この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
コメント見させていただきました、まぁ思ったより煽り・荒らしが少なく、結構真剣に書き込んでもらったみたいでありがたいと思います。何度も特集の記事の冒頭で告知してきたように、その全てのコメントに答える訳にはいきませんが、一部のコメントは僕にとって大変興味深い物でしたので、答えさせていただきます。
まずコメントで多かったのが、「所詮あなたが得ている情報はマスコミを通して加工された二次情報であるのだから、それをソースに加害者に共感するというのは即ち"マスコミによって作られた加害者"への共感である。しかしそれは危険なのではないか?」という物です。
確かにその指摘は間違ってはいません。僕は「真の加害者」の事など知ることは(例え親友とかだったとしても)出来ないし、一次情報(つまり加害者と直接会って得る情報のこと)だろうが二次情報だろうが、結局何らかのフィルターが掛かってしまうのは確実でしょう。だとしたら何故僕はそんなフィルターが掛かった「偽の加害者」に共感するのか?
それに対する答えを言うには、僕の思考スタイルを説明しなければならないでしょう。僕の思考スタイルというのは「自分の『自我』からしか倫理を導き出さない」という物です。
何故そういう思考スタイルになったかといえば、「自分の『自我』以外に存在を根拠無き仮定無しに証明できる物が無いから」としか言いようがありません。とにかく、僕はそういう様式で色々な物事を考えるのです。
ですから僕にとっては「真の加害者」と「偽の加害者」という2つの加害者の違いはそんなに重要な事ではない、何故なら「真の加害者」も「偽の加害者」も、存在を完全に証明する事は出来ないからです。更に言うならば、僕は「事実」と「虚構」を同じレベルで考えます。簡単に言うと「アニメと現実の区別を"つけない"」んですな(まぁ、「つけない」と「つかない」の違いなんて、外部から見たら無いに等しいんですけど)。このような考えは確かに危険かもしれません。「事実」によって苦しめられている人からしたら「フザケンナ!」と思われる物かも知れません。しかし、僕は上記で述べたように「自分の『自我』」以外に存在を完全に証明できる物を見つけられないのです。ですから僕のこの姿勢を批判するのなら、その「見つけられない」事を批判して下さい(というかコメントスレの>>319-322で批判されてるんだけどね、それについてはまた後で)。
次に「あなたは矛盾を批判するが、矛盾を認めて生きることが大人への第一歩なのだ。大人になりなさい」「もし矛盾を認めるなら、それを解消するためにすぐ行動を起こせよ!」という批判(説教?)について答えてみたいと思います。
まず最初に矛盾に対する考えにどのような物があるか整理してみましょう。