http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127
盛り上がっているようで。
まー、id:fuku33が学生をバカにした権威主義者であることなんていうのは、それこそさんざんid:Rir6が指摘してきたこと(1、2)なんで、今更何を騒いでいるんだと思うことも無きにしもあらずですが(ついでに言うなら、後日付記:わたくしのこのエントリーを「葛藤がない」と批判されている方がいるようですが、その方は巧妙にも(?)、こちらにTBを送っていらっしゃいませんでした。(こちらで拒否したり抹消したりしたわけではありません。)ブクマコメのたかだか百字の言い捨てはともかく、ひとつのエントリーとしてご批判をして下さるなら、こちらはできるだけ対応しようと思います。ですからどうかその方は、こそこそ物陰で憶測で人の意図を捏造してその虚像を攻撃するのではなく、TBを送って堂々とご批判頂ければ幸いです。なんてエラソーなこと言ってるけどさ、それこそどの口がそんなエラソーなこと言えるんだろうなぁw)。
しかしトリアージという問題設定自体は面白いものなので考えてみようか。もちろん、こういう「自分の言ったことが自分の意思とは異なった形で考えられること」自体をid:fuku33は嫌うのだろうけど。
さて、僕が医者だとしよう。僕の目の前に二人の患者さんが居る。どっちか一人の治療を出来る時間はあるけど、二人分の治療をしている時間はない。そして、今治療をしなければ、二人はどちらも死んでしまう。
さて、どっちを治療するのが「正しい」んだろうか?答えは一つなんですよ。
「両方とも、正しくない」
仮にその医者がものすごく有能な医者で、一目見ただけでどちらの治療をしたほうが生存する確率が高いか分かるとする。そしてその患者を治療した結果その患者は助かる。そのトリアージの事後に行われた検証でも完璧にその医者が正しいことが分かる。もしかしたらその医者は、非常時にも「正しいこと」をしたということで、国とかから表彰されるかもしれない。
でも、それでもその見捨てた患者の遺族は、こう言うでしょう。
何故殺したと。
なるほど、確かに一人を殺して十人を助けることは、その十人にとっては正しいことなのかもしれない。それと同じように、「かわいそうなぞう」を犠牲にして、動物園の周りを助けるのは、動物園の周りの人々にとっては正しいことだし、ある百貨店を見捨てることによって、日本経済全体を助けることは、日本経済全体にとっては、正しいことなのかもしれない。
でも、あなたは動物園の周りの人々でもなければ、日本経済全体でもない。トリアージによって助けられた患者でもない。「あなた」なんです。そして、あなたはこの世界全てを背負う「責任」がある。
だから、例えそれがどんなに効率的なことであったとしても、ただの一人を救えなかった時点で、あなたは無条件に「正しくない」のです。
そりゃあ、社会はあなたのことを支持するでしょう。「うんうんそうだね。あの場では一人の人間しか救えないもんね。あなたは一人を犠牲にする代わりにより多くの人の命を救った。あなたは全体のことを考えられたんだ。だから何も悪くなんてない。あなたは正しいのよ」と。そして、まさにそのような言葉に騙されているのが、id:fuku33に代表されるような、経営学者のような人間なのでしょう。(この罠に見事に引っかかっていて唖然">*1)
ですが、それはやっぱり宗教なんであって、真っ赤な嘘でしかないんです。だって、より多くの人が助けられたって、少しの人は殺すんですから。
そして、この宗教の更に害悪なところは、「正しくないもの」を「正しいもの」と思い込ませることによって、人を自分たちの駒の様に使い捨てる、そんな点にあるんですね。どういうことか説明しましょう。
もう一回先ほどのトリアージの例を考えます。ある二人の患者が居る。このとき、より多く助かる可能性のある人を助けるというのが「正しい」と錯覚させるのが全体教です。ところで、じゃあもし、この時助かる可能性のより少ない患者が、「自分の大切な人」だったら、どうすべきなのか?真実は、「どちらを助けても結局は同じ間違いだ」ということです。しかし全体教の悪魔はこう囁いてくるんです。「より助ける可能性の少ない人間を助けるのは『正しくない』ことだ。感情ごときに左右されて全体を見失うな。より『正しい道』を選択しろ」と。
id:fuku33はこう言います。
「そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?」と書いてきたお嬢さんもいた。そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。いや、こちらはできるだけ冷静に、穏和に説明したつもりなんだけどなあ。
ですが、ここで僕ははっきり言っておきましょう。あんたの様に、「全体」のためなら自分を犠牲にすることが正しいと考えるような人間が居るから、燃え尽きたり過労自殺するような人間が増えるんだよ!と。
最後に、もし僕がこの授業の講師だったら、こう講義する。というのを書いておきます。
トリアージというものがある。助かる可能性の少ない人間を犠牲にして、より助かる可能性の多い人間を助ける。そんなやり方だ。
馬鹿な医者は「そのトリアージをすることが『正しいこと』だからそれをするんだ!」なんてことを考えている。まったく馬鹿な連中だよ。人を見捨てることが「正しいこと」なわけねぇじゃねぇか。医者がトリアージをする理由はただ一つ、「それをしないと自分の『医者』としての地位が危うくなるから」だ。結局のところ自己保身なのよ。自分の職を守るために、他人を見殺しにしている。ただそれだけ。
じゃあトリアージをまったくせずにただ目の前に早く来た患者をひたすら治療してればどうなるか?そりゃあんたらの目の前の人間はある程度助かるだろうよ。でも、たぶんあんたの目の前には行列が出来る。行列がどんどん長くなり、後ろのほうではすすりなく声が聞こえるようになるだろうな。もしかしたら、後ろの列に並んでいた人間が、いきなり前のほうにやってきて、おまえさんのことを「この人殺し!」と言いながら殴りに来るかもしれない。結局のところ、どっちをやっても助けられない人間は出てくるし、そして、人を助けられない、見殺しにするっていうのは「正しくない」ことだ。どっちを選んだって、あの世で閻魔様に地獄行きって言われることに変わりはねぇ。
だから結局どんな道を選んだって「正しくない」んだ。そりゃあ、自分を騙そうとすれば幾らでも騙せるぜ?「より多くの人を助けることが、正しいことなんだ」って思い込んで、自分がまったく正しいことをしている聖人君子だって思い込んで、それで最終的には、「社会全体」のために大切な人や自分自身を犠牲にして死んでいく。まぁ、それでも「正しいことをした」って思い込めて死ねるんだから、もしかしたら幸せな人生かもしれねぇなあ。
でも、やっぱりそれも本当は「正しくない」んだよ。いや、多分本人も「正しくない」ってことは分かってるんだ。分かってる、けど自分が「正しくない」ことに耐えられない。自分が「正しいこと」をしてるって思い込みたい。だから宗教にでもなんにでもすがって、自分を安心させたい。嘘でもいい、助けてほしいと……
でも、やっぱり俺は、そんなの間違ってると思うんだ。だって、てめぇの人生なんだから、誰かに助けなんか求められる訳ないじゃねぇか。
俺たちは、「正しくない」道しか選べない。しかも悪いことに、「正しくない」道はいくつもあって、それらの選択は俺たちに委ねられてる。まったく腐った世界だよ。もし俺の手の中に「世界を一瞬で消滅させられるスイッチ」なんてものがあれば、俺は躊躇わずに押してるだろうね。でも、そんなボタンはこの世のどこにもありはしない。だからに俺たちは選ばなきゃいけねぇんだ。神様につば吐きながら、誰にも頼らず、「正しくない」、「かわいそう」な道をな。そこで「正しい道を教えてあげるよ」なんて馴れ馴れしく言ってくる学者野郎が居たら、金玉蹴り上げてこう言ってやれ。「てめぇの『正しさ』を押し付けるんじゃねぇ!」とな。
俺だったらどうするかって?そうだな、もし俺が大地震とかに遭ってそんな状況になったら。まず逃げるたせろうな。とにかく逃げて、自分が大切に思う人間が無事かどうかを確認する。医者としての義務なんかしったことか。俺は、俺自身と、「俺の大切な人」を助けるために、「正しくない」ことをする。ただそれだけだ。
↑の記事をhttp://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127にTrackbackしたらなぜか届かなくて、しょうがないからコメント欄で「記事書きましたよ」と連絡したらなぜかコメントが消えていて、あれー?って感じだったんで、追記しておきますね。
*1: 割と教養ある人間ではそんな罠に引っかかる人間は少ない……と思ってたんだけど、最近批評家を名乗る人間がこの罠に見事に引っかかっていて唖然
この日へのコメント
互いに頼り 互いにかばいあい 互いに助け合う
「嘘を言うな!」
「お前も! お前も! お前も! 俺のために死ね!」
これが真実ですよね。
ただ、あえて言うならどっちも正しい。
そういう考えで言うなら、fukuなんとかさんもあなたも
大体同じ質の人間。
全部正しいってことでいいんじゃないでしょうか。
トリアージが正しいと信じることで、
現場の医師が救われるならそれはそれでいいと思います。
外野はエラソーなこと言わず、全員救うことはできないんだから仕方ない、
って言ってあげるぐらいしかないのでは。
なんだかあなたも自分の正義を振り回して悦に入ってるだけのように見えます。
そうならないようにするには、トリアージのようなルールが必要になるのです。
「先着順」なんてされたらパニックが起きますよ。
ところで、自分と大切な人の安全が確保できたその後、どういう順番で治療するのですか?
まさか、「全員を救えないから、一人も治療しない」なんてことはないと思うのですが、如何でしょう?
不眠症の患者百人の後ろに、腹膜炎の患者が並んでいても、先着順を選ぶのでしょうか。
正しい答えなんて存在しない。でも現場では判断を求められる。さぁ、どうしましょ?
http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20070706/1183722718#c1183730346
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だそうです。
まず、両方助けるべきだという意見。それが正しいという意見。そしてそうあってほしいという心情。これは否定しません。まったく間違ってないでしょう。ギャルゲーとかもそういう心情を反映してか、どっちも救いたいみたいな願望を満たす作品が多いですね。
で、それは、「理想」の中だけにおいて、正しい、とでも言っておきましょうか。
かわいそう。救いたい。みんな救うべきだ。それが理想世界だ。それはそうなんです。でもそうはいかないでしょう。社会は。
殺人鬼を檻に閉じ込めるなんてかわいそう。となっても出すわけにはいかないでしょう。
つまり、一人を救い、一人を救わないということは、正直に言って、「暴力」であり、「切断」であり、排除と選別なんですよ。
で、「全体」とそれを結びつけるのはちょっと恣意的で、全体主義への悪感情を利用している節があると思いますが、
社会とは、切断の暴力を行使し、「かわいそう」ではありつつも、「正しくない暴力」を行使しつつも、
その暴力と罪悪を引き受けて、「最大多数の最大幸福」を実現するものなんだと思いますよ。
これをやってなかったらこうしてのんきにブログなんて書いている世の中になっていないでしょう。
アーサー王に神から聖剣エクスカリバーが贈られたという話も、王は「切断の暴力を行使しなくてはいけない」ということだと
考えています。
別にトリアージは「正しいこと」というよりは、「正しくない中で一番マシ」なことであって、
正しくなければいけない、そしてその理想に適合しない世界なんてくそったれだ、的思考は、
誰を幸福にするんでしょうか。もちろん、僕だって「正しさの暴力」は理解しているつもりで、
それを否定する思想や文学が書かれたっていい。しかしそれはあくまで理想であって、今現在の現実の世界はそうはならない。それは仕方のないことでは。
理想として「全員救う」「そういう世の中にする」そういう熱意は大事で、それで社会は進歩(?)していくでしょう。
でも、現代の現実はそうでないから、「一番マシだと思われる」トリアージを「正しくない」と覚悟しつつ「かわいそう」とも思いつつ
粛々とやっていく「しかない」のでは。
政治的に正しいのは、両方とも助けないことですよ。
でもって、その悲劇を吹聴して
資源の分配比率が問題なのだと主張するのが政治的な正しさってやつでしょうね。
トリアージってのは(最)適解ではなく、
少なくとも手元の情報と判断力で次善を追求する技術だとおもいますよ。
吹き上がってるように見える方々は、なにぶんにもナイーブに過ぎる気がします。
要は”バランス”の問題だと思います。
あとは、当人の意識の問題では?
どこまで集団の中で義務を全うし、うまい言葉が出てきませんが評価を得たいかという意識の。
集団の中では、どこまで義務を全うすべきかという疑問に対して各個人の解が集結され、世論としての最適解(常識?)が導き出されるとします。
それを無意識下で当人がどこまで重んじるかどうかの問題ではないでしょうか。
理論としては正しくとも、社会の中で”正しい”とは言えないものなんて沢山あります。
>あんたの様に、「全体」のためなら自分を犠牲にすることが正しいと考えるような人間が居るから、燃え尽きたり過労自殺するような人間が増えるんだよ!
とありますが、そもそも過労死しろなんてどの社会が言ったんでしょうか。
確かに今、モラルのない会社が増えていますが、社会はそれを良しとしているんでしょうか?
それに、社会の最適解と狭い集団内の最適解は全く異なる次元の話だと思います。
自分の部署が犠牲となって会社に貢献し、評価されるのであれば、それが最適解となる場合もありますよね。
そのあたりはどうお考えでしょうか?