ある思い出。
僕はバイトをしていました。その職場はとても雰囲気の良い職場だったんですが、ある日、僕の同僚のある人が仕事でミスをしてしまって、上司の人に怒鳴られてたんです。
で、一旦その時は空気が凍ったんですが、2、3時間経つとそんな冷たい空気はどこへやら。またいつもの穏やかな空気に戻って、その怒鳴られた人も、怒鳴った人と和やかに話をしながら、昼食を取っていたわけです。
普通の人が見たら、「ああ、良い職場だなぁ」と思うんでしょう。でも、僕はその光景を見た時に、何か心の中にざわざわとしたものが溢れ出て、止まらなくなっちゃったんです。
「……いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ。もういやだ。もうやだ。働きたくないよぉ。」
でも、一方で僕は知ってたりもします。今の世の中においては、そのような声を浴びせられる、そしてその様な声を受け流してニコニコしているということこそが、「働く」ということなのだと。
ここで話はいきなりなんか抽象的な話になります。(*1)さっきの例をもうちよっと深く考えてみます。その怒られた人、そして怒鳴った上司は、その「怒鳴った時の自分/怒鳴られた時の自分」を、「その事の数時間後の自分」と同一視してるのかな?と考えてみる。僕が考えるに、多分彼らは、その「怒鳴った時の自分/怒鳴られた時の自分」を、「その事の数時間後の自分」と同一視してないんじゃないかと思うんです。だからこそそんな事件にも耐えて仕事を続けられるのではないかと。
だって、数時間前には自分のことを怒鳴ってたような、そんな相手と、和やかに会話するなんて……その「怒鳴られた自分」と「和やかに会話する自分」を同一視してるなら、なんでそんなことが出来るのか?相手は自分のことを怒鳴ってくるんですよ。そりゃ単なる「大きな声」かもしれないけど、でもその声は明確に自分のことを非難するわけで、つまり「今のようなお前では生きていてはいけない。変わるか、さもなくば死ね!」と脅迫してくる、そんな声な訳です。つまり自分を否定される。自分を否定してくる相手と和やかに会話するなんて、どうしたって出来ないでしょう?だから、やっぱり何処かで、その怒鳴られた自分と、今の自分を切り離しているとしか、考えようがないんです。
で、さらに僕は思う。そうやって心を切り刻める、またはそうすることが普通だからこそ、今の社会は存続しているのだと。
僕はずっと不思議だったんです。なんで世の中の人は、自分の人生の大半を、あんな「働くこと」なんかに費やすことが出来るんだろうかって。
「働くこと」においては、まず自分の好きな"よう"(*2)にやることは許されません。そりゃ仕事の内容は千差万別ですが、どんなことでも求められるのは「利益を出す」ことであり、そしてそのために「自分の欲望を抑えつける」ことです。つまり、例え眠たいと思っても仕事中に寝てはいけないし、腹が減っても仕事が優先。のんびり仕事をやりたい、あるいは何もしたくない、ただだらだらしていたい、そんな風に思っても納期が迫れば早くしなければならない。朝早い仕事の時は深夜遅くまでニコニコ動画は見れないし、飲み会があっても仕事が夜遅くまであればキャンセルしなければならない。そして、そのようなルールを破ればさっき言ったような「怒鳴り」が待っている。
つまり、仕事とは例えどんなに取り繕っても、根本的には「苦行」なんです。そりゃ仕事をやっている中では、時々仕事の結果によってお客さんの喜ぶ顔が見れたり、一生懸命やった成果が何か大きな形になって残ったりして楽しいことも"一時的に"はあるでしょう。ですがそれはあくまで一時的なものでさ、例えばニコニコ動画を見ている時は、そもそもニコニコ動画を見て「苦しい」ときなんか無くて、ただ正しいだけ。飲み会とかでも同じ。やっぱりそれと比べれば、仕事は「苦行」です。
では何でそんな仕事を、人々はするのか?どうして仕事をせずに、そのまま楽しいことだけやってのたれ死んでいくとか、そういうことをしないのか?それがずっと僕には疑問だったんです。
でも、実際にアルバイトをやったりしてみて、その答えが分かりました。
人間は、忘れちゃうんです。
アルバイトを一日やる。その中では手を痛めたり、重い物もって疲れたり、お客さんに嫌なことを言われたり、そんなことが一杯あります。でも、終わった後になると、そのようなことは思い出そうとしない限り思い出さなくなる。だから、次の日もバイトに出かける。
僕がバイトをやっていた時は、まさにそんな感じだったんですね。
もちろん僕も最初は頑張りました。そういう嫌なことをされたのは「自分」なんだから、その時の「自分」のためにも、覚えておくべきなんだと。
……でも、忘れちゃうんですよ。そしてどんどんそんな「日常」に「自分」が埋没していくわけです。朝起きてバイト先に行き、バイト先から帰ってお酒飲んでニコ動見て寝る。そんな、何にも変わらない、何も生み出しやしない、「日常」に対し、それに憤りも感じず、つまり、何とも思わなくなるんです。一旦流れが出来ちゃうと、それに反抗するなんて、よほどのエネルギーが無い限り無理。でも、そもそもそんな「日常」を送っていて、そんなエネルギーが出る訳もない!
そして、そういう朝と夜の心を引き裂く生活を送っている内に、どんどん心が細分化されていき、しまいにはついさっき怒鳴ってきた奴とニコニコしながら会話する、そんなことが可能に、なるのでしょう……
「それで良い、それが『生きる』ということなんだ」という人も居るでしょう。というか、そう思う人が大半だから、この世の中はニート(*3)で溢れかえったりしないわけですが、でも僕はそう思う人にこう問いたい。そんな生活、動物と一体何が違うの?と。
だって、冷静に考えてみてください。少なくとも神とか信じていないんなら、人が生きるのって、幸福を得るためでしょう?だとしたら、そんな一日の大半を労働に捧ぐなんていことは、明らかに人生を損する行為なわけです。でも、あなた達はその損を「忘れろ」とおっしゃる。記憶しておけば、本当はその損に気づいて、自分の生を「楽しみ」のために費やし、楽しんでのたれ死ぬことが出来るかもしれないのに、その選択肢を塞ぎ、「苦行」の元で生きさせる。ただ「長く生きる」ことが人生の目的だったら、そんなの、ただの動物と何が違うっていうんですか?
この答えに、「神を信じろ」か「動物になれ」以外の答えを言える方、どうぞ答えお願いします!
昔から、人類は、「明日こそはもっと人が楽できる世界になるんじゃないか?」と思って頑張ってきました。楽になるために様々な技術を開発し、より楽に生きる方法のために戦ってきたわけです。多分そのおかげで、僕たちは昔の人と比べたら、ずいぶん楽に生きれるようになったのだろう。
でも、例えそんな風な成長の最先端に立っても、結局僕らは、未だに人生の大半を「仕事」というドブの中に捨てなきゃ生きていけない、そんな場所に生きているわけだ。それでもちょっと前ならば、「スローライフへの転換」とか言って、あとは気の持ちようでそんなに一生懸命働かないようにしようとさえすればそれが可能になる、というような話もあったけど、それも経済学者とかによって否定された。(*4)その学者が言うには、例えどんなに社会が進歩しても、人は「仕事」をして、努力をし、より効率を上げなければならない。それをしないと経済は回っていかず、結果人々は貧困に陥るのだと。
つまり、Work or Die。結局の所、僕らに残された選択肢は、働くか、さもなくばのたれ死ぬかの、どちらかだ。
だったら……僕は思う。
働かずにのたれ死んでしまえば良いじゃないか!それで人類全てがその道を辿って、結果人類が滅亡したって、その何が悪いのか!?だってよぉ、例えどんなに働いたって働いたって、働かなくてすむ社会なんて絶対やってこないと、あんたらはそーいうんだろぉ???だったら、そもそもなんで人類は存続しなくちゃならないんだよぉ。なあ?俺、なんか変なこと言ってるか?単純な算数の問題だよ。今から全員一切仕事しない、みんな楽しいことだけやって続々とみんなで野垂れ死ぬ。そんな風にして、一体どういう「損」が生まれるんだ!?だって、あんたらが言うには、結局働かずに生きていける道なんて無いんだろ!?だとしたら、これから生きていたって、ただ「仕事=苦行」という負債がただ増えていくだけなわけだ。そんなの、企業だったらとっくに倒産だよ!?なのになんで人は、そして「人類」は続かなきゃいけないのか?やっぱりそれってただ呆けてるだけなんじゃないのか。だったら思い出せよ!そもそも「人類」が続くなんて苦行が続く以外の何者でもないんだから、人類なんて滅んだ方が良いんだと!動物になって自然に身を任せるぐらいなら、「人間」として、気高く絶滅しようと、そうおもいませんか!?
こんなことを書いても、明日また僕は「忘れて」しまうんだよなぁ。
「……いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ。もういやだ。もうやだ。働きたくないよぉ。」