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2004-08-02


[旧NWatch]ことのはの記事をみてアナーキズムを宣言する!

何か今松永氏の愛国心論議がブログ界では話題になっているようなのですが、僕から見るとこの論議はどうも手ぬるい感じがして仕様がありません。そこで今回は松永氏の論議を発展させるとどのようになるのかを考えてみたいと思います(でもまぁ、答は最初からタイトルに書いて有るんだけどね)。

1.「歴史」と国民国家は共犯である!

松永氏は愛国心論議の中で次のように書いています。

 少し前から話題になった「歴史教育における自虐史観か、自由主義史観か」という話も、私にとっては議論の前提――つまり、日本に対する評価を一生懸命どうにかしようとする――という行為自体が「よくわからない」のです。

 自分の祖父は兵隊として満州に出征していました。逆に言えば、それは自分の爺さんの問題であって、そこから学ぶことは必要ですが、いつまでもその子孫だというだけで自虐的に頭を下げ続ける必要はないと思っています。「日本人の残虐行為」とやらも(それが存在したか否かは別問題として)、私がそういうことを現代においてやってやると思わない限り、反省しろと言われる筋合いはないと思っています。

 しかし、歴史的に「日本人は優れていた」ということを強調することによって日本人の誇りを取り戻そう、という風潮についても理解の範囲を超えているのです。

 いや、確かに優れた日本人は多くいましたよ。諸外国から悪い悪いと言われている時代でも、実はそんな悪意によって動いていたわけではない、というのも事実かもしれません。しかし、それはその当時の日本人、いや厳密に言えば個々の偉人たちの業績じゃないですか? いくら聖徳太子や上杉鷹山が優れていたとして、そして、そういう人々を輩出してきた素晴らしい日本列島の日本文化の中に生まれ育ったとしても、自分は聖徳太子でもなければ上杉鷹山でもないんです。
まぁまさにその通りなのだけれど、しかし出来れば国の歴史責任(戦争責任とかの言葉を指しているのだけれど、こんな言葉あるのかな?)を否定すれば実は国家という物そのものが成り立たなくなるという事にも触れて欲しかったと思ったりします。。。

というのは国家というシステムは本来想像の産物であるが故に、もし現実の当事者という物を登場させたら想像と現実の間で衝突が起きてシステムが崩壊し(=無政府状態)てしまいます。

といっても絶対分からないと思いますので例を挙げて説明しますと、例えば第一次世界大戦時、ロシア帝国はドイツと戦っていました。しかしロシア帝国ではその頃皇帝の長年の圧政に対し不満を溜めていた国民が革命(云わずと知れたソビエト革命ですね、ま、ここら辺はもっと複雑な話があるんだけど世界史の講義をしてるわけではないので割愛)を起こし、やがてソビエト連邦が成立しました。しかしその頃ロシア帝国は一方でドイツと戦争をしていた訳で、その戦争を一体どうするのかというのが問題となります。

もちろんその時に、戦争責任を否定し「ソビエト連邦はロシア帝国とはまるで中身が違う別の国家なのだから、ロシア帝国の責任など被る必要は無い」とドイツに向かって言う事も出来るのですが、しか多分それではドイツは絶対納得しないでしょう。じゃあそれなら実際にロシアと戦ったことによって受けた損害は何処が保証してくれるの?という話になるからです。

そこで登場するのが国民国家間の論理の1つ、「国が内乱によって別の国になったとしても、その時内乱によって滅びた国の責任は原則的に滅ぼした新しい国に引き継がれる」という物です。

これは現実の世界に置き換えて考えてみれば大変おかしい物です。それこそ松永氏の言うように
しかし、家族や自分の大切に思う人が、自分と関わりのないところでやっていたことについては? それはその人の業績あるいは罪であって、もちろん「監督不十分」みたいな話はあるかもしれませんが、連座する必要はないだろうと思う
のが自然です(「家族・自分の大切に思う人」を「滅びた国」に置き換えてみましょう)。しかしそもそも国家という物自体想像の主体であり(国家自体に実体はないし、国民国家を形成すると言われている「国民の集合体」にしたってそれは主体の集合であり、その主体の集合は主体の集合故に決して意志が1つに成る事は無い。そして意志が定まらない物を実体と呼ぶなんて事出来るわけがない!)。想像の産物には現実の実体の世界の原則など通用するわけもなく(現実の世界では「想像」ぱ実体を介さない限り何も起こさないというのが大原則ですからね)、楽観主義が現実に取って代る。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しないのだ。戦争に負けている時は特にそうだ。(←途中から話がずれているのに気付きましょう

というわけで、もし国民国家を国民国家足らしめようとするならば、例え国民の殆どがその戦争に荷担していなくても、その戦争責任を国というシステムを通じて国民に負担させなければ成らないのです。そしてそれに対しては左派だけでなく右派も殆ど同意しています(良く右派というと「中国・朝鮮への謝罪賠償をやめろ」と叫んでいますが、別にそれは戦争責任という論理自体を否定しているわけではなく、良く話を聞くと「中国・朝鮮に対して日本はそんなに多額の損害を与えていない(むしろ恩恵を与えた)し、第一サンフランシスコ条約によって謝罪賠償は全て済んだ筈じゃないか!」という主張の場合が多いんですね。(その主張が正しいかどうかは別ですよ!))。

しかしそれに対してそもそも国家なんて想像の主体を作り出すのが間違いだと言っているのがアナーキストなんですね。

2.国家を捨てない限り、愛国心は世界を圧迫し続ける

アナーキズムについて語る前に再び愛国心論議より
■これは外交のやり方を言っているのではない

 ここで述べていることは、外交のやり方、つまり国と国――というより政府対政府のやりとりにおいてどうこうすべきだということではありません。国家組織レベルのことは国家組織レベルのこととして別途語ればいいわけで、ここではまったくその点について触れてはいません。
うーん、2ちゃんねる愛国の影に国家組織レベルの影があるのはちょっとした通の間では常識なんですよ(と、陰謀論っぽく言ってみる)

といっても別にどっかの自民党寄りの政治組織が裏から青楓会(2ちゃんねる系の右翼組織)に金を渡したとかそういう陰湿な話ではない(ま、一部にはそういう陰謀論も有るみたいだけど)。もっと大げさに、大っぴらに行われている事があるじゃありませんか?

例えば法務省の差別キャンペーン、これなんかまさに2ちゃんねる右翼の格好の的となっている↓
不法滞在外国人を通報せよ!法務省メールで受付 2ニュース極東
6 :  :04/07/18 23:18 ID:kj83+HCC
対馬/活性策の柱に日韓交流

「韓国人はあまり注文せず、支払い時に値切られることもあった。今は来店を断っている」。
ある対馬市内の飲食店主がぼやいた。日韓交流が盛んな国境の島・対馬だが「韓国人お断り」の
飲食店や宿泊施設も少なくない。

厳原町では、江戸時代の朝鮮通信使行列を再現した「対馬アリラン祭」が定着。
官民の交流も盛んで、韓国人旅行者は年々増加している。
にもかかわらず「韓国人を歓迎しない風潮も根強い」(商店主)という
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/gappei/kikaku9/04.html

7 :日出づる処の名無し :04/07/18 23:29 ID:mg2B3fuE
>>6
大阪でよく値切るのが多いのは、もしかしてこいつらの影響では・・・。

8 :日出づる処の名無し :04/07/19 14:33 ID:0NshN12T
前から疑問に思ってたんだけど西川口や新大久保などの韓国料理屋は
調理師免許もってんのか?衛生面の講習とかうけてんのか?なにより
ワーキングビザもってんのか?

9 :日出づる処の名無し :04/07/20 01:17 ID:oIHqOsoR
通報しろ。
保健所、入管で書類見たらわかるやろ。

19 :日出づる処の名無し :04/07/23 17:50 ID:XA2EMAUG
こういうのは大切だね。
犯罪者から罰金取ってそれを懸賞金にして
やればいいのに。
大体愛国心の教育による押しつけだって、もはや中国だけの話ではないのだ。
「愛国心」通知票を考える

そしてあの2ちゃんねるとフジサンケイぐらいしかまともに取り合わなかった「イラク人質自作自演説」も官邸リークとの記事が週刊誌では出ている↓
「自作自演」説は官邸発ソレイユ・シャトー
「『これは自作自演ではないか。大丈夫か』事件発生直後から、首相官邸で、そんな驚くべき会話が飛び交っていた」(週刊新潮22日号)。
「『事件が自作自演ではないか?』という疑いが、防衛庁でも官邸でも、かなりの人間に広がっていた」「このために、初動が遅れたことは否めない」(週刊文春22日号)
「(3人の思想・信条を)小泉首相の側近や警察の公安担当部門が、記者たちに『調べてみろ』と圧力をかけていたという形跡がある(全国紙政治部記者)」「これこそ、政府による『情報操作』『世論誘導』だ」(フライデー30日号)
「官邸の調査結果に乗っかったマスコミは、事件そのものが『自作自演』ではないかとも読める報道を展開した…日本国内の反米勢力が、自衛隊撤退を狙って起こした人質事件であるかのような印象を与える記事を流した」(週刊現代5月1日号)
これでもまだ「国家組織」は関係ないと言えるのだろうか?

確かにこれらの情報によって別に2ちゃんねる系愛国右翼の人達が「政府に騙されている可哀想な人」になる訳ではない。むしろ彼らは嬉々としてそれに乗っているのだから政府と同罪と言えるだろう。しかし昨今の愛国ブームを単なる民衆のルサンチマン的感情にだけ理由を求めるのは、やはり少々無理があると考える。

もちろんこれは何度も言われていることだが日本だけの話ではない。中国・韓国・北朝鮮はもちろん、アメリカもやっているし右派系のページからちょっと転載すると
アメリカの小学校では毎朝、授業が始まる前に規律して教室に掲揚されている星条旗に敬礼し、
忠誠宣誓を行っている

オーストラリアの学校では、生徒は機会あるごとに「私は神と我が祖国とを愛する。
私はわが国の国旗を尊ぶ。私は女王に仕え、また喜んで両親、先生、そして国の法律に従う」と誓う。

イタリアの教科書には「偉大なる国旗の下に、我々はみな兄弟である。風にはためく美しい色。
白は祈り、赤は愛、緑は希望。三色旗よ永遠なれ」と国旗を称える文章が載っている。

インドネシアの学校では、毎週月曜日の一時限目は国旗掲揚式である。
校庭に集合し、国旗掲揚、国歌斉唱の後、建国五原則が朗唱される。
その第一原則は「偉大なる神への信仰である。教室には正副大統領の写真が掲示されており、
その中央にはインドネシアの国章ガルーダ・パンチャシラが掲げられている。

タイの学校でも毎朝、朝礼が行われ、必ず国旗が掲揚される。
国旗掲揚時には子供達が国旗に敬礼し、国歌を斉唱し、国家に対する忠誠の誓いを立てる。

フランスは道徳教育が充実しており、「祖国や人類」「社会的義務」などの授業が行われている。
のだ。しかしこのページを見ている聡明な人達なら、たとえどんなに多くの国がやっていても、それは間違っている事が分かるだろう。だから敢えて掲載した。

結局国家というのは古今東西政治信条を問わず、自国に対する愛国心、そして敵国に対する憎しみを植え付けようとするのだ。そしてそれを崩すためにはやはり国家を崩す以外に方法は無いのである。

アナーキズムは想像の国家を破壊し、実存する人間の尊厳と自由を取り戻そうとする思想です。

「国家を破壊出来るなんて誇大妄想」とあなたは言うかも知れない、しかし例えばもしルネサンスの頃のフランスで「やがて貴族や王様ではない普通の民衆が革命を起こして政治の主導権を握るようになる」と言ったら、それはやはり誇大妄想と言われたでしょう。しかし民衆がそれを望み、その願いを成就するために努力すれば、きっとどんな事だって可能になるのである。そして民衆がアナーキズムを望むこととなる兆候を、僕はこの記事とそれに対するコメント・Trackbackに見て取れた気がする。

3.僕たちは見知らぬ誰かを愛することは出来ないおまけです

実はこれは前にもNWatchで取り上げたことなのですが、その後さらに考えてみたので再び取り上げます。とりあえず前回の記事より
要するに「その相手との関係が近かろうと遠かろうと同じ愛をそそぐ」というのが博愛で、「自分と近い関係の相手にだけたっぷり愛情をそそぐ」というのが情愛(ことのはの文章では「家族愛について」なんだけどここでは定義を拡大して「情愛」とします)である。で、松永氏はどちらかという博愛支持派で、それに対して反対者は情愛派だと、この部分ら辺に関してはそうまとめる事が出来ると思います。

(略)

しかし博愛派の方が情愛派より独善的になりやすいのも否定出来ないんだよなぁ、十字軍も魔女狩りもインディアン虐殺もホロコーストも、起こしたのはみんな「博愛」を基調とするキリスト教徒だし、、、確かに情愛派も、ことのはで触れられている事件のように、小規模のいさかいはよく起こすけど、あまり大虐殺とかは起こさない気がする。。。
しかしこれではとりあえず記事的にはまとまった(と自分では思ってた)んだけど、どうにも自分では納得がいかなかったんです。それでもうちょっと考えてみました。

博愛って云うのは確かに聞こえは良いのだけれど、実際は結構嘘臭い物だと思うのですよ、だっていくら「身内をえこひいきするのは私はしない」とか言って、実行していたとしても、それはあくまで日常の些細な出来事の範囲内の事でしかないんですよ。だから「えこひいきしないことがひいてはその身内の為になる」という論も使える。しかしね、もしそれが日常の些細な出来事を踏み出した、生死に関わる問題となったらどうでしょう?例えばもし自分の親もしくは恋人が死にそうになっていて、それを助けるには見ず知らずの五人の人間を殺さなければならないと(「見殺し」も「殺し」です)かなったときに、「命は平等に愛すべき物だから」と言って自分の親や恋人を本当に見殺しに出来るのか?そこは僕はもの凄く疑問なんですよ。

さらに言うと、僕は「博愛」というのは本当に全ての人を愛しているのかも疑問なんです。というのは人間が認知することというのは限界がありますから、人間が認知できる人間の数にも限りがあって、全ての人類を認知することは不可能。しかし愛を施すには認知が必要、という事は認知が成される人と成されない人で愛に格差が出てしまうし、さらにいうと博愛を唱える人はそれを知っている筈なんです。

具体的な例を挙げて説明すると、ある日テレビのワールドニュースの中国のテレビ局(偶然だけどこの話も中国の事)の時に、「一人の少女が全世界からの募金により学校に行くことができました」というニュースが流れていたんですね。どういう内容の話かというと、ある山岳に少数民族の村があって、その村にある一人の少女が住んでたそうなんです。で、その少女は貧困と学校が遠いという理由から学校に行けなくて、で、そしてそれをあるフランスの記者が本に書いて出版したらそれが世界中に翻訳されて、世界中から募金が集まって学校に行けるようになったと、そういう話なんです。

この行動は一見何も面識のない少女に世界から募金が集まった「博愛」の行動に見えるのですが、しかし実は募金した人は少女を本を通じて一方的で部分的(全てのコミュニケーションなんてそんな物だと思うけどね)ではあるが知っているわけで、むしろその少女と同じ境遇でありながら記事にも書かれない様な少女達の事を考えると、やはりこれは「情愛」だと思うのです。

そしてこの問題は十字軍やインディアン虐殺にも繋がると思うのです。というのもどちらの事件も「敵」である「イスラム教徒」や「インディアン」ってのは社会的に認知度が大変低い人達だったんですね、しかし自分達が「博愛」行っていると信じている人達は認知しない物に対しての愛が無いという事に築かなかった、それ故あのような惨劇が起こったのではないかと、考えてしまうのです。

と、ここまで「博愛」批判を長々としてきたのですが、じゃあ僕は「情愛」を重視する儒教精神の持ち主なのかというとそうでもないわけで・・・やっぱり僕は博嫌派で居たいと思います(結局結論は同じかい!)。 http://kotonoha.main.jp/2004/07/28patriot-rewrite.html

[旧NWatch]靖国神社と日本青年社が現在DDoS攻撃くらってアクセス不能らしい

【ディプロマシー】ロシア帝国圧勝のコメント>>23@切込隊長BLOG

23 名前: maoist :2004年08月02日 03:14 [RES]

靖国神社と日本青年社は現在DDoS攻撃くらってアクセス不能。
http://www.yasukuni.or.jp/
http://www.seinensya.org/

靖国書き換え画像
http://popup5.tok2.com/home2/usam/fenn/image/0801_7hack.jpgNWatchミラー
真偽は明日になりゃ分かるでしょう。(すいません、今ものすごーく眠いんです。続報は他のBLOGとか見て自分で探して下さい)

あ、今年は僕終戦記念日に靖国に都合が良ければネット右翼を取材しに行こうと思ってるんでよろしくお願いします。(←こりないねぇ) http://kiri.jblog.org/archives/000863.html