なんかねー、どうやら僕のPerlいじり熱はBLOG書きと表裏一体だったみたいで、BLOG更新を停止した途端なんか移行CGIを作る気力も無くしてしまったんです。
というわけでHaloscanにコメントシステムを移すことにして更新再開、コメントログの移転は手作業で徐々に行います。
この記事は長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件についてという特集の中の記事です。出来ればリンク先から特集の他の記事へ行って見てくれると嬉しいです。
事件から一ヶ月半も経つとTVメディアもブログ界も沈静化(というか忘却か?)してきて、唯一雑誌のみが遅れてこの話題を取り上げているという状態になりますね。何か創の雑誌が結構際だって良い感じでこの事件を取り上げているという情報もあるので、明日図書館で見てみようと思っているんですが、とりあえず今日は昔の新聞記事についてもう一回見てみることにしました。
そこで気になったのが毎日新聞のある記事でのセイシンカイ(←最近この文字列が胡散臭い物に感じ始めました)の加害者が書いた小説評で言った「暴力的といってもどこかから借りてきたような表現ばかりで、内面の奥底が表れているとは思えない。むしろ、借り物の言葉で内面を形づくってしまったところに、危うさを感じる」という言葉です。
借り物の言葉・・・熱血系のサイトでよく使われる批判的な言葉ですね(僕も一時期使っていた気がします)。例えば「借り物の言葉じゃなくて自分自身の本物の言葉で喋れよ!」とかそんな感じで、しかしこれも良く考えるとおかしいことで、そもそも「言葉」というのはどう転んだって教わる物なんですよね、生まれたときに言葉を喋れる赤ちゃんなんて居ないわけで、そしてもし言葉を教わったとしてもその言葉が自分だけの物になることは決して無い訳なのです。何故なら言葉というのは自分の内面を表現する以外に他人と情報交換をするというのが定義の必要条件な訳で、もし自分しか利用できないのならそれは言葉ではなく自分専用の記号となる訳なのです。そしてそれでは呟く事は出来ても喋る事なんてできやしない。
「そうじゃないの、『自分自身の言葉で喋れ』というのは自分だけの物にするという事じゃなくて、その言葉を自分自身の価値観で理解して、そして共有して喋れという事なの」という反論もあるかも知れません。しかし言葉というのはその語義が付随して初めて存在する物(=無意味な文字列は記号でしかない)であり、言葉の理解というのはまさに言葉を「作る」ことでしかありえない(逆に言うと、人に理解されるまで「言葉」は「言葉」足りえないという事です。)。つまり言葉を教えるという行為は、一旦その教える側が言葉を記号に直して、そしてその記号を教えられる側に伝達し、そしてその教えられた側が自分の価値観でその記号を言葉にするのです。しかし教える側の価値観と教えられる側の価値観は違いますから当然言葉は違った物になっている。共有なんて出来る訳がないのです。
しかしそう考えると言葉を借りるなんて行為は不可能に思えてくる事でしょう。何故なら「借りる」という行為はそれが情報という複製可能な物である限り「一時的な共有」とイコールに見えてくるからです。しかしじつは借りるという行為は実際は共有ではなく、そう見せかけているだけなのです。
どういう事か、つまり借りるという行為は実際は「それを記号上で浮遊させている」だけであり、その言葉は一度たりとも彼女は理解したりしていないという事なのです。
これは加害者の小説や詞を見た人なら一目で分かると思う事なのですが、彼女の自作の小説や詩は「何処かで見たような言葉」を「何処かで見たような順列」で配列した「何処かで見たような作品」なのです。さらに言うと彼女は殆どの作品も「道徳的な」終わり方で締めくくっています。そしてこの道徳的な終わりという手法は、クレしんやドラえもんやコナンやドラえもんなどの、小学生向けの作品で絶対的に使われている手法であり、さらに言うなら「バトロワ」も、何だかんだ言ったって終わりは「希望」なのです。
そのような作品を作るのに一々心の内面を表す必要などありません。頭だけを働かして、メモリーから記号を持ってきて説明書通りに組み立てりゃあ良いんです。頭が良ければ心がどうであろうと出来ます。結論を言うと、借り物の言葉に内面が支配されるなんて起きる訳がないのです。大体もし彼女が借り物の言葉で出来ていたとしたら、一体何故その「借り物の言葉」を与えた社会に刃物を向けたのか?
それより僕は「何故彼女がそんなに『よくある作品』を作りたかったのか?」に目を向けるべきだと思います。
「よくある作品」というのは「社会が好む作品」に他なりません。彼女は「社会が好む作品」を作りたかったのだ。というとセイシンカイの「認められたい願望」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし彼女にとっては「認める」とかはどうでも良かったのだと僕は考えます(認めるというのは語義が色々あってうかつには使うことは出来ませんが、少なくとも「他者の確認」としての認めるはあっただろうから求めて居なかったと思う)。それよりも社会的自分を認めたい願望が彼女に「社会が好む作品」を作らせたのです。
前にも似たような事を書きましたが、社会は無作為に不特定の人を選び、その人を疎外します。そしてその疎外により人は尊厳を傷つけられます。尊厳を傷つけられる自分を自我的自分とここでは表現しましょう。それに対して、「尊厳なんかで飯が食えるか!」とする本能的欲望を持つ身体であり、そして「身体」は実体を持つから社会から認知され社会的でさえある自分、これを社会的自分としましょう。
「社会が好む作品」を作るという行為は自我的自分を縮小させ、その分社会的自分を増大させる行為だ、と彼女が思ったとしてもそれは不思議なことではありません。「社会が好む作品」(=無意味、だったのかもしれない)を大量生産することにより自我が明け渡した部分を埋め合わせ、そして最後には「社会が好む作品」を大量生産する自我(内面)のない社会的自分を作り出す、そうすればきっと生きるのはかなーり楽になる。と、彼女は思ったのだと僕は思います。
しかしその試みは上手くいかなかった。何故か?それは僕には分かりません。自我的自分は大量生産された作品に埋められるほど落ちぶれてはいなかったのかもしれないし、単純に時間が足りなかっただけかも知れない。ただ、もし彼女が考えた(社会的自分を生かすための)企てが成功していたら、そしてもしこのような企てが彼女独自ではなく彼女のような苦しんでいる人一般に広がっているとしたら、、、僕はとても恐ろしくなり、そして悲しくなります。
参考ページ:加害女児HP、専門家2人が分析
大阪で家族3人を18歳長男が殺傷(11月1日)〓 お祖母さまは魔女 〓
多重人格探偵サイコ オウム真理教的、宮崎的
情報の二つの意味
長崎女児殺人事件の加害者の軌跡
(なおこの参考ページはあくまで僕が感覚的に「この記事を書くときに影響を受けたんだろうな」と憶測したページなので、具体的な関連や「あなたの議論はこのページと矛盾している」とか言われてもちょっと困ります。ま、するなとは言わないけどね) http://www.mainichi-msn.co.jp/it/jiken/archive/news/2004/06/20040609org00m300054000c.html