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2004-06-13


[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(5〓1)恐怖の不均衡

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
佐世保事件、女児を精神鑑定へ 付添人が申請アサヒ・コム

 長崎県佐世保市の大久保小学校で、6年の御手洗怜美(さとみ)さん(12)が首をカッターナイフで切られて死亡した事件で、家裁送致された同級生女児(11)の付添人の弁護士が11日、女児の精神鑑定を長崎家裁佐世保支部に申請した。付添人によると、家裁も鑑定実施の意向を示しているという。このため家裁は、近く開かれる第1回審判で「鑑定留置」を決めるとみられる。

 付添人は当初、「コミュニケーション能力に問題ない」として鑑定は必要ないとの見方を示していたが、その後に判明した事件時の様子やホームページの内容の過激さなどを考慮して申請を決めたとしている。
朝日新聞はこの事件に関して一番まともに報道してると思う。(ただヤフーニュースで記事をリンクしないから使いにくいんだよね、、、)

ま、こういう精神鑑定がされるってのは、確かにある程度予想は出来たことなのですが、しかし理解は出来ないんだよね。。。

結局こういう精神鑑定やワイドショーの過剰すぎるプライバシーあばき(ホームページで公開してない日記や絵を公開するって明らかにプライバシーの権利の侵害だと思うのだけれど誰1人指摘しないね。ま、確かにこの事件の加害者の異常性を強調するというのは明らかに「公共の利益」と合致してるんだけどさ、、、)の根元にあるのは加害者を普通の小学6年生だと"思いたくない"という気持ちなんだよね、何故ならもしそれを認めれば今の「他人の考えていることが分かる(と見せかけている)世界」が崩れ、他人に怯える生活が始まってしまうから・・・

でもね、僕はふと思うんですよ。確かに僕達はこの様な「他人の考えていることが分かる(と見せかけている)世界」を作ることによって他人に怯える事の量を少なくしてると思っているけど、それは僕達がそう思いたいだけであって、実際は他人に怯えることをある種の特性の人間に押しつけているのではないか?と。そしてその思いは考えれば考えるほど"確信"に近づいていくんです。。。

何故ならそういう「他人の考えていることが分かる(と見せかけている)世界」は、確かに一方では「(他人の集合体である)社会の倫理に反するような行為(今の社会では殺人など)を防ぐ」という良い側面があるけど、しかし一方では「社会の倫理に反しなければ何でもやって良い」という負の側面を生み出しているからなのです。

それ(社会の倫理と合致すること)は日本の社会では「からかい」なのでしょう。しかし僕はそれを"日本社会の特異性"などとはしたくないのです、欧米社会などは日本と違いドライな精神風土であるから、そういう相手を傷つけるような「からかい」は生まれない、そう、良く欧米に住んでいた人は言います。しかし、それが間違いであることはコロンパイン高校の銃乱射や学校への立て籠もりなどが現実でもって証明しているのです。

そしてその「社会の倫理と合致すること」が耐えられない人の内、一部が犯罪を起こし、一部が自殺し、一部がその恨みを昇華して成功者となり、そして残りの大多数が自己の尊厳を傷つけられながらもそれに対抗することを諦め、まぁ日常を生きるわけです。

まー、そこまでの事なら馬鹿なワイドショーとかならともかく、頭の良い人なら色々なBLOGとかで書いているんですよ、しかし、その様な文の後に必ずと言っていいほど来る次の文が、僕にとっても憤死してしまいそうなほど憤ろしいのです。
しかし、そんな事は言っても殺人はいけない、被害者にはその恨みを犯罪という方法で消すのではなく、
case1:小説や漫画などで昇華して欲しかった。
case2:頑張って卒業するまで待って欲しかった、そうすれば大多数の人のように普通に生きれるのに

はぁぁぁぁぁ!?
この文が来た途端、「あぁ結局この人もその様な苦しみがある事を頭では理解していても、心で犯人に共感することは出来ないんだな」ともの凄い落胆してしまうのです(なまじ恨みがどのように生まれるかを解説してくれるだけに期待しちゃうんですな)。

case1へ:あのですね、確かに才能があるあんたは良いですよ、漫画の出来るあんた、あんたはマンガで昇華すりゃあ良いさ、アニメで昇華できるそこのヒゲ、どうぞ存分アニメであんたの恨みを消して下さい、小説で昇華できるメガネ、あんたのお話面白いよ、でもね、世の中にはそんな才能も無い駄目な奴も居るんですよ、そんな奴らの事を本気で考えたことがあるのか!

case2へ:じゃああんた「少年時代もう一回やってね」と言われて耐えられるか?確かにあんたは「経験」はしたかも知れないが、しかし経験は所詮過去であり、今の苦しみとすり合わせるためにはどうしたって言葉で言い表せない「何か」が必要なんですよ。

しかしそんな事を言っても所詮聞くわけがないんだよな・・・

この次の文では「では今少女と同じように苦しんでいる人はどのようにすべきか?」を書きたいと思います。今この文を見ている「苦しんでいる人」は次の文を是非見て下さい。(ただ自分でもまだ書いてないんで書けるかどうか不安なんだけど。。。) http://www.asahi.com/special/sasebo/OSK200406110025.html

[佐世保の少女について]長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(6)翼を折るな!

この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。(5〓2の記事を書くのはちょっと本当によーく考えなきゃいけない事だから先に6を書いておく)
「チャット」禁止 横島町の町民図書館、小6女児事件受け熊本日日新聞

 長崎県佐世保市の小六女児事件で、インターネットのチャット(会話)が事件のきっかけになったとの報道を受け、玉名郡横島町の町民図書館は十一日までに、館内に設置しているパソコンのチャット使用を禁止した。

(略)

 インターネットは利用できるため、職員が常時パソコンをチェックする。今後、チャットを制限するソフトの導入も検討するという。
僕は図書館が好きです、そしてその理由の一部は次の文にあります。
図書館の自由に関する宣言日本図書館協会
 図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
1. 日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
 知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
 知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。

(略)

3. 図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
しかしある町の図書館で禁止という名の制限が加えられた瞬間、この宣言はお笑い草となりました。

確かに色々な「解釈」を行えば、このチャット禁止令と宣言の文字が矛盾を起こさないよう何とかする事は可能でしょう(日本国憲法第9条みたいにね)、しかし、チャット禁止とこの宣言の「精神」は絶対に合致しない!宣言と合致しない行為が起きるのを許すということは、所詮この宣言はザルであり、ザルを大事そうに掲げているという事はまさしくお笑いなのです。

おそらくこの決定の背景には「図書館というのは子供の情操教育の為にならなきゃなりません、チャットなんて危険な遊びもってのほかですわムキー!」とか言ってるおばさん(永井豪画)が居ることがありありと目に浮かぶ。だがなぁ奥さん、そもそも図書館なんて余程のこと限りある程度の年以上の子供をひねくれさせるぞ、書というものは本質的に反社会的なのだとかいうインテリも居るし(宝島系の人で唯一認めることが出来るのがこの人だったり)、チャットやバトロワ以外にも「人間失格」とか危険な本一杯あるんだぞ?

しかし以外とこれに賛同しそうな人がネット上にも多そうなのが今のネット界の悲しいところだよなぁ。。。またこれに賛同する人も実際は「子供は親が管理する物なのだから"親"が禁止かどうか判断しなさい」とか言う人が殆どだろうし、、、はぁー。

結局の所彼らは「社会」を信用してるんでしょうな、「図書館」という社会の代理人、「教師」という社会の代理人、そして、親という「社会」の代理人(まぁ実際は社会の代理人にならない親も居るんだけど)、その人達を彼らは完璧に信用している、だからそんな事が言えるんでしょうなぁ。

人間の自我というのは体験によって生まれた記憶によって形成されていきます。ということは体験を社会に任せると言うことは自我を社会に任せると言うこと、はっきり言って僕にはそんな事想像したくもないほどおぞましい出来事なんですけど、それでもあえて考えてみると・・・よく考えたら社会って自我を必要としていないんですね、だから社会はきっと自我を無力化する記憶を人間に与える、その結果出来たのが自我を抑制された人間、いや、その人間は自我を抑制されている時点で外部からは人間と分からないのだから、きっと良く出来た人形と外見は変わらない。。。

人間というのは一番最初に情報が入って自我が確立したときから自分で情報を取得し、発信できるんです(だってそれが無いと死んじゃうし)、だから親がすべきなのはあくまで子供の情報取得・発信の手助けであって、情報統制による教育ではないのです。

そういう事を言うとまた「子供の自我はまだ未熟なんだから」とか言う人が居るかも知れないので一応言っておくと、、、

自我に未熟もくそもない!

自我の戦いってのは大人になってから始まるわけではないんです、幼児には幼児の、子供には子供の、青年には青年の、戦いがあるんです。そこでは未熟などという基準はありません。どの自我だってモラトリアム無しで全力で闘わなければならないのです。所詮親が守れるのは子供の体だけであり、子供の自我は守備しようが無いのです。

そもそも自我にモラトリアムなど存在しようが無いのです。よく考えてご覧なさい、14歳の最後の一日は自我が無くて、15歳になった途端自我が生まれる、こんな馬鹿な話がありますか?例え個人差を考えたって、一瞬で自我が無い状況からある状況に移行するのは変わりなく、「ゆるやかな移行なんだ」とか言うのだって、結局の所「大人の成熟した自我」と「子供の未熟な自我」を分けて考える限りどっかの瞬間に一瞬で「子供」から「大人」に変わってしまうんですよ、結局の所、自我は変化はするけどそれがあるのは大人も子供も一緒なんです。

(一応言っておくとこれは別に少年法適用年齢をもっと引き下げろとかそういう意図で書かれたのではないのであしからず、僕は少年法というのは義務教育という刑務所とバーターに与えられている特権だと思います。だからもし少年法適用年齢を引き下げるなら、今子供に課せられている様々な束縛・規制を取り払うの先決でしょう。)

最後に言います、子供にとってインターネットというのは自己に自我がある事を認めて接してくれる唯一の情報装置なんです。つまり子供にとってはインターネットというのは「翼」なんです。確かに翼は悪用もできますし、悪用ではなくてもイカロスの翼みたいにいつの間にか残酷なことになりもします。しかし、翼は空を飛ぶためには絶対不可欠なのです。翼を、折らないで下さい。それが、いままで翼をわざと与えてこなかった大人達に出来る「償い」なのです。

P.S.次の5-2の文章が書き終わったら感想&反論コメント・TrackBackを一通り見るつもりです←今まで見てなかったんですな(返信するかどうかはまた別の話)。 http://kumanichi.com/news/local/main/200406/20040612000021.htm