この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
何か読冊日記という精神科医が運営しているサイトで、>被害者及び加害者がホームページを開いていた訂正:被害者や加害者がホームページを開いていたのはカフェスタでした。それについて詳しくはこちらぱどタウンというコミュニティのルールが変だという記事を書いて、それがBLOG界で話題になっているらしい(1・2)ので、僕も発言してみる。
何か極めて悪趣味な感じがこの文章からは感じられるなぁ、それは例えるなら韓国の犬食を批判するブリジット・バルドーみたいというか、オウムを追い出そうとする一般市民というか、そんな感じが感じるんですね。
でもまぁ感じだけを言うんだったら単なる中傷(別に僕はそれでもいっこうに構わないんだけど)になってしまうのでちょっとこの感じについて説明してみようと思う。
このサイトでは一般のネット界とぱどタウンのルールを比較して、「ぱどタウンのルールはおかしい!何故なら我々のルールと違うからだ」と言い、「彼らに正しいルールを与え、更正させなければならない」と結論付けます。
ここにあるのは「我々のルール」という物に対する絶対の信頼なんですよ。まぁその信頼の元には確固とした論理があるのかもしれないけど、でもそれを絶対的に信頼していることには変わりはない。
だけれど僕は思うのですよ、「我々のルールも彼らのルールも大きな視点から見れば等価値なんだから、認めろとは言わないけれど↓のように馬鹿にするのは止めようよ」と。
すごく疲れてショックなこともたくさんあるけれど、小学生のことを嫌いになれない!! (泣)というコメント。爆笑。ぱどに潜り込んで、ひどい目に遭って命からがら生還したときにでも使わせてもらおう(ひどい目に遭うと決まってるのか)。
いきなり来て、注意!?とか言っているかもしれないと思う。
ふざけんなよ!?
いきなり来て、
知り合ってもないのに、
注意されても困るんだよ!!
俺、優しいキャラのなりきりしてるけど、
俺の素はそんな優しくなんかねぇんだよ!!
ひょっとすると、私たちは、インターネットがあまりにもオープンでありすぎることに、そろそろ疲れてきたんじゃないだろうか。と書いているが、そんな複雑な理由ではなく、ただ単に「そういうのがルールになっているから」という理由でそのWinMX的ルールを使っている人が殆どだと思いますよ)し、これは僕の経験の話なのだけれど、以前bbspinkという掲示板で少年ポルノ画像が貼られてそれが何かの拍子でニュー速に流れて祭りになったことがあったんだけど、そのスレでは本当に罪悪感無くポルノ画像の配布を行っていて、ニュー速で祭りになった後も「何なんだろうねああいう輩は?」という感じでまるでニュー速の方がルールを犯した者みたいに(というかニュー速の祭りは実際に彼ら一部のbbspinkのスレのルールを破っていたのだけれど)批判していたんてす。余りに頭に来て僕はそのスレに突撃(※21歳未満は本当はbbspinkに書き込んではいけません)したんだけど、袋叩きに遭いましたよ。まー、説得なんて通用するわけがないのが分かっていて突撃した僕も馬鹿なのですけどね。
「所有」にこだわる点については、私は彼らの幼さ、コミュニケーションの未熟さによるものだと思うといいますが、一体「所有」に拘る点が何故未熟と言い切れるだろうか?また、「所有」に拘らなくなることを退化ではなく成長と言い切れるのは何故か?そこに僕は「大人」である事に対する甘えを感じてしまうのです。
簡単なネットリテラシーについての試験をやらせるとか、ホームページ開設はもうちょっと敷居が高い方がいいんじゃないだろうか。まあ、一私企業に小学生へのネット教育を要求しても無理だろうから、いっそのこと、運転免許みたいに教習と試験を受けさせてホームページ開設免許を交付した方がいいのかも。というように子供に対する大人には何かしらメッセージを出しているのに、その奇妙なルールを信仰している子供達に対してのメッセージは何も書いていないという所にも顕著に現れていると思う。
つまり、この事件の背景にあったのは、「心ない一言が悪意を増幅させる」といった、ネットのマナーや会話の礼儀よりむしろ、いくら仲良くてもパスワード教えちゃいかん、とか、不正アクセスはダメ、とかそういう非常に基本的なネットのルール上の問題だったんじゃないだろうか。「彼らがこのような事件を起こした理由は本当はそんな深いことではなく、単純に彼らのメディアリテラシーの不備にあるのだ。(だからそんなに深く考えなくても良いんだよ)」という事を言っているのだ。これを逃げと呼ばずして一体何と呼ぶのか?
私のようなネット原住民は、旧人類気分をいやというほど味わわされるのを嫌と感じるなら、分析を止めて子供達に自分の言葉で「何故ぱどタウンのルールが駄目なのか」語りなさい。あなたは
「インターネット的」な生き方、考え方がすでに常識として身についてしまい、それを信奉していると言い、そしてインターネット的な考えの中の「フラット」というキーワードについて
学年ひとつの差が大きな意味を持つので「フラット」ではありえない。と書きました。しかし教育というのはまさに学年一つの差が大きな意味を持つという基盤に成り立っているのです。非インターネット的な物によって築かれた人間が本当にインターネット的になると考えている訳ではないでしょう?だからもしあなた達が「インターネット的」な物を子供達に持って貰おうとするなら、あなたは教育に逃げてはいけない。教育ではなく主張を、子供達に向けてするべきなのだ。 http://homepage3.nifty.com/kazano/diary.html
ひきこもりのための安楽死(尊厳死)@Freezing Point
少々過激な言い分になりますが…。 避けて通れないと思うので。この人のあくまで事実について考えようとする真摯な態度は凄いと思う。でも、あくまでこれは「社会はどうするべきか?」であって、「私はどうするか?」では無いんだよね。。。
上でも書きましたが、「去勢」を相手に望むのであれば、そこには(その相手にとっての)「希望」がなければならない。 「希望」がないのならば、それは「拷問の強制」でしかないので、「去勢」は不可能ではないでしょうか。
ひきこもり支援は、何らかの形で本人に欲望を持ってもらい、ということは「希望」を持ってもらい、そこから去勢への回路が開かれ、もって「社会」への回路も開く、という道筋を持つものだと思います。
しかし…。
「努力すれば、誰でもなんとかなる」というのは、幻想だと思います。 「努力してもどうにもならない」人もいる(少なくとも、短期的な実現可能性の中では)。
だとすれば、「努力してもどうにもならない」人のための苦痛緩和的な選択肢も、用意しておくべきではないでしょうか。
現実的に言って社会再復帰の可能性がなく、しかも当人の主観的苦痛があまりに激しい場合には、(文字通りの意味での)安楽死(尊厳死)を、検討すべきではないでしょうか。
社会進化論とは、目的論的自然観と進化論を基にした社会理論の一種で、自然が一定の仕方で変化するように社会はある理想的な状態へと進化していくものであり、現在の社会はその途上にある、とする社会観である。という物だそうです。つまり簡単に言うなら生物と同じように、社会も環境に適応して進化するという理論です。