Rir6アーカイブ

2003-08-15


[旧NWatch]2ちゃんねる発OFFと政治の関係

ネットで呼びかけ集団いたずらHAGAKURE Plus
雨の中 それぞれの思いで参拝 靖国神社HAGAKURE Plus
を見て感じた事(といっても別に上の記事とはあまり関係ない)

2ちゃんねるというのはまあ当たり前の事なんですが日本の掲示板です(【広告】ちなみにWorld2chは世界の掲示板だよ)。従って2ちゃんねるのコミュニティの中にある規律ってのはとても日本的です。

日本的というのはどういう事かというとまあ色々あるんですが一つの性質として「政治的な事にあまり関わろうとしない」というのがあります。

参照:なぜJ-POPは愛ばかり歌うのかミラー

1 名前:1 投稿日:03/07/20 17:02 (ID:)
前から気になってます。
理由は売れるから。では、なぜ売れる?
心理学とか生物学とかの観点からも論じてみたら面白いと
思います。


30 名前:@ 投稿日:03/07/23 13:25 (ID:)
万葉集の時代から、日本の歌のテーマは、恋愛・自然・挽歌と決まっていた。
欧州や中国では昔から政治というテーマがランクするが、日本では売れんだろ。
日本人のノンポリは1300年前からの筋金入り。
日本では恋愛以外では、御当地ソングというか、各地の情景を唄った歌が受ける。
挽歌もヒット作がいくつかある。

31 名前:  投稿日:03/07/23 16:42 (ID:)
>>30
たしかにそうだな。
さらにいえば日本語自体が政治的なことを
歌うのに向いていないということでもある。
そういう難いテーマは漢文詩で歌ってきたんだろう。
で、その日本人的な考えは当然2ちゃんねるにも現れてきてるわけで、、、例えば話題になった「折り鶴を折って広島に送るOFF」への批判も大概がそういう物です。
曰く「2ちゃんねるのOFFって政治思想に関係なく全ての団体を馬鹿にするんじゃないの?」「工作員(・∀・)カエレ!!」「政治団体に利用されて恥ずかしいと思わないの?」

そしてこれらの事に対して折り鶴OFF賛成派は「別に政治信条とか関係なく純粋に何も考えずに折っているんだよ」「これは偽善なの」「ぐだぐだ言わずにとりあえず折れ」と反論(?)します。

はっきりいって僕はこの論争を見る度に腹が立ってきました、しかしそんな時あの朝日新聞が一つの記事を書いたんですね、それ見たときは正直胸がスカッとしました。

参照:2ちゃんねる 広がる折り鶴運動 「広島へ届けよう」
2ちゃんねる 広がる折り鶴運動 「広島へ届けよう」

(略)

 「反戦とかは深く考えず、だれかが喜ぶならと思っただけ」と、2日前この「オフ会」を呼びかけた20代の男性会社員。半日の有給休暇をとってきた。「お祭りのようで面白い」という大学生の男性、「ネットで『原爆の子の像』の話を知り、平和のためにと、小学3年の娘と一緒に150羽を折って持ってきた」と30代の主婦。動機は様々だが議論は抜き、名乗り合うこともなく、歌も歌わず、黙々と折る。

(略)

 一方で、批判的な書きこみもたくさんあった。「面白半分に折り鶴折ろうとか言ってる奴の頭の構造疑う」「なにこれ?偽善売名?」。掲示板での議論は今も続く。

 だが、新宿に来た大学生は言う。「何百羽も折ってれば1羽くらいは、被爆者への思いが入るんじゃないの」

 「折り鶴」派は2ちゃんねるで、こう呼びかける。「グダグダ言うより、とりあえず折れ」
といってもこの記事自体は普通なんですよ、問題はこれを「朝日(赤卑と読もうがそれは自由とします)新聞」が伝えたことなんですね。あの、朝日新聞が、、、

当然これはアンチ折り鶴派にとってはまさに幸運、「それ見たことか、やっぱり政治的な物じゃないか」、そして折り鶴賛成派にも「結局俺達は朝日に利用されただけだったのか、、、」という失望が広がります。

しかしここで僕は思うのです。
「なにこの人達は当たり前の事に対して批判したり失望したりしてるんだろう?」と、

結局の所折り鶴を折って、しかもそれを終戦記念日に送るというのは極めて「政治的」な行為なんです。例えばアメリカ人の中には「黄色いJAPは汚い奇襲攻撃をしたのだから原爆で死んで当然」と言う人だって居ます、そしてそれらの意見は別に精神病院とかに入ってる人達からでは無く、普通に国会議員とかから発せられるのです。
折り鶴を折り広島に送るという事は、少なくともそれらの人たちに対して「反対」の意思表示をする事であり、明らかに「政治的」な行為なんですよ。

だからといって僕は反対派の意見が正しいとは思いません。そもそも何で「2ちゃんねるでは政治的なOFFはやらない方が良い」のでしょうか?政治に対して関心を持ち、行動を起こすというのは民主主義の基本であり、むしろ尊敬されることだと僕は思うのです。

例えば2ちゃんねるで批判される物に「プロ市民」というのがあります。

参照:プロ市民
プロ市民【ぷろしみん】[名](ニュース系・社会系の各板)

「市民運動家」のこと。
本来、「市民運動」とは政治のアマチュアである一般住民によって為される行為である。
しかし世の中には、市民運動を主催・指導することを生活の基盤としている人がいる。
そのような「運動家」は、「批判のための批判」をしたり、自分の居住地とは
関係のない地域で市民運動を主催したりする。
「プロ市民」という呼称は、このような本末転倒した運動家に対する皮肉として用いられる。
(どうでも良いけど2典って辞書としては「公平さ」に欠けるよな、、、何か2典初期の「悪魔の辞書」的な観点がまだ残っているというか、、、)

しかしあの初期の極東板系OFFを指揮したあいふる氏のページによると、実は「プロ市民」って元々は良い意味だったんだそうです。

参照:「プロ市民」って、元々は良い意味だったんだよ
第5節 プロ市民が育つ参加と連携のまちづくり(計画実現のために)

地域社会の主体者である市民はプロ市民としての意識を持ち、行政に携わる者は行政事務の専門家として、それぞれの役割を分担しながら一緒になってまちづくりを進めていかなければならない時代を迎えています。それも地球的視点に立ち広域的に手を携えながら進めていく必要があります。  更に、行政は自らの進み方としての行政改革を推し進めていきます。それらを実現し21世紀の鹿島市づくりのために、体制づくりやシステムづくり、意識改革を推進する「プロ市民が育つ参加と連携のまちづくり」を進めます。
大体考えて欲しいのですが、もし市民が民主主義に関して「プロ」でなくなったら一体どうなるのでしょう?政治について生半可な知識しか持たず、確固たる信念もない、選挙の時にはとりあえず自分の知ってる議員(つまりタレント議員ね)に票を入れ、その人の公約なんか全然見ない、若しくは見たとしても鵜呑みにしてしまう、そんな人たちが大多数になったとしたら、、、

そんな訳で僕は別に「プロ市民」を悪い意味には捉えません、だって「批判のための批判」をしている市民運動家がもし居たとしても、それは別に「プロ」だからでは無くむしろ逆、「プロ意識が足りない」からその様な事をするのだと思うからです。

あと2ちゃんねるでは良く「工作員」も批判されますね(「工作員(・∀・)カエレ!!、など」)、しかしこれも僕はおかしいと思います。だって工作員が良い意見を言わないという確証が何処にあるのでしょう?そもそも2ちゃんねるのような匿名掲示板ではそのような身分の特定はシステム上の問題から出来ないため書き込みの文の質によってランク付けがなされます(そこが良い所だったりする)、もしどうしても工作員が居ない話し合いがしたいのなら別に新たな身分の証明システムのある掲示板を作り、そこで議論すべきでしょう。

また「工作員はプロだから我々素人は扇動されてしまう」という意見を言う人も居るかも知れません、しかしよく考えてみればこの世の中というのは別に2ちゃんねる以外にも扇動のプロというのはそこら中に居ます、選挙の演説だって大概はプロの扇動ですし、新聞の社説もプロの扇動(ウヨサヨ問わずにね)、扇動ではなく対話を目指している政治活動に出会う方が難しい位です。そんな世の中に生きているのに「我々は素人だからプロの扇動には敵わない」とか言うのははっきり言って「甘え」以外の何者でもありません。

(しかし本来ならそのような「民主主義のプロ」になる為の教育ってのは選挙権を貰うまでの20年間で必ずやらなければならない事なんだけどな、ま、自民党政府としては「扇動しやすい国民」の方が使いやすいからあえて教えなかったんだろうが、、、)

政治的OFF、良いじゃないですかどんどんやりましょうよ。
もっと欲を言えば「○○OFFに対抗するOFF」とかももっとどんどんやって欲しいね、異なる信条を持つ者が現実で対決する、良いじゃないですか(但し暴力沙汰とかはやめてね)。そもそも「2ちゃんねらーは○○べし!」とか誰が決めたんですか?2ちゃんねるというのはたんなる「場」なんですよ、別に団結したり理念を共有する必要なんか何処にもないんですよ。。。

まあ、今でこそこんな風にエラソーな事言えるが、僕も昔は黒装束OFFで「別に電子レンジとかもってウロチョロするだけで、白装束集団に対する非難の気持ちとかはありません。」とか言ってたんだよね、素直に「白装束集団逝ってよし!」とかをスローガンにしとけばよかったのに、、、
でもそれだと人集まらなかっただろうな、、、当時同じ事思っていた人は一杯居たはずなのに
http://off.2ch.net/offmatrix/