかなり非コミュ系のオタク青少年を鏡に映しだし、彼らに「気づきたいけど自分からは気づけない、というか気づきたくないこと」を気づかせたこと、それによりまさに伝説となったのだ。これに対しては、もちろん「無責任だ!」とかいう批判もあるだろう。しかし僕から言わせれば、むしろ無責任に突き放したからこそ良いのだ。後どうするかは、自分たちの手で見つけるべきだったのだ。

そしてそう考えるからこそ、僕はエヴァの新劇場版を作ると聞き、しかもそれが「エヴァから10年間、それより新しいアニメは出てこなかった」とかなんとかの理由を口走っていると聞いたとき、不安で仕方がなかったのだ。そりゃあ確かにエヴァの命題を完璧に解決した作品は未だに生まれていない。それは認めよう。だけど、だからといってもう一度エヴァをやることに一体何の意味があるのか?

制作者が「これはエヴァではなくてヱヴァです」なんて訳の分からないことを言っていることも更に不安を煽った。いや、それどう見たってエヴァやん。シンジ君出てるしミサトさん出てるし攻めてくるのは使徒だし戦うのはエヴァだし。それって、まさに旧エヴァが全面的に否定したオタク的思考じゃん。要するに「これはエヴァとは違いますからねー。エヴァと違うからって文句言われても困りますからねー」という逃げですよ。一体どっちなのよ。旧エヴァと戦うのか、それとも旧エヴァから逃げるのか。

しかし、そのどちらかならまだ良かった。今回制作者側が取った手段は、そのどちらでもなかった。彼らは、旧エヴァを『庵野』という原作者の名のもと、そこから一切の毒を取り除き、オタク慰撫用コンテンツに再構築したのだ。

「分かりやすく」なった新エヴァ

その再構築がどのようなものだったか。もっとも端的に現れていたのが、シンジである。

旧エヴァにおけるシンジ、それはまさに「不安」を抱えたキャラクターだった。そして、その不安は決して単純なものではなかった。それが最も現れたのは、上記で述べたように周りのビルが襲いかかってくるかのような感覚を可視化したあのシーンだろう。あのときシンジは何におびえていたのか?決して他者ではない。しかし「周りに誰もいないこと」でもない。何か得体の知れないモノへの恐怖。それが当時のシンジに、そしてエヴァに熱狂した少年少女たちにはあり、だからこそエヴァはあそこまでのカリスマ的作品になった。

それが今回の新エヴァではどうなっていたか?まず、シンジはきわめて饒舌になった。彼は自分が抱えている「不安」を徹底的にしゃべり尽くした。父親が嫌い。あんまり人とふれ合うことが苦手だ。なんで自分はこんなことしなきゃいけないのか云々、徹底的に見ている人に「分かりやすく」説明した。まるで心理学の教科書の様に。そしてその代わり、そういうビルが迫ってくるような「よく分からない」シーンは徹底的に削除した。

当時の自分を陵辱することに喜びを覚える新エヴァ肯定派たち

何故そんなことをしたのか。今回のエヴァのターゲットについて考えてみれば、その疑問は氷解する。当時15歳だった人間も今は25歳だ。もはやエヴァ当時の気持ちなど殆ど覚えていない。しかし、その時エヴァに熱狂したという記憶は残っている(そのようなアンバランスさを残したのが、まさにエヴァの功績だったのに……)。そんな彼らに映画を作るとき、もっともクレーバーな方法は一体何か?それは、当時のエヴァを「大人が理解できる思春期の少年」を描いたアニメとして再構築することだ。要するに、「あーあの時の自分はこういうことを思っていたからエヴァに熱中したんだな」という風に、エヴァに熱狂した理由を捏造するのだ。そして観客はそれにより、当時の自分の考えていることが理解できたと思いこむ。

だが、僕から言わせればそんなのは理解ではない。だって要するに自分が思い描く妄想の少年像として、当時の自分を思い描くなんて、どう考えても理解ではない。それは、旧エヴァが最も否定した妄想の押しつけだ。そしてその妄想の通りに動くシンジ=当時の自分を見てニヤニヤ笑う。それはもはや当時の自分を陵辱しているに等しい。僕ははっきり言おう、あの新エヴァが放映された映画館の雰囲気ほどおぞましいものはなかった。

この映画を今の「少年」に薦める?なに寝言を言ってんだ

そして、一通り当時の自分を陵辱した後、何かディーゼル機関車とかそいうのを見せてオタクの「燃え」心を刺激し、見事にオタクを慰撫する。今回の新エヴァは、まさにそんな映画だった。

でもまぁ、もしこれが、それこそ「新OVA」だとかだったら、僕もここまでは怒らなかったかもしれない。しかしこれは映画として公開された。つまり、エヴァに熱中しながら、エヴァのメッセージを受け取れず、ただ「綾波萌え~」とか言ってるしか能がなかった馬鹿オタだけでなく、広く万民に向けて公開されたのだ。

しかももっともいらついたのは、ある評論家がこのアニメについてこれから世に出るすべての「少年」に観てほしい映画とか何とかいっていたことだ。はぁ?

今回の作品は、例えてみれば『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』に出てくる「20世紀博」の劣化版みたいなもんです。当時の記憶を捏造して「美しい過去」に変え、そしてその美しい過去を生きる過去の自分に陶酔する。それでも「20世紀博」は一応、「今の自分は醜い。だが過去の自分は美しかった」という風に、過去の自分は美しかったけど、今の自分はダメなことは認めてみます。ですが今回の新エヴァは「過去の自分は良かったね。それをニヤニヤしながら見れる余裕のある今の自分も良いね」という風に、オタクとしての自分をとにかく全肯定する、そんな映画です。その「オタクな自分」を否定したのが旧エヴァだったのに……という思いは絶えませんが、それでもそれが本当に単なる自己満足だったらまぁ僕も呆れこそすれ怒ったり憎んだりはしなかったでしょう。しかしその評論家はそんな自己満足の為の映画を今を必死で生きている「少年」にも見てほしいとのたまう。

……一言言わせてください。おまえは何を言っているんだ

じゃああんたは、この映画が、本当に「少年」の心に届くとでも思っているか。あのお爺さんを殺した後秋葉原に入った少年の心に届くと思っているのか?エヴァのストーリーから着想して親を殺した山形の「少年」(*9)の心に届くと思っているのか?この世界に居る、「よく分からない不安」に怯えている全ての「少年」たちの心に届くと、本気で思っているのか?

旧エヴァは届いたよ。でも今回の新エヴァがそういう少年の心に届くと本気で思っているのなら……もう救いようがないね。

*1:

*2: 人間の本質っていうのは、環境=世界に反逆し、この世界に「余白」を作り出すことだと思っている。けどまぁそれは良いや

*3: ただ、アニメ本編はあんま見ない。なぜなら「つまらない」から。

*4: 当然ですが、『ヨイコノミライ』を念頭に置いて考えてます。

*5: ただ、僕はそういうのには全く興味なくて、むしろ苦痛に感じるけど

*6: 偶然だろうが、確か席の位置も同じだった気がする

*7: 敢えてこう書く

*8: 理由は分かるよね?「補完」されなかったわけよ

*9: 20歳以上だけど僕は「少年」だと思う

この日へのコメント

heartless00 2007/11/06 17:15
意味不明だな・・
- 2007/11/07 03:15
笑った。「新エヴァは、オタクを慰撫するための映画でしかない」だって。じゃあ旧エヴァって何よ。「これ、僕のことを描いている!」だの、もの凄い心地よい絶望感だの、十分にイイ気分になったわけでしょ? 「そーゆーのが好きな子たち」を慰撫するとよくて、オタクを慰撫するとなにか悪いってんですか。そんなに慰撫とやらが嫌なら、本当に危険だったり都合悪かったりはしない、「しょせん作り手にとってコントロールされ切ったフィクションの世界」に構ってないでほかのことやったらいいのに。もちろん「辛い目や苦労を味わってる自分に酔う」ってのもナシでね。
なまえ 2008/06/08 19:31
イタイな・・・コイツ