このコーナーは閲覧者や記事で取り上げられた当事者達から寄せられた様々なコメントに対してお答えするための記事です。もちろんこれで収拾出来るとは思ってないのでこれに対するコメントも募集してます(それに対して答えられるとは限りませんがね)。
それじゃまずTrackbackされた記事から
RIRくんかわいいよRIRくん -差別論編-@バーチャル教祖 澄良木修司
たしかに、リル君の言うとおり人間は本当に他人のことを理解することなどできない。うーん、確かにそうだと思うんですよ。例えそれが幻想だと分かっていてもコミュニケーションを成り立たせようとするその行動が人間社会を成り立たせている。それは確かに正しいと思うのです。
だけど、障害者が自分からそれを口にすることが果たして誠実と言えるのだろうか?
たとえ気持ちが伝わらなくても伝えようとするのが人間の営みではないだろうか。
コミュニケーションを否定したら人間社会は成り立たなくなる。
その場その場で自分の意思、気持ちを伝えようとすることが必要だと思う。
たしかに障害者を語るのに情緒的な表現をしてはいけない。異なる価値観との「共生」か・・・でもその言葉は僕には「矯正」とか「強制」という風に聞こえてしまいますよ。
表面上は前向きに見えても、心の中は日々自分の意思を伝えようと必死で、家でひとりのときは鬱になってるかも知れないしね。
でも、少なくとも自分は他人の行動(この場合で言えばコミュニケーションをとろうとする努力)とその背後にある価値観を素直に認められる人間でありたいと思う。
それがこれからの社会に必要な、異なる価値観との「共生」ということだと思う。
所で、僕はこれまでの記事で「いじめ」と「からかい」をあえて区別して書いているんですが、コメント欄ではその事に気付いてない人が「いじめ」という呼称をしていてた人が居ましたので、それに対してちょっと説明したいと思います。なのだ。価値観の「共生」とは一体どういう意味なのか?例えこの文章で言う「からかい」をした人間が相手の意志を察知したとしても、それが「からかい」を受けた人にどの様な苦しみを与えたかを理解することは自分の価値観を捨て去り相手の価値観にならない限り出来ないだろう(そしてそんな事は殆ど不可能である)。だか多くの場合、人々は不可能と分かっていてもコミュニケーションをしようとする努力をする。しかしその「からかい」を受けた人(その人にとっては例え「からかい」だとしてもとても残酷である)が望むのはその様な行為では―少なくとも僕の場合は―無い。何故なら例え相手が僕の価値観を理解しようとしているという風な行動をしたとしても、それが不可能であるという事が分かっているのにそれをしようとしているのなら、それは僕には自己満足としか思えないからだ。
まず最初に言っておくと、僕はあの事件の被害者の女性が、いわゆる「いじめ」をしていたとは思っていません。記事を見ている限り彼女が行っているのはあくまで社会の価値観や僕の価値観から見れば「からかい」と呼べる様なとても小さな物でしょう。そして僕が受けていた行為も、社会の価値観から見れば「からかい」なのです。
ここで重要な事が2つあります。まず第一に、「いじめ」という物は定義としてそれが「いけない」という事になっていますが、「からかい」というのは別に「いけない」と定義はされていなく、むしろ時と場合によっては推奨されるまではいかないまでも集団の潤滑油として必要とされている(というか必要)という事です。
そして第二に、例えそれが集団に必要とされる「からかい」だったとしても、それがそのからかわれる人の尊厳を傷つける場合もあるという事です。今回の事件のような「ぶりっこ」という言葉がいじめであるとは誰も思わないだろう。しかしこの言葉は彼女を本当にえらく傷つけた。ま、同じ環境を生きてれば価値観は皆同じだと考えているような人にはどう説明したって分からないだろうけどね。。。
「私がもしかしたらあなたにになるかも知れないし、あなたがもしかしたら私になるかも知れない」という神話つまり民主主義なのだ。
さて次はコメントスレッドに寄せられた意見について考えてみよう。しかしなぁ・・・:(
38 名無しさん 04/07/31 15:31:18 ID:+5Nqt3Oq/r語るという行為そのものに意味があるんですよ、語るという行為によって語られた相手は自分と異なる存在(つまり「語る人」の事ね)を認知するのですから。
参照:自由と義務と責任と愛しさと心強さと
何の意味もない、言葉遊びだね
39 36 04/08/01 05:50:06 ID:OtMAf3V83q嘘を付く人は嫌いです。
読みづらいかもしれませんが、RIR氏のブログ上のコメントを引用してあります。
一応断っておくと>>35と>>36は同一人物ではありません、念のため。
>ま、これが普通の一番常識を持っている人の意見なんでしょうなぁ。だからといって屈する気は全くないが(w
一番常識とはどういう意味なのでしょうか?わからないです。
>まず最初に言っておくと、この人は私の目から見てと言っているが、僕の目はあなたの目じゃないんですね。>そこの所を分かってくれないとこの議論は百年やっても終わらない気がします(でも分かんないんだろうなぁ。。。)「議論なんて元々出来ない」と納得すりゃ良いんじゃないですか?
ではなんと書けばよいのでしょう?貴方の意見も貴方の議論も全部「貴方の目から見て」に他ならないのに、どうして議論ができるのですか?
それとも最初から議論する気などないのだったら、わざわざBBSを立てて罵詈雑言を無駄に集める必要は無いかと思います。
的確かそうでないのか判断できないのは、貴方の言語理解能力が極端に低いか、最初から読む気など無いということでしょう。と36氏は思った(w
次に、そもそも、この文章が客観的に(主観的に)的確かどうかを貴方が判断する必要は無いかと思います。まさかとは思いますが、あなたは「論たる論」が評価する人が居ない単体の状況で存在するとでも思って居るんですか?
この>>5->>8は貴方の反論に対する反論ですから、それを的確だと思う人間が引用すればそれだけで十分論たる論になりえます。
それを否定するも否定しないも貴方の自由ですが、逆に言えば貴方が>>5->>8が的確でないと断定する根拠はどこにもありません。「僕がそう思っている」これが根拠です。というかそれ以外に一体どんな物がこのような場合における最終的な根拠となりえるのだろうか?
貴方の意見を貧弱だと思っているのは一人ではないと思いますよ。だから何だと言うのか?僕がそう思っていないのに変わりは無い。
普通、説得力のある意見には、ある程度の賛同とある程度の批判が付きものだとは思いますが、●●じゃねーの?説得力があるかどうかを判別する方法なんてただ1つしか無いんですよ、「自分がそれを見て説得出来たか否か」だ。
それが偏ってるのは駄目ですね。
ちなみに、これは貴方がブログを書く動機を知るためでもありますが、貴方は今まで誰かから「貴方自身にメリットのある意見」を貰った記憶がありますか?僕がBLOGを書く理由はこの曲ても聞いてのんびり考えれ。
つまり、客観的に見て、貴方の意見とたくろふ氏の意見の議論は未だ決着していません。「客観的」なんて言葉、僕なんか口にした途端恥ずかしくなって穴に籠もりたくなるんですがねぇ。
(わからないんでしたっけ?あ、放棄したんだったか。)
検証することとはどういうことなのかわかりませんが、理解して反論することなら可能です。「出来る」と「やる」の間には深い溝があるんだなぁ。僕がBLOGを毎日更新することは「出来る」けど「やらない」し。
間違ってると思うのならば、指摘すればいいだけです。「間違っている」かさえも分からないと何度言ったら(略
常識です。普通、抽象的存在は「もの」「こと」と書きます。僕は書きません。
漢字の意味がわかれば理解できると思います。あなたの考える「漢字の意味」の正解と僕の考える「漢字の意味」の正解は違うわけで・・・
それなら、ネットで公開する意味も、BBSを用意する意味も無いと思うんですが。とあなたは思うわけだ。
それこそ、日記帳にかけば済む程度の「意見を言う意味」ではないのですか?
それとも一方的に批判し続ける自己満足が貴方の動機なんですか?教えない。
どちらにせよ、それを根拠に反論しないという類の論理を構築されるようでは、貴方の意見に説得力のかけらもありません。上記参照。
ただ文句を叫び続けるだけなら、赤ちゃんでもできます。赤ちゃんを馬鹿にしちゃいかんよ。
問題はそこから先だと思います。先に進まないとみんなが不幸になるから、あなたはそう主張する訳だ。
なるほど、貴方は日本人じゃないのか。論理の飛躍というのはこういう文を言うのだなぁ。まずあなたの考える「日本人」を示して、その定義と僕の文を形成しているものを比較し、定義のどの部分が僕の文を形成している物と相違しているのか示してごらんなさいよ。
何にせよ、マナーとか常識といった類の事ですから、人間性の問題だと思います。また「人間の本質」論かい・・・ここまで常識を疑うことを知らない人が居る事を知ると、やはり僕は絶望してしまうなぁ。
この文から察しますに、RIR6さんは「人間の使う言語には必ずその根拠となる正典なり規範なりが成分化されて存在する」と思っていらっしゃいませんか。そんなものはありません。人間の言語は規範に従うものなどではありません。辞書などというものは言語を後追いして人間が勝手に記述したものであって、言語使用者が守らなければならない制約ではありません。言語が変化したら変わらなければならないのは辞書の方です。ある時代における使用言語の文化圏でのおおまかな総意が、ことばの使い方です。41氏のおっしゃるとおり、中・高の学校文法では「こと」「もの」と「事」「物」の違いは「常識」として教えます。言葉は成分化された規範も根拠もないからこそ、変化し得るのです。確かに言語の意味を人間存在の外部に置くのは僕は間違っていると思いますよ。その部分(下線を引いた部分)には僕も賛同します。しかしだからといって言葉の意味を「ある時代における使用言語の文化圏でのおおまかな総意」に置くのはやはり間違っていると思うのです。つまり人っていうのはそれぞれその内部に言葉の定義を独自に持っているわけで、確かにその言葉の意味は他者との接触によって作られる訳なのですが、しかしその接触という経験に意味を与えるのは結局自我であり、自我はその人固有の物なのですからその自我によって意味を与えられた言葉だってその人固有の物だと思うのです(そして僕は僕固有の言葉の意味に則り文を書いてるんですね。)。更に言うと人というのはそれぞれその人固有の時間に則りその人固有の文化を生きている。。それを無理矢理おおまかとはいえ「総意」という形にまとめるのは、意味がないと思うし、枠組みを人為的に作るという意味では暴力的だと思うのです。
郵便で相手の名前に「様」をつけますが、企業相手には「御中」とつけますね。「どうしてそうしなければいけないのか根拠を出せ」と言われて出す必要があると思いますか?必要は無いが、しかし一方でそのような慣習を偽と感じる人はその様な問い(「どうしてそうしなければいけないのか根拠を出せ」)をすべきだと思います。何故なら問いを発するというその行為によって、相手はその様な慣習が絶対ではないことを知るからです。そしてその相手は自分が他者に対して力を行使していることを知るのです。問いという物が答を生み出す為だけに存在しているというのは、あまりに一面的な見方でしょう。
他の、私の5-7に対する反論もお待ちしてます。決して義務などではありませんよ。もしかしてこの人は他の僕のコメント見てないのかな?
44 名無しさん 04/08/05 07:15:59 ID:bGwtGFtL8f妄想お盛んですなぁ(w、僕が記事で返すのはただ単にHTMLで装飾出来るからですよ。もし見ずに変えられるのが嫌なら自分でBLOG作ってそこで反論を書いて周りに宣伝して下さい。人のBLOGのコメント欄でコメントしてさらに宣伝までやらせるってのは虫が良すぎると思いますがねぇ(こういう文が来るからコメントスレッドのコメントに反応するは嫌なんだよなぁ、何で皆さん自分のBLOGで反論してくれないのかしら?)
前々からそういう傾向はありましたが、
何でコメントスレッド内のことをコメントスレッド内で片付けないのでしょうか?
コメントスレッドを見ずに帰った人には「反論が無い≒反論できない」と思わせるためでしょうか?
それともいわゆる「晒し上げ」のつもりなのでしょうか?
もしそうなら、マスゴミの言論操作みたいですね。
45 白い狐 04/08/05 18:22:15 ID:J8gkMY96Kkその発言をしたのは35=36氏だと思ったからなんですがねぇ、ま、どうでも良い文にどうでも良い反論をされても別にどうでも良いわけで、どうぞ心の中で「面白い冗談」だと思って下さい。
参照:自由と義務と責任と愛しさと心強さと
>最後に、で、コメント無しですか?せっかち過ぎ(w
2 たくろふ 04/03/14 03:20:42 ID:Z8nSSDCFof
36 名無しさん 04/07/20 22:58:33 ID:Uq0reQCbN9
自由と義務と責任と愛しさと心強さと 04/07/30-19:19
丸四ヶ月以上放置しておいて、他人をせっかちと揶揄するのですか。
なかなか面白い冗談ですね。
46 36 04/08/08 21:55:05 ID:P+veIjfggoそれだったらその記事のコメント欄で発言しなさいよ(w
別のブログに責任論について述べられていたので、一連の流れに対する回答と解釈して。
結局の所、以前貴方が仰った「この人は私の目から見てと言っているが、僕の目はあなたの目じゃないんですね。」という発言に全て尽きると思います。(WEBだからこそ言えるのだと思いますが)どっちかというと「自分はこう思っている。だから他者は憎い」何だが、ま、いいや。
最初から最後まで貴方の発言の中に一貫して感じ取れるのが「自分はこう思っている。だから他者は関係無い。」という類の論旨です。
確かに、貴方が反論をどうするのも貴方の責任の範囲内で思考されるのであれば、貴方の自由に他なりませんし、それで話は終わってしまいます。残念ながら私には他に手だてがありません。うーん・・・僕はこれでも議論という物をているつもり何だがなぁ?多分あなたと僕の間で「議論」という物の意味が違うんでしょうな。僕は議論というのは「言葉のやりとりをする」という意味だと思っています。それ以上でもそれ以下でもない。例えで説明すると、僕は「これは山ですか?」「私は京都から来ました」、とかいう禅問答みたいな会話や、「この大馬鹿が!」「何を言う、貴様の方が大馬鹿だ!」という会話だって僕は議論の内に入ると思ってるんですね。
ただ、そうであるのならば、何故トラックバックを用いて批判するのでしょうか?使わなければ相手に知られることも無く、反論される恐れもありません。私には、貴方が議論をしたくてうずうずしているようにしか感じられません。議論をしたくて仕方のない人間が、何故議論に応じないのか不思議だと感じます。
付け加えるならば、貴方は初期段階では反論に応じていました。へー、そうなんですか。じゃ僕は人間じゃなくて良いや(w
しかし、2回目からは反論することを辞めています。
何故ならば貴方は以前仰ったように、「反論する事によって得られるリターン」を「反論する事によって生じる労力」を上回る、つまり「めんどくさい」と断言し、反論できるにもかかわらず反論しなかった、単なる「怠惰」であると自己説明なされています。普通、人間というものは「怠惰」を嫌う傾向にあります。
もはや、「怠惰」のみが反論しないことの理由付けにはなり得ません。僕があなたの思う「人間」だったらそうなのだろうけどね。あー、早く人間に成りたい〓
反論できないのであれば反論できない理由を、納得できる説明でして頂きたいと思います。これは責任ではなく、一人の参観者としての希望です。納得なんて物は出来ないと思うよ。何故なら僕は僕で、あなたはあなただから。もし出来たと思ったとしたら、それは納得できたと妄想している事に他ならない(説明は何回もしてきたから省略)。
また、私は貴方に謝罪や説明を求めているのではありません。単純にたくろふ氏の反論に反論して頂きたい、ただそれだけです。それは貴方の意見に対して、私自身が未だ信頼をおける段階に達していないというのが第一の理由です。多分あなたは僕の文章を間違って解釈してると思うから信頼しない方が良いと思うよ。ニーチェの哲学を聞いてアーリア民族優越論を唱えたヒトラーの様なことに成りかねないからね(あくまで例えですからね!)。。。
故反論されないのか、ご自分の意見に責任と信頼をお持ちのことならなおのこと反論できるはずです。結局この人って会話的なコミュニケーションに慣れてないんだろうなぁ。この論理は僕が「怠惰」という物が理由にならないという事を認めたという前提でしか効果を発揮しない論理だよね?だったらまずあなたが何故「怠惰」という物が理由にならないかを説明した文(下線を引いた文ね)だけを提示して、それに僕が異論がないのを確認してからこのような文を提示すべきでしょう?効果を発揮していない文になんて答えようがないのだから。
貴方の仰る責任とやらは、ご自分の意見のみを盲信し、頑なにプライドを保ち続ける自己保身の塊なのでしょうか?このような煽りを提示しながら「(あなたの言う意味での)議論をして下さい」なんておごがましいとは思わんのかね?
議論の成熟、意見の成熟という点で、当事者同士の議論は避けざるを得ないと思われます。特に一方の論者が議論を続行を希望しているのであれば、それを否定する理由はネガティブな意味でしか考えられません。そもそも「議論の成熟」「意見の成熟」が一体どんな意味なのか?客観性という言葉を使わずに説明して欲しいな。
自己による自己のための責任の発生とは、まさに「良いこと」と「悪いこと」を自己で判別し、責任化しているに過ぎません。自己で判別する善悪、それらを含めた倫理観を拠り所とする責任感情にはまったく説得力が無く、往々にして「常識」や「一般的」といった言葉から離れていくことになります。でしょうな。ここには僕も異論はないです。
社会に置いては、自己という単一の思考の枠に捕らわれた発生プロセスを持つ責任に価値を認めません。あるのは他者による相対化された責任のみです。自己に置いては、他者による相対化された責任に価値を認めません。あるのは自己という単一の思考の枠に捕らわれた発生プロセスを持つ責任のみです。
貴方が主張している責任とは、まさに無責任な責任にほかなりません。えーと、分かりにくいのでちょっと補足すると、つまりあなたはこう言いたいのですね?
そのような無責任な責任を盾に反論しないと仰るのであれば、貴方の大層な責任論とやらも単なる戯言の類と言うほか無いでしょう。うん、社会的に考えればそんな感じで捉えるしかないと思うよ。
次
47 35 04/08/11 01:06:45 ID:LaxXHftCmO文章力なんてどうでも良いと思うがなぁ・・・
書き込む気力もなかったのですが、やはり何も書かないのは無責任のような気がしましたので、一応。
前回の書き込みには、いろいろ言葉の足りなかったり書き方が悪かったりした部分があったようなので、そこら辺を補いつつ書きます。文章力がなくて申し訳ないです。
まず、私の発言に対する反応ではありませんが、今回書くこと全体に関係してくるので、「僕の目はあなたの目じゃない」ということに関して。だとしたら「BLOGで意見を言う意味があまりありません。」とかいう断定的な意味論は出てこないと思うけどなぁ。
「僕の目はあなたの目じゃない」のは当然のことです。
RIR6さん以外に、RIR6さんの「目」で見て意見を述べている人はいないですよ。他の人は自分の「目」で見て、自分の意見を述べているのです。
私が前回述べた意見も、これから書くことも、私が、私の「目」で見て、考えたことです。そこのところを踏まえて読んでいただきたい。
では「一つ目の問題」に関して。ええ、言いますよ。
私は、RIR6さんが>>5-8の内容が的確かどうか「わかる」「わからない」の話をしているのではありません。
わかりやすく修正すれば、私は、RIR6さんが的確かどうかわからなくても、>>5-8を読んで的確だと思った人にとっては「>>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能」な状態ですよ、という意見を述べているのです。
こう書くと、「あなたがそう思っていようが、僕には関係がない」とか「たとえ全ての人が的確に批判できると思おうが、僕が的確だとわからない以上、僕にとって僕の意見の正当性は失われない」とか言われそうですが……。
ところで、デメリットについては私の意見ですので、当然「私が」「>>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能」と考えているわけです。「私から見れば」とかそういう類の言葉を書かなければわかりませんか?「客観的に見れば」という言葉がコメント欄で沢山出てきているにも関わらず、それらにあなたが批判を加えていないのを見てますからね。あなたもその様な意見の支持者なのかと思っていましたよ。
「二つ目の問題」に関して。これも>>46の「僕が『怠惰』という物が理由にならないという事を認めたという前提でしか効果を発揮しない論理」なので反論は省略。
ええと、「信用されなくても構わない程いい加減」なのではなくて「誰もが的確に反論できることを(あなたが)許容でき、(人から)信用されなくても(あなたが)構わない(と思う)程いい加減」という意味で書いたのですが、ちょっと意味が取りづらかったですね。
追加的に書けば、私は、「誰でも簡単に的確な反論ができる状態を放置し」さらに「人から信用されることを放棄した」意見はいい加減なものである、と思っているのです。
信用されないから即いい加減なのではありません。
いい加減な意見ではないのなら、反論に対してさらに論理的に反論することは可能なはずですし、可能なはずの反論をせず人から信用されなくても構わないというのであれば、それは論理的に反論できないほど論理の組み立てがいい加減な意見であると言われても文句は言えないのでないでしょうか。
これも「僕の意見がいい加減かどうかは僕が決めることであって、他人がどう思おうと僕がいい加減だと思わない限り僕にとってはいい加減な意見ではない」とか、そんなことを言われそうですが……。
ところで、「信用されない」と「信用できない」の違いについての部分がよくわからないのですが、これはいい加減であるという判断を「信用されているかどうか」ではなくて「信用できるかどうか」でしろということなのですか? だとしたら、今回は関係のないことですが……。間違っていたらご指摘お願いします。僕は僕の目で語っていますからね、つまり僕がもし「私の言ったことは信用されない」と言ったとしてもそれが即、僕がこの論をいい加減と思っているという事にはなりませんが、僕がもし「私の言ったことは信用出来ない」と言ったらそれは即、自分がその論をいい加減と思っているという事に繋がるのです。
「三つ目」に関して。ふむ、どうも僕の言っている責任とあなたの言う責任は違うみたいだ。
確かに、極端に考えれば責任とは自分が自分に課すものです。
いかに社会から責任が課されようと、それを引き受けるかどうかは自分で判断するわけですから。引き受けなければそれなりの制裁を受けるだけです。
しかし、忘れてはならないことは、責任とは他者との関わりの中、つまり社会において発生するものであるということです。
この他者から課された責任を、最終的に自分が自分に課すのが一般に言われている責任です。もちろん、理不尽な責任を負う必要はありませんが、その場合は理不尽であることを周り納得させる必要があるでしょう。まずそこで「社会に対する責任」とやらの第一の矛盾が出てくるね。
そして責任を果たしたかどうかは、他者が決めることです。自分で勝手に果たしたと思っているのは単なる自己満足であり、責任を果たしたとは言えません。まして、その責任の内容を自分で決めるのは、個人的な目標設定にすぎないのです。で、何で僕がその責任を負わなきゃいけない訳?
社会における責任とはそういうものだと思います。
以上のことは、RIR6さんが「社会に加入している」ことを前提に書いています。うーん、この人は社会というものを保険とかと同じ「自由に脱退出来るもの」として考えてるのかなぁ?まさかそこまで馬鹿とは思いたくないんだが、そう思わざるをえないよなぁ。
というのも、「人間は皆強制的に社会に加入させられた」と言いながら自分から脱退するそぶりがないからです。むしろ、インターネットの中でもより社会的であるBLOGという形式で意見を発表し、他者のBLOGにトラックバックしているところを見ると、積極的に参加しているフシすらあります。
RIR6さんが加入した社会における責任とは他者が必ず関係する、ということです。何故この3つの選択肢から選ばなくてはならないのか、それはあなたの倫理感でしょう?としか言いようが無い。果てしなく馬鹿らしい。
そんな責任は馬鹿げているというのであれば、社会全体をそういう意見に変えるか、社会から脱退するか、我慢するかしてください。
とりあえず、インターネット上で意見を発表しなければ、インターネットの社会に加入することもないですよ。・・・( ゜д゜)ポカーン
まあ、「僕にとってそんな責任は馬鹿げたことだ」とつぶやけば社会が変わるなんて思っていたりしたら、何とも言いようがないですが……。だから僕は責任を放棄しているんじゃないか、何を見てきたんだこの人は?
それにしても、異論とは直接関係ないことですが、「誰か自サイトで責任持って批判する人は居ないのかなぁ?」と言っていた時の「責任」って何のことなんですかね? 自分に対する責任なら言及する意味ないと思うのですが。「挑発」という意味がある(w
「四つ目」に関して。読む」には内容を理解するという意味はありますがと35氏は思いました(w。これを「客観的な定義」だと、もし万が一あなたが思うのなら、頼むから僕の文を百回ぐらい読み直して下さい。
確かに「読むこと」と「検証すること」は全く違うという事をもう少し理解してもらいたいものです。
私は読むこと(「読む」には内容を理解するという意味はありますが)は難しくないと言っただけです。私も36氏と同じく、検証する必要はないと思います。議論していく上でなされていくはずです。
大体、RIR6さんは「翻訳」の労力が大きいと言っていただけで、検証が難しいというようなことは、それまでに一言も言われていないと思うのですが、それなのに何故「検証すること」を考慮した発言を求められているのでしょうか。当たり前です。翻訳とはその文章の僕にとっての意味を理解することなのですから。
それとも「翻訳」には検証という作業も含むのですか?
さらに続きです。あー、あんたはそこまで図々しい人だったんですか、それは失礼しました。m(_ _"m)ペコリ
「五つ目」に関して。
具体的な内容に関しては、たくろふ氏ご本人がコメントなさっているので、私は触れません。
ただ、わたしは“せめて”ではなく“「翻訳」をする前に”と言ったのですが……。
あと、あんな程度のコメントなら、それこそ「検証」なんてしなくても、5-7について書けるでしょう。書けません。
「この部分については何を根拠にされているのか僕にはわかりません、ここについては僕には根拠となっていることが理解できません、よって信用できません」とか書いていけばいいんですから。「ここの部分」という言葉が既に解釈をしているという事になんで気付かないかなぁ?文章を部分部分に分けるという行為自体解釈を含む物であり、解釈をするためには翻訳が必要な訳なんだが・・・ここまで説明しないと理解できない?
そうやって書けばたくろふ氏が、わかりやすく説明して下さるかも知れません。
そもそも、相手の意見に理解できないところがあったら、その部分について説明を求めるというのは、議論していく上で必要でないかと思うのですが。
「六つ目」に関して。何で僕の意味をあなたが持っているのかな(w。あなたは僕の持つ意味について意見なんて持てる訳が無いんですよ、何故なら僕の意味には僕独自のものが隠れてるんだから・・・
私は別に、あなたにBLOGで意見を言う意味を差し上げる気はありません。ただ私の意見として、BLOGで意見を言う意味がないと申し上げただけです。
「誰でも簡単に的確な反論ができる状態を放置し」さらに「人から信用されることを放棄した」状態では、RIR6さんの意見が他人に正当性を持って届くこともなく、ま、「俺こそ全ての他の人の意見の代弁者だ!」と思ったりするその神経にはちょっと呆れるけど(誉めてるんだからね!)、僕はそれで良いと思うよ。
説得力も影響力も皆無でしょう。つまり、RIR6さんの意見は他の人にとって意味がないと言えます。そこでいきなりあなたの"独自なもの"が侵入して来るんだなぁ(ま、もともと独自なものを挟まずに意味論を言うなんて絶対不可能なんだけど)。「正当性が無けりゃ影響力が無い」という感覚がね。意味がない行為ほど人にとって恐怖となるものはないんですよ(と、僕は独自なものから導き出してるんだけどね)。
そして、それで構わないのだとしたら、他の人に読まれる必要もないわけで
BLOGなどという場で公開して意見を述べる意味はない。そういうことです。そういうことにしたいのですね?
「僕一人を残して人類全てが滅亡しても、残ったコンテンツに対して批判記事を書きます」って、その記事は別にBLOGじゃなくてもいいですよね。それとも、BLOGでなければいけない理由をお持ちですか?持っていますよ。情報の備蓄性とそれに関連する公開可能性。そしてそこにおける利便性の確保である。(このような説明を一般には「ごまかし」と言うらしい)
最後につけ加えますが、「私がそう思っているという状態」に対する意見ではなくて、私の意見の内容に対するRIR6さんの意見がお聞きしたいです。「私の意見」と「私がそう思っているという状態」を分離できると思っているところを見るに、やっぱりこの人も客観性の奴隷なのかぁ・・・