Rir6アーカイブ

2004-07-30


[異論]自由と義務と責任と愛しさと心強さと

自分の希望を他人に押しつける人の話。

RIR6の異論コメントスレッド

31 名無しさん 04/07/06 03:11:13 ID:Hqh2t1kVt8
はぁ。
そんなに難しい文章だとは思えませんが、専門用語ばっかりですか、>>5-8は。
そもそも、「反論することによって得られるリターン」を得る必要はありません。
単にめんどくさいかめんどくさくないか、だけなんですから。
>>29は恐らく貴方自身の態度の事を仰ってるんでしょう。
他人の文章を批判するのは結構、タダそれなりのオトシマエはつけろって事です。
反論するのに労力がいる→だからやらない
そういうのを世の中では議論に負けた、と言うんですよ。
都合良く解釈した文章に都合良く文章を並べ都合良く批判を受け流してる貴方自身の態度に皆さん怒りを通り越して呆れてますよ、最初から最後までバッシングじゃないですか。
正直貴方には感動しました。
現実じゃ生きていけないですよこんなの。

33 ◆RIR6uHX9bE 04/07/13 22:55:24 ID:810KBPinMR
>>32
真理条件
発話行為
述語論理
スコープ
存在量化子
全称量化子
形式命題
特徴形容詞(タイプの外延をとる形容詞)
共起
外延的定義
内包的定義
特徴形容詞
制限節(restrictor)
帰結節(matrix)
定項
オペレーター
総称量化子
意味条件
論証形式
様相形容詞
これが全て「専門用語」でないと思うのですか?へー

34 名無しさん 04/07/15 00:09:49 ID:Dk68sciW8x
>>33
アフォ?
半分は普通に理解できるし
残りの半分も文脈から考えれば大意は理解できるが

35 名無しさん 04/07/15 02:28:41 ID:eSCyayyGvf
>>33が>>31に対する反応であると「好意的」に解釈して、書きます。
とりあえず揚げ足取りをすれば、>>31は「そんなに難しい文章だとは思えません」と書いているだけで、専門用語がないとか少ないなんて書いていません。まあ、そんなことはどうでもいいです。
ここから真面目に書きますが、>>31は「専門用語の有無」とか「文章が難しいかどうか」に重点をおいて書かれていません。
>>31は、『「反論することによって得られるリターン」よりも「反論する事によって生じる労力」が大きいこと』を理由に反論しようとしないことに対する意見を述べられています。
>>31の冒頭のあまり重要ではない部分にだけ反応して、重要な部分を無視した反論をしているのは何故ですか?

ここからは>>30等に関する私の意見を述べます。
「反論する事によって得られるリターン」は少なくないと思います。次に挙げる「反論しない事によるデメリット」がなくなることを考れば、>>5-8への反論は必要ではないでしょうか。
デメリットの一つは、>>5-8に反論しないでいると『「自然な感情」という言葉の暴力性と「国民感情」という幻想』に書かれている内容は、>>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能、という非常に貧弱な意見のままということです。
別のデメリットは、他人の意見に反論し、相手からそれに対する論理的な反論をされたのにもかかわらず何の反応も示さないことは、根拠もなく無責任に他人を批判したと思われても仕方のないことであり、RIR6さんの発言そのものが信用されなくなってしまう可能性が高いということです。
それでも「反論する事によって生じる労力」の方が大きいと言えますか?
RIR6さんの意見が、誰もが的確に反論できることを許容でき、信用されなくても構わない程いい加減なものではないのだとしたら、>>5-8に対して反論すべきではないでしょうか。

別の観点から書かせてもらうと、>>5-8は読むのに大きな労力を使うほど難しい文章ではありません。
文章そのものは読みやすく書かれてありますので、「専門用語」の意味を調べ(調べなくても使われている文字と文脈からわかるかもしれません)、その前後の文脈から判断すれば文意を読みとることは難しくないはずです。
ちょうど「専門用語」をリストアップされたようですので、それらの意味を調べて、>>5-8を「翻訳」してみてはいかがでしょうか。
まあ、そんな「翻訳」をする前に、RIR6さんがリストアップした「専門用語」を使っていない>>8への反論は問題なくできると思います。
自分の意見が間違っていて反論できないのであれば、そのこと認めるぐらいの事はしてください。
何にせよ、>>5-8のような反論に対して無反応では、BLOGで意見を言う意味があまりありません。

36 名無しさん 04/07/20 22:58:33 ID:Uq0reQCbN9
で、コメント無しですか?
>>35氏が仰った二つのデメリット、これは私の目から見ても「反論することによって生じるデメリット」を上回っていると思います。
さらに付け加えるならば、>>5->>8は貴方が勝手に引用し批判した(まぁブログとはそのようなモノだと思いますが)その本人からの返信です。
これにレスを返さない理由が私にはわかりません。
そもそも「反論することによって得られるデメリット、リターン」を感じる必然性も合理性も全くありませんし、無礼の一言です。貴方には反論する義務があります。
勝手に批判しておいて反論されると
「専門用語ばっか、こんなのめんどくさいし、何も得られないじゃん。」では誰も納得できませんし、一番納得できないのはたくろふさんご本人です。
あれほど丁寧な反論は見たことがありません。他人を批判なさることには慣れていらっしゃるようなので、反論できないということは無いでしょう。
完全決着を希望します。
ま、これが普通の一番常識を持っている人の意見なんでしょうなぁ。だからといって屈する気は全くないが(w

まず最初に言っておくと、この人は私の目から見てと言っているが、僕の目はあなたの目じゃないんですね。そこの所を分かってくれないとこの議論は百年やっても終わらない気がします(でも分かんないんだろうなぁ。。。)

まず一つ目の問題。あなたは>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能というが、僕は>>5-8は的確かどうかすらも分からないんですね。だから>>5-8を援用しても的確な批判が書けるかどうかは僕には分からないです。

もちろん次のような文なら僕も納得します。
>>5-8に反論しないでいると『「自然な感情」という言葉の暴力性と「国民感情」という幻想』に書かれている内容は、「名無しさん」から見れば>>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能、という非常に貧弱な意見のままになるということです。
しかしこれでもまだ問題は残ります。というのも

別に僕はあなたに僕の意見を貧弱と考えられてもそれがデメリットとは思わないんですね(驚きましたか?(w )。

二つ目の問題。あなたは信用されなくても構わない程いい加減なものと書きますが、僕には信用されない→いい加減というのがどうも理解できません。そうじゃなくて信用出来ない→いい加減では無いのですか?

一応上の2つについて補足すると、「信用されない」ってのは他者の状況に関する言葉なんですね。しかし「信用できない」というのは自己の状況に関する言葉なんです。その違いをよーく頭の中で考えてみてください。

さらに三つ目。あなたは相手からそれに対する論理的な反論をされたのにもかかわらず何の反応も示さないことは、根拠もなく無責任に他人を批判したと思われても仕方のないことと書きますが、僕にとって責任とは自分が自分に課す物であって、一般的な用法での責任(つまり社会から自分に課せられる物ね)は単なる暴力であり、決してそれに屈してはいけないものと考えています(あー、またRIR6語録とかに掲載されるなこれ)。この事についてはまた改めて記事にしたいと思っているので今は詳しくは説明しませんが、人間は皆強制的に社会に加入させられたという事がこの僕の言葉の根本に有ることを理解して下さい。

四つ目、>>5-8は本当は読みやすいという意見ですが、「読むこと」と「検証すること」は全く違うという事をもう少し理解してもらいたいと思います。

五つ目、せめて>>8に対して何かコメントをという事なのでコメントします。
「物」「事」という漢字で書く語は、「実体のある具体的存在物」を指します。一方、「概念、理念などの抽象的存在」は「もの」「こと」と、ひらがなで表記すると思います。」
とのことですが、「物」「事」という漢字で書く語は、「実体のある具体的存在物」を指します。一方、「概念、理念などの抽象的存在」は「もの」「こと」と、ひらがなで表記するというのは一体何を根拠としてるのでしょう?それが分からない限り僕にはその文は信用できません。
以上。

六つ目、何にせよ、>>5-8のような反論に対して無反応では、BLOGで意見を言う意味があまりありません。と書いていますが、僕がBLOGで意見を言う意味は別にあなたから貰わなくても自分で持ってますので、あなたがBLOGで意見を言う意味と僕がBLOGで意見を言う意味は絶対違うものでしょう。例えば、僕は例え明日僕一人を残して人類全てが滅亡しても、残ったコンテンツに対して批判記事を書きます。多分あなたは違うでしょ?

七つ目、無礼の一言です。貴方には反論する義務があります。僕には反論しない自由があります(w。もしその自由を奪いたいんなら実力でこないと無駄だと思いますよ。さらに言うと無礼という物がけなし言葉として通用するのは絶対的な物ではなく、あくまで「礼」というものを大切にする文化の中でのルールで有ることをお忘れなく。

最後に、で、コメント無しですか?せっかち過ぎ(w http://blog.newsch.net/bbs/iron/comment.html

[旧NWatch]障害者観と儒教精神

ボランティアとか福祉という言葉の危険さ米国過激団(元)より

 まあ、そんな事より気になったのは以下のレス。

200 :名無しさん@5周年:04/07/28 13:50 ID:zZOxx8ni

俺もやったな、強制ボランティア。
部活の顧問が、その手の活動が大好きでさ、休日に強制的に連れていかれんの。
ボランティア無理矢理連れてっても意味ねーだろ、ボケが。

養護学校で、主に知的障害者。二人一組でピクニック。道中腕毛抜かれまくったよ。
「あへ〓〓」「おへ〓〓」とか言ってんの、お前らキモ過ぎ。涎垂らしすぎ、あーもう汚ねぇな、
ハンカチ使えよ、ほら。馬鹿そりゃ食い物じゃねぇ。まったく、なんで休日にこんな事してんだろう俺。

暇だし、やりきれなくなったので、仕方なく身障共の真似をする「あう〓〓〓」「おへ〓〓〓」
おい、笑ってんじゃねぇ、お前らの真似なんだぞ。


ボカッ

殴られた。振り返ると、肩を振るわせワナワナと怒る養護学校の教師が。

「お前、自分がどれだけ酷いことしてるのか分かってるのか!」
いってぇなオッサン。文句の一つでも返してやろうと、向き直ると
身障共がみんなで教師を叩いていた。俺をいじめるなと言っているらしい。なんだ良い奴らじゃん。


 >>200様のやった事は(その根底に障害者を馬鹿にする意図があったにせよ)結果として障害者の方々を喜ばせる結果に成りました(もしかしたら言葉とは裏腹に結構きちんと世話している所とかも関係しているのかも知れませんが)。
 一方では教師の行動は障害者の方々を庇う意図で行なったのが、結果的に彼らの反感を買う事になった訳で。

 福祉という物は基本的には『善行』なのだと思いますが、その基準は飽くまでも相対的な物であると思います。
 何らかの行いを『絶対的な善』と認識する事は、時に独り善がりな『善意の押し付け』に発展してしまう危険性を孕んでいます。
 このレスの中では『強制ボランティア』や『障害者の方々が喜んでいる行為の禁止』等は、その独善性の現れであると思います。

 私個人は>>200様の行為や養護学校の先生の行動に関しては善悪の判断がつきかねます。
 しかし、ボランティアにせよ福祉活動にせよ独り善がりになって『誰のための行為か』という事を忘れる事の無い様にしたい物です。
うーん、何かこのBLOGの人もどちらかというと200氏側だし、2ちゃんねるのスレでも
221 :名無しさん@5周年 :04/07/28 14:35 ID:k6/bYlWM
>>200
教師が大人の事情をつきつけてるだけだな
お前いいやつ
というように>>200に賛意を表しているという感じなんだけど、僕としてはその養護学校の先生の気持ちの方がよく分かるんだよね。

まぁ確かに養護学校の先生の行動は独りよがりだったとは思うんだよ。結果として>>200はその嘲笑がもとで養護学校の生徒と仲良くなれた訳だし、だけれどなぁ・・・

話をちょっと変えますが障害者観というのは昔から随分問題となっているテーマなんですよね。現在日本の障害者観というのは主に2つあると僕は思っています。1つは「障害者を差別しないでみんなで仲良く暮らしましょう」という考え、これは主に学校の道徳教育とか朝日・岩波系の本で主張されるものですね。そしてもう一つは「障害者を差別するなとかいうけどやっぱり障害者って気持ち悪いじゃん、それを差別しないなんて偽善だよ。相手を異質な物として差別しながらも付き合っていこうよ」という考え。これは主に宝島社のの本とか障害者プロレス・ホーキング青山系列の考え方。で、最近は朝日・岩波の方の障害者観がだんだん衰退してきて、宝島社な障害者観が勢力を伸ばしてると、そんな状況ななんです(もちろんネット界の趨勢も圧倒的に宝島社系が多い)。

で、これが一体何なのかというと、じつはこの構図、最近ことのはとかで良く論議されている博愛か情愛かという対立にぴったり当てはまることにちょっと気が付いたんです。

Gypsy Blood「愛すべき場所は二つ」/松永的愛国心論まとめ編ことのは
■身内への裏切り?

 実際のところ、「家族にだけ便宜をはかり、家族外にはそれよりも冷淡に対応する」なんていうのが自分には「美徳」とは思えませんでした。

 家族と他の人が論争になったとき、相手の方にも理があると思う、と言ったら、「お前はあいつの肩を持つのか!」と非難されたこともあります。別に肩を持っているわけではないし、一部の論点について納得しただけだったのですが、それが「家族への裏切り」と思われてしまったわけです。

[No.11] 投稿者:服部弘一郎[2004年07月26日 11:10]

自分の身内を何よりも上位に置き、自分の身内の欠点や落ち度はひた隠しにして他人を非難するのが、つまりは「儒教道徳」というものなのですよ。それは「論語」や「孟子」を読めばよくわかることです。身内に対する依怙贔屓(えこひいき)を正当化する儒教道徳の上に「愛国心」が乗っかれば、ここで非難されているような見苦しく浅ましい「愛国心」がのさばるようになるわけです。

これは自分自身に対する「自信のなさ」とは、ちょっと違うんですよね。儒教的な「身内優遇」を道徳的な価値として認める社会では、他国をおとしめて自国をほめちぎることこそが「正しい」のです。儒教的な価値観のヒエラルキーは、価値観の「違い」など認めません。一元化された尺度のもとで、すべては「優劣」で判断されてしまうのです。

(……後略……)

 そういう儒教道徳的な愛なら、要らないと思ってしまいます。もっとも、孔子が本来説いた仁愛は、もっと博愛に近いものであろうと思うのですが。

 そのような「偏った愛」が愛だというのなら、家族愛なんかいらない。単純に身内を愛するだけで十分じゃないんですか? 「身内外を罵り、身内を誉めちぎる」のが愛だとしたら、そんな愛は要らないと思います。

 私に対しては褒めちぎるが、他の男性については悪口ばかり言っている……そんな女性とはつきあいたくないですね。全然うれしく感じませんし、逆にその人の人格さえも疑ってしまいます。

要するに「その相手との関係が近かろうと遠かろうと同じ愛をそそぐ」というのが博愛で、「自分と近い関係の相手にだけたっぷり愛情をそそぐ」というのが情愛(ことのはの文章では「家族愛について」なんだけどここでは定義を拡大して「情愛」とします)である。で、松永氏はどちらかという博愛支持派で、それに対して反対者は情愛派だと、この部分ら辺に関してはそうまとめる事が出来ると思います。

さて、話を障害者観に戻します。朝日・岩波系の障害者観が博愛に基づいているというのは「全ての人を差別しない」という朝日・岩波系障害者観を支える大前提からも分かると思います。そして「最初は差別から始まり段々関係を築いていく」というのが「関係がないと愛せない」という情愛に基づいているのも明らかです。

で、そのような観点からもう一度>>200のレスを見てみると、米国過激団の記事とはまた違った見方が出来ると思うのですがどうでしょうか?

要するに>>200氏本人は、最初嫌っていて後で好きになったことからも分かるように、情愛派なんですね。そして養護学校の教師はそのような「差別的」な行為を嫌っている博愛派である。>>200が情愛派になった理由は分かりません(「本能」とかそういうのは無しね)が、養護学校の教師が博愛派になった理由は分かる気がします。だってもし養護学校の教員が新しいクラスに付いたときに「俺はまだお前達のことを良く知らないから差別する」なんて言ったり態度に出したら問題ですし、そう考えると養護学校の教員もそんなに悪い訳じゃないと僕は思ったりするのですけど・・・どうでしょう?

ちなみに僕は博嫌派です(誰も聞いてない)

しかし博愛派の方が情愛派より独善的になりやすいのも否定出来ないんだよなぁ、十字軍も魔女狩りもインディアン虐殺もホロコーストも、起こしたのはみんな「博愛」を基調とするキリスト教徒だし、、、確かに情愛派も、ことのはで触れられている事件のように、小規模のいさかいはよく起こすけど、あまり大虐殺とかは起こさない気がする。。。 http://culture.2log.net/kagekidan/archives/blog136.html