楽しく生きているように見えないのは何故?
ここ一か月、僕はずっと『ゼロ年代の想像力』(*1)について考えていた。最近のブログのエントリは、その殆どがその考えるためのメモであったと言っても過言ではない。
一ヶ月の間にはてな界隈では、『ゼロ年代の想像力』について、さまざまな意見・見解が出された。絶賛するような記事(*2)もあれば、はたまた批判する記事(*3)もあり、またこの文章は古すぎる、現実はもっと先に進んでいるというような記事が出されれば(http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html">*4)、一方で、むしろそのような10年そこらの「時代」に囚われるのではなく、もっと普遍的にものを考えろという記事(*5)も書かれた。
では僕の見解はというと、上記の見解は確かに『ゼロ年代の想像力』のある側面を正確に捉えているが、しかし全体像としてはいずれも不十分であり、更に言えば、如何に『ゼロ年代の想像力』という文章を自らの生に生かすかという点において、実用的ではないと考える。
もちろんそうやって大口を叩く僕にしたって、では『ゼロ年代の想像力』を全体像において十分に捉え、実用的に生に生かす方法を見つけられたのかというと、もちろんそんなことはない。ただ、その様な理解に向けての道筋は立てられたと自負している。
その道筋が一体どのようなものか、まず要約した形で説明し、そしてその後5回のブログ連載において、それを詳述しようと思う。
なお、この要約はあくまで現在の段階での僕の考えていることの要約であり、記事を執筆していく中で、変更する可能性が多分にある事を付記していく。何しろ、最初は3回の記事でやるつもりだったのが、要約を書いていく段階で2つも増えて5回になってしまったのだから。もし連載中に何か気になる視点が新たに提示されたら、僕は躊躇無く連載の方向を変えるつもりである。
なお、僕はこの連載において、自らを律する(*10)ために敢えて「だ・である」文で書いているが、生来僕はこのような偉そうな文体に慣れていないので、文法の間違いなどが頻出すると思われる。もし、読者の中でそのような間違いに気づいた人が居たら、是非指摘してくれると有難い。
*1: asin:B000QUCUKW:titleにおいて、宇野常寛氏が執筆を開始した連載
*2: id:otokinoki:20070531:1180589181
*3: id:NaokiTakahashi:20070609#p3
*4: http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
*5: id:sugitasyunsuke:20070614:p2
*6: http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.htmlなどを読めばそれは明らかだ
*7: id:otokinoki:20070531:1180589181において、『ゼロ年代の想像力』を代表するものとして、(僕は読んでいないが、日常肯定的作品であろうと思われる)「フラワー・オブ・ライフ」が取り上げられていることは、決して牽強付会ではない
*8: id:umedamochio
*9: しかし一方で、そのような罠がなければ、僕たちはそのような問題に対して真剣に向き合わなかったということも、また忘れてはならない。
*10: 要するに、連載を最後まで書くということ