Rir6アーカイブ

2004-09-18


[異論]RIR6はこう語った〓他BLOGへの返信編

このコーナーは閲覧者や記事で取り上げられた当事者達から寄せられた様々なコメントに対してお答えするための記事です。もちろんこれで収拾出来るとは思ってないのでこれに対するコメントも募集してます(それに対して答えられるとは限りませんがね)。

それじゃまずTrackbackされた記事から
RIRくんかわいいよRIRくん -差別論編-バーチャル教祖 澄良木修司

たしかに、リル君の言うとおり人間は本当に他人のことを理解することなどできない。
だけど、障害者が自分からそれを口にすることが果たして誠実と言えるのだろうか?

たとえ気持ちが伝わらなくても伝えようとするのが人間の営みではないだろうか。
コミュニケーションを否定したら人間社会は成り立たなくなる。
その場その場で自分の意思、気持ちを伝えようとすることが必要だと思う。
うーん、確かにそうだと思うんですよ。例えそれが幻想だと分かっていてもコミュニケーションを成り立たせようとするその行動が人間社会を成り立たせている。それは確かに正しいと思うのです。

ただね、僕はこう思ったりもするのです。「人間社会ってそんなに大切な物なのかなぁ?」と。
たしかに障害者を語るのに情緒的な表現をしてはいけない。
表面上は前向きに見えても、心の中は日々自分の意思を伝えようと必死で、家でひとりのときは鬱になってるかも知れないしね。
でも、少なくとも自分は他人の行動(この場合で言えばコミュニケーションをとろうとする努力)とその背後にある価値観を素直に認められる人間でありたいと思う。

それがこれからの社会に必要な、異なる価値観との「共生」ということだと思う。
異なる価値観との「共生」か・・・でもその言葉は僕には「矯正」とか「強制」という風に聞こえてしまいますよ。

確かにこれからの社会を存続させるためにはコミュニケーシュンをとろうと努力することは不可欠だろうし、異なる価値観と「共生」することも不可欠だと思う。でも僕ははっきり言うとそんな事までして社会を存続させたいとは思わないんですね。僕は生産を奨励する宗教(宗教なんかこわくない!参照、ただ僕もこの本を図書館で読んだのは大分前なのでもしかしたら文脈的に意味が間違っているのかもしれないが)の信者では無いし、本能という物を全然信じてはいないから、自己を犠牲にしてまで社会の存続に奉仕しようとは到底思えないのです。そして僕はコミュニケーション不可能論者だから不可能なことなどしたくもない(ここでのコミュニケーションは意志の疎通という意味ね)し、異なる価値観の「共生」をあなたは言うけれど、価値観がその個人の中で完結しているなら別に僕は共生しても良いと思うが、価値観というのはその性格(行動の規範となるという性格)上、必ず他者に対して影響を与える訳です。

これは
前NWatchで話したことの繰り返しとなるので、とりあえず引用で済ませと
所で、僕はこれまでの記事で「いじめ」と「からかい」をあえて区別して書いているんですが、コメント欄ではその事に気付いてない人が「いじめ」という呼称をしていてた人が居ましたので、それに対してちょっと説明したいと思います。

まず最初に言っておくと、僕はあの事件の被害者の女性が、いわゆる「いじめ」をしていたとは思っていません。記事を見ている限り彼女が行っているのはあくまで社会の価値観や僕の価値観から見れば「からかい」と呼べる様なとても小さな物でしょう。そして僕が受けていた行為も、社会の価値観から見れば「からかい」なのです。

ここで重要な事が2つあります。まず第一に、「いじめ」という物は定義としてそれが「いけない」という事になっていますが、「からかい」というのは別に「いけない」と定義はされていなく、むしろ時と場合によっては推奨されるまではいかないまでも集団の潤滑油として必要とされている(というか必要)という事です。

そして第二に、例えそれが集団に必要とされる「からかい」だったとしても、それがそのからかわれる人の尊厳を傷つける場合もあるという事です。今回の事件のような「ぶりっこ」という言葉がいじめであるとは誰も思わないだろう。しかしこの言葉は彼女を本当にえらく傷つけた。ま、同じ環境を生きてれば価値観は皆同じだと考えているような人にはどう説明したって分からないだろうけどね。。。
なのだ。価値観の「共生」とは一体どういう意味なのか?例えこの文章で言う「からかい」をした人間が相手の意志を察知したとしても、それが「からかい」を受けた人にどの様な苦しみを与えたかを理解することは自分の価値観を捨て去り相手の価値観にならない限り出来ないだろう(そしてそんな事は殆ど不可能である)。だか多くの場合、人々は不可能と分かっていてもコミュニケーションをしようとする努力をする。しかしその「からかい」を受けた人(その人にとっては例え「からかい」だとしてもとても残酷である)が望むのはその様な行為では―少なくとも僕の場合は―無い。何故なら例え相手が僕の価値観を理解しようとしているという風な行動をしたとしても、それが不可能であるという事が分かっているのにそれをしようとしているのなら、それは僕には自己満足としか思えないからだ。

では僕は相手に報復することによって満足するのか?実はそれも違う。確かに報復がもし可能なら社会的に許される範囲で報復をするが、しかしその報復が相手にダメージを与えられたかどうかはその本人しか分からない。結局不満と憎しみを胸に抱いて日々の生活を送るしかないのだ。

しかし多くの人はそんな事は嫌だから相手が自分と同じような考えをすると妄想する。その妄想の結果が言及された記事で言った
「私がもしかしたらあなたにになるかも知れないし、あなたがもしかしたら私になるかも知れない」という神話
つまり民主主義なのだ。

何か話が脱線しはじめているので元に戻すと、つまり澄良木修司氏が目指しているのは社会の存続(「人間の営み」という言葉を彼は口にするが、人間の営みなんてものはつまり社会が自己存続のために定義した、実存主義風に言えば人間の本質なのだから、結局彼は社会の存続を唱えてるという事になる)であり、僕が目指しているのはその社会の破壊、つまり根本の目標からして違うのだ。だから僕が不必要(というか害悪)だと思っていることを澄良木氏は必要だと唱えるという風に、僕と澄良木氏は意見が合わないのだ。 http://s03.2log.net/home/sumeragi/archives/blog14.html

[異論]RIR6はこう語った〓言葉と責任編(1)

さて次はコメントスレッドに寄せられた意見について考えてみよう。しかしなぁ・・・:(

38 名無しさん 04/07/31 15:31:18 ID:+5Nqt3Oq/r
参照:自由と義務と責任と愛しさと心強さと
何の意味もない、言葉遊びだね
語るという行為そのものに意味があるんですよ、語るという行為によって語られた相手は自分と異なる存在(つまり「語る人」の事ね)を認知するのですから。

39 36 04/08/01 05:50:06 ID:OtMAf3V83q
読みづらいかもしれませんが、RIR氏のブログ上のコメントを引用してあります。
一応断っておくと>>35と>>36は同一人物ではありません、念のため。

>ま、これが普通の一番常識を持っている人の意見なんでしょうなぁ。だからといって屈する気は全くないが(w

一番常識とはどういう意味なのでしょうか?わからないです。
嘘を付く人は嫌いです。
>まず最初に言っておくと、この人は私の目から見てと言っているが、僕の目はあなたの目じゃないんですね。>そこの所を分かってくれないとこの議論は百年やっても終わらない気がします(でも分かんないんだろうなぁ。。。)

ではなんと書けばよいのでしょう?貴方の意見も貴方の議論も全部「貴方の目から見て」に他ならないのに、どうして議論ができるのですか?
それとも最初から議論する気などないのだったら、わざわざBBSを立てて罵詈雑言を無駄に集める必要は無いかと思います。
議論なんて元々出来ない」と納得すりゃ良いんじゃないですか?

僕の考える議論というのはつまり「双方が双方に対し自分の目で見た意見をぶつける」、ただそれだけの事です。だから今やっている事だって十分「議論」だと僕は思いますよ。ただ僕はこの議論は終わらないと言っているだけで、議論が終わる機会ってのは「どっちかがどっちかの価値観(上記で言う「目」ね)に屈する」場合しかないのだから、あなたのように双方にとって納得できる価値観による結論を目指していたらどんなことをしたって議論が終わる訳が無いんですよ。
的確かそうでないのか判断できないのは、貴方の言語理解能力が極端に低いか、最初から読む気など無いということでしょう。
と36氏は思った(w
次に、そもそも、この文章が客観的に(主観的に)的確かどうかを貴方が判断する必要は無いかと思います。
この>>5->>8は貴方の反論に対する反論ですから、それを的確だと思う人間が引用すればそれだけで十分論たる論になりえます。
まさかとは思いますが、あなたは「論たる論」が評価する人が居ない単体の状況で存在するとでも思って居るんですか?

一応説明しておくと、「論たる論」というのはその論を的確と思う人の中でのみ、事実足りえるんですね(そのような性質の事実以外の事実があるかと問われればちょっと困るのですが)。だから確かにそれを的確だと思う人がそれを引用・転載して発表すればその文はその文を発表した人にとっては的確なのでしょう、それは否定しません。

ただそれが僕にとって的確であるかは違う話です。僕は自分の思考で納得出来なくても他人が納得しているという理由で納得出来る人間ではありませんから、結局納得できない論の再生産が幾ら行われたって僕がその再生産された物に納得出来る訳無いんです。

そして、「僕が的確だと思わない」=「的確でない」となるのです。何故か分かりませんか?この文は僕の思考を表した文だからです。だからその文中で事実とされることは即ち僕の思考の中で真実とされている物なのです。
それを否定するも否定しないも貴方の自由ですが、逆に言えば貴方が>>5->>8が的確でないと断定する根拠はどこにもありません。
「僕がそう思っている」これが根拠です。というかそれ以外に一体どんな物がこのような場合における最終的な根拠となりえるのだろうか?
貴方の意見を貧弱だと思っているのは一人ではないと思いますよ。
だから何だと言うのか?僕がそう思っていないのに変わりは無い。
普通、説得力のある意見には、ある程度の賛同とある程度の批判が付きものだとは思いますが、
それが偏ってるのは駄目ですね。
●●じゃねーの?説得力があるかどうかを判別する方法なんてただ1つしか無いんですよ、「自分がそれを見て説得出来たか否か」だ。
ちなみに、これは貴方がブログを書く動機を知るためでもありますが、貴方は今まで誰かから「貴方自身にメリットのある意見」を貰った記憶がありますか?
僕がBLOGを書く理由はこの曲ても聞いてのんびり考えれ。
つまり、客観的に見て、貴方の意見とたくろふ氏の意見の議論は未だ決着していません。
(わからないんでしたっけ?あ、放棄したんだったか。)
「客観的」なんて言葉、僕なんか口にした途端恥ずかしくなって穴に籠もりたくなるんですがねぇ。
検証することとはどういうことなのかわかりませんが、理解して反論することなら可能です。
「出来る」と「やる」の間には深い溝があるんだなぁ。僕がBLOGを毎日更新することは「出来る」けど「やらない」し。
間違ってると思うのならば、指摘すればいいだけです。
「間違っている」かさえも分からないと何度言ったら(略
常識です。普通、抽象的存在は「もの」「こと」と書きます。
僕は書きません。
漢字の意味がわかれば理解できると思います。
あなたの考える「漢字の意味」の正解と僕の考える「漢字の意味」の正解は違うわけで・・・
それなら、ネットで公開する意味も、BBSを用意する意味も無いと思うんですが。
それこそ、日記帳にかけば済む程度の「意見を言う意味」ではないのですか?
とあなたは思うわけだ。
それとも一方的に批判し続ける自己満足が貴方の動機なんですか?
教えない。
どちらにせよ、それを根拠に反論しないという類の論理を構築されるようでは、貴方の意見に説得力のかけらもありません。
上記参照。
ただ文句を叫び続けるだけなら、赤ちゃんでもできます。
赤ちゃんを馬鹿にしちゃいかんよ。
問題はそこから先だと思います。
先に進まないとみんなが不幸になるから、あなたはそう主張する訳だ。
なるほど、貴方は日本人じゃないのか。
論理の飛躍というのはこういう文を言うのだなぁ。まずあなたの考える「日本人」を示して、その定義と僕の文を形成しているものを比較し、定義のどの部分が僕の文を形成している物と相違しているのか示してごらんなさいよ。
何にせよ、マナーとか常識といった類の事ですから、人間性の問題だと思います。
また「人間の本質」論かい・・・ここまで常識を疑うことを知らない人が居る事を知ると、やはり僕は絶望してしまうなぁ。

次、たくろふ氏
この文から察しますに、RIR6さんは「人間の使う言語には必ずその根拠となる正典なり規範なりが成分化されて存在する」と思っていらっしゃいませんか。そんなものはありません。人間の言語は規範に従うものなどではありません。辞書などというものは言語を後追いして人間が勝手に記述したものであって、言語使用者が守らなければならない制約ではありません。言語が変化したら変わらなければならないのは辞書の方です。ある時代における使用言語の文化圏でのおおまかな総意が、ことばの使い方です。41氏のおっしゃるとおり、中・高の学校文法では「こと」「もの」と「事」「物」の違いは「常識」として教えます。言葉は成分化された規範も根拠もないからこそ、変化し得るのです。
確かに言語の意味を人間存在の外部に置くのは僕は間違っていると思いますよ。その部分(下線を引いた部分)には僕も賛同します。しかしだからといって言葉の意味を「ある時代における使用言語の文化圏でのおおまかな総意」に置くのはやはり間違っていると思うのです。つまり人っていうのはそれぞれその内部に言葉の定義を独自に持っているわけで、確かにその言葉の意味は他者との接触によって作られる訳なのですが、しかしその接触という経験に意味を与えるのは結局自我であり、自我はその人固有の物なのですからその自我によって意味を与えられた言葉だってその人固有の物だと思うのです(そして僕は僕固有の言葉の意味に則り文を書いてるんですね。)。更に言うと人というのはそれぞれその人固有の時間に則りその人固有の文化を生きている。。それを無理矢理おおまかとはいえ「総意」という形にまとめるのは、意味がないと思うし、枠組みを人為的に作るという意味では暴力的だと思うのです。

暴力的とはどういう事か?「ある時代における使用言語の文化圏での総意」という物を厳密に明文化しようとすればそれこそその時代でのその文化圏に属する全ての人の言葉の定義を書かなければならなくなります。だからたくろふ氏は「ある時代における使用言語の文化圏でのおおまかな総意」という風に「おおまかな」というのを追加したのでしょう。だが「おおまか」という事は一体どう云うことなのか?それはつまり周縁の切り捨てという事だろう。多数派の定義を「正しい定義」とし、少数派の定義を「誤った定義」とする、そういう事に他ならない。「その事の何がいけないのか?」とあなたは言うかもしれないが、その様な見解を発表することそれ自体によってその見解に少数派を排斥もしくは同化(人は言語によって思考を決定するのだからその言語を定義するというのは即ち)する権力が生まれてしまう、例えそれが学問的知であってもだ(例としてはこことか)。更に言うと「ある時代」、「文化圏」というものを定義するということ(定義しなければそれについて調べることも出来ない)自体、「その時代的でない」、「その文化に属していない」人を作り出す事である。

むろんその様な観点からしてみたら僕の文章だって十分暴力的だろう。だが、首相の言説の暴力や世論をバックにした暴力と僕の暴力、一体どちらが力が大きいのだろう?
郵便で相手の名前に「様」をつけますが、企業相手には「御中」とつけますね。「どうしてそうしなければいけないのか根拠を出せ」と言われて出す必要があると思いますか?
必要は無いが、しかし一方でそのような慣習を偽と感じる人はその様な問い(「どうしてそうしなければいけないのか根拠を出せ」)をすべきだと思います。何故なら問いを発するというその行為によって、相手はその様な慣習が絶対ではないことを知るからです。そしてその相手は自分が他者に対して力を行使していることを知るのです。問いという物が答を生み出す為だけに存在しているというのは、あまりに一面的な見方でしょう。
他の、私の5-7に対する反論もお待ちしてます。決して義務などではありませんよ。
もしかしてこの人は他の僕のコメント見てないのかな?

次は44番の人
44 名無しさん 04/08/05 07:15:59 ID:bGwtGFtL8f
前々からそういう傾向はありましたが、
何でコメントスレッド内のことをコメントスレッド内で片付けないのでしょうか?
コメントスレッドを見ずに帰った人には「反論が無い≒反論できない」と思わせるためでしょうか?
それともいわゆる「晒し上げ」のつもりなのでしょうか?
もしそうなら、マスゴミの言論操作みたいですね。
妄想お盛んですなぁ(w、僕が記事で返すのはただ単にHTMLで装飾出来るからですよ。もし見ずに変えられるのが嫌なら自分でBLOG作ってそこで反論を書いて周りに宣伝して下さい。人のBLOGのコメント欄でコメントしてさらに宣伝までやらせるってのは虫が良すぎると思いますがねぇ(こういう文が来るからコメントスレッドのコメントに反応するは嫌なんだよなぁ、何で皆さん自分のBLOGで反論してくれないのかしら?)

次!
45 白い狐 04/08/05 18:22:15 ID:J8gkMY96Kk
参照:自由と義務と責任と愛しさと心強さと
>最後に、で、コメント無しですか?せっかち過ぎ(w
2 たくろふ 04/03/14 03:20:42 ID:Z8nSSDCFof
36 名無しさん 04/07/20 22:58:33 ID:Uq0reQCbN9
自由と義務と責任と愛しさと心強さと 04/07/30-19:19

丸四ヶ月以上放置しておいて、他人をせっかちと揶揄するのですか。
なかなか面白い冗談ですね。
その発言をしたのは35=36氏だと思ったからなんですがねぇ、ま、どうでも良い文にどうでも良い反論をされても別にどうでも良いわけで、どうぞ心の中で「面白い冗談」だと思って下さい。

46 36 04/08/08 21:55:05 ID:P+veIjfggo
別のブログに責任論について述べられていたので、一連の流れに対する回答と解釈して。
それだったらその記事のコメント欄で発言しなさいよ(w
結局の所、以前貴方が仰った「この人は私の目から見てと言っているが、僕の目はあなたの目じゃないんですね。」という発言に全て尽きると思います。(WEBだからこそ言えるのだと思いますが)
最初から最後まで貴方の発言の中に一貫して感じ取れるのが「自分はこう思っている。だから他者は関係無い。」という類の論旨です。
どっちかというと「自分はこう思っている。だから他者は憎い」何だが、ま、いいや。
確かに、貴方が反論をどうするのも貴方の責任の範囲内で思考されるのであれば、貴方の自由に他なりませんし、それで話は終わってしまいます。残念ながら私には他に手だてがありません。
ただ、そうであるのならば、何故トラックバックを用いて批判するのでしょうか?使わなければ相手に知られることも無く、反論される恐れもありません。私には、貴方が議論をしたくてうずうずしているようにしか感じられません。議論をしたくて仕方のない人間が、何故議論に応じないのか不思議だと感じます。
うーん・・・僕はこれでも議論という物をているつもり何だがなぁ?多分あなたと僕の間で「議論」という物の意味が違うんでしょうな。僕は議論というのは「言葉のやりとりをする」という意味だと思っています。それ以上でもそれ以下でもない。例えで説明すると、僕は「これは山ですか?」「私は京都から来ました」、とかいう禅問答みたいな会話や、「この大馬鹿が!」「何を言う、貴様の方が大馬鹿だ!」という会話だって僕は議論の内に入ると思ってるんですね。

しかしあなたの文章から察するに、どうやらあなたは「議論」というものを僕の定義以上に限定して考えているようだ。あなたは議論という物を「他人と客観的な論を交換しあう」とかそういう感じで考えていると思います。そのような意味での「議論」をするかと聞かれれば、僕は客観性という物を幻想として捉えているので「しない(出来ない)」としか答えようがないです。

さて、ここで問題になるのは「ではトラックバックをするという事は一体どっちの『議論』の為に行うのか?」という事であり、そこであなたは「トラックバックは後者の『議論』の為に行われるべきであり、前者の『議論』などは愚劣な物であるし、そもそも議論などとは呼べないのだからトラックバックなどすべきではない」という事を主張しているわけです。

あなたは僕の文章に論理的な矛盾があるかのように文章を記述しましたが、実際はこの文書は「べき」論を言っているわけで、そこの所を勘違いして貰いたくないと思います(何か宗男みたいな言い方だな(w )。
付け加えるならば、貴方は初期段階では反論に応じていました。
しかし、2回目からは反論することを辞めています。
何故ならば貴方は以前仰ったように、「反論する事によって得られるリターン」を「反論する事によって生じる労力」を上回る、つまり「めんどくさい」と断言し、反論できるにもかかわらず反論しなかった、単なる「怠惰」であると自己説明なされています。普通、人間というものは「怠惰」を嫌う傾向にあります。
へー、そうなんですか。じゃ僕は人間じゃなくて良いや(w
もはや、「怠惰」のみが反論しないことの理由付けにはなり得ません。
僕があなたの思う「人間」だったらそうなのだろうけどね。あー、早く人間に成りたい〓
反論できないのであれば反論できない理由を、納得できる説明でして頂きたいと思います。これは責任ではなく、一人の参観者としての希望です。
納得なんて物は出来ないと思うよ。何故なら僕は僕で、あなたはあなただから。もし出来たと思ったとしたら、それは納得できたと妄想している事に他ならない(説明は何回もしてきたから省略)。
また、私は貴方に謝罪や説明を求めているのではありません。単純にたくろふ氏の反論に反論して頂きたい、ただそれだけです。それは貴方の意見に対して、私自身が未だ信頼をおける段階に達していないというのが第一の理由です。
多分あなたは僕の文章を間違って解釈してると思うから信頼しない方が良いと思うよ。ニーチェの哲学を聞いてアーリア民族優越論を唱えたヒトラーの様なことに成りかねないからね(あくまで例えですからね!)。。。
故反論されないのか、ご自分の意見に責任と信頼をお持ちのことならなおのこと反論できるはずです。
結局この人って会話的なコミュニケーションに慣れてないんだろうなぁ。この論理は僕が「怠惰」という物が理由にならないという事を認めたという前提でしか効果を発揮しない論理だよね?だったらまずあなたが何故「怠惰」という物が理由にならないかを説明した文(下線を引いた文ね)だけを提示して、それに僕が異論がないのを確認してからこのような文を提示すべきでしょう?効果を発揮していない文になんて答えようがないのだから。
貴方の仰る責任とやらは、ご自分の意見のみを盲信し、頑なにプライドを保ち続ける自己保身の塊なのでしょうか?
このような煽りを提示しながら「(あなたの言う意味での)議論をして下さい」なんておごがましいとは思わんのかね?
議論の成熟、意見の成熟という点で、当事者同士の議論は避けざるを得ないと思われます。特に一方の論者が議論を続行を希望しているのであれば、それを否定する理由はネガティブな意味でしか考えられません。
そもそも「議論の成熟」「意見の成熟」が一体どんな意味なのか?客観性という言葉を使わずに説明して欲しいな。
自己による自己のための責任の発生とは、まさに「良いこと」と「悪いこと」を自己で判別し、責任化しているに過ぎません。自己で判別する善悪、それらを含めた倫理観を拠り所とする責任感情にはまったく説得力が無く、往々にして「常識」や「一般的」といった言葉から離れていくことになります。
でしょうな。ここには僕も異論はないです。
社会に置いては、自己という単一の思考の枠に捕らわれた発生プロセスを持つ責任に価値を認めません。あるのは他者による相対化された責任のみです。
自己に置いては、他者による相対化された責任に価値を認めません。あるのは自己という単一の思考の枠に捕らわれた発生プロセスを持つ責任のみです。
貴方が主張している責任とは、まさに無責任な責任にほかなりません。
えーと、分かりにくいのでちょっと補足すると、つまりあなたはこう言いたいのですね?

「イシャは何処だ?」

・・・何か滑った気がする。えーと、そうじゃなくて

「貴方が主張している自己の責任とは、まさに社会的には無責任な言葉としての責任にほかなりません。」太線が僕の補足した部分ね。

うーん、これは仕方がない事でしょうな。社会的な意見を言おうとは思ってませんから。僕はただ自己に対して誠実であろうと思いますから。
そのような無責任な責任を盾に反論しないと仰るのであれば、貴方の大層な責任論とやらも単なる戯言の類と言うほか無いでしょう。
うん、社会的に考えればそんな感じで捉えるしかないと思うよ。

で?これだけ言葉を使ってわざわざ僕の意見が社会的には「単なる戯言」であることを証明したかったの?僕にはそんな馬鹿らしい事を証明するためにここまで文字を浪費するなんて考えも付かない事なのだけれど・・・なんでそこまで「社会的」であろうとするのかなぁ? http://blog.newsch.net/bbs/iron/comment.html

[異論]RIR6はこう語った〓言葉と責任編(2)

47 35 04/08/11 01:06:45 ID:LaxXHftCmO
書き込む気力もなかったのですが、やはり何も書かないのは無責任のような気がしましたので、一応。
前回の書き込みには、いろいろ言葉の足りなかったり書き方が悪かったりした部分があったようなので、そこら辺を補いつつ書きます。文章力がなくて申し訳ないです。
文章力なんてどうでも良いと思うがなぁ・・・
まず、私の発言に対する反応ではありませんが、今回書くこと全体に関係してくるので、「僕の目はあなたの目じゃない」ということに関して。
「僕の目はあなたの目じゃない」のは当然のことです。
RIR6さん以外に、RIR6さんの「目」で見て意見を述べている人はいないですよ。他の人は自分の「目」で見て、自分の意見を述べているのです。
私が前回述べた意見も、これから書くことも、私が、私の「目」で見て、考えたことです。そこのところを踏まえて読んでいただきたい。
だとしたら「BLOGで意見を言う意味があまりありません。」とかいう断定的な意味論は出てこないと思うけどなぁ。
では「一つ目の問題」に関して。
私は、RIR6さんが>>5-8の内容が的確かどうか「わかる」「わからない」の話をしているのではありません。
わかりやすく修正すれば、私は、RIR6さんが的確かどうかわからなくても、>>5-8を読んで的確だと思った人にとっては「>>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能」な状態ですよ、という意見を述べているのです。
こう書くと、「あなたがそう思っていようが、僕には関係がない」とか「たとえ全ての人が的確に批判できると思おうが、僕が的確だとわからない以上、僕にとって僕の意見の正当性は失われない」とか言われそうですが……。
ええ、言いますよ。
ところで、デメリットについては私の意見ですので、当然「私が」「>>5-8を援用すれば誰でも的確な批判が可能」と考えているわけです。「私から見れば」とかそういう類の言葉を書かなければわかりませんか?
「客観的に見れば」という言葉がコメント欄で沢山出てきているにも関わらず、それらにあなたが批判を加えていないのを見てますからね。あなたもその様な意見の支持者なのかと思っていましたよ。
「二つ目の問題」に関して。
ええと、「信用されなくても構わない程いい加減」なのではなくて「誰もが的確に反論できることを(あなたが)許容でき、(人から)信用されなくても(あなたが)構わない(と思う)程いい加減」という意味で書いたのですが、ちょっと意味が取りづらかったですね。
追加的に書けば、私は、「誰でも簡単に的確な反論ができる状態を放置し」さらに「人から信用されることを放棄した」意見はいい加減なものである、と思っているのです。
信用されないから即いい加減なのではありません。
いい加減な意見ではないのなら、反論に対してさらに論理的に反論することは可能なはずですし、可能なはずの反論をせず人から信用されなくても構わないというのであれば、それは論理的に反論できないほど論理の組み立てがいい加減な意見であると言われても文句は言えないのでないでしょうか。
これも「僕の意見がいい加減かどうかは僕が決めることであって、他人がどう思おうと僕がいい加減だと思わない限り僕にとってはいい加減な意見ではない」とか、そんなことを言われそうですが……。
これも>>46の「僕が『怠惰』という物が理由にならないという事を認めたという前提でしか効果を発揮しない論理」なので反論は省略。
ところで、「信用されない」と「信用できない」の違いについての部分がよくわからないのですが、これはいい加減であるという判断を「信用されているかどうか」ではなくて「信用できるかどうか」でしろということなのですか? だとしたら、今回は関係のないことですが……。間違っていたらご指摘お願いします。
僕は僕の目で語っていますからね、つまり僕がもし「私の言ったことは信用されない」と言ったとしてもそれが即、僕がこの論をいい加減と思っているという事にはなりませんが、僕がもし「私の言ったことは信用出来ない」と言ったらそれは即、自分がその論をいい加減と思っているという事に繋がるのです。
「三つ目」に関して。
確かに、極端に考えれば責任とは自分が自分に課すものです。
いかに社会から責任が課されようと、それを引き受けるかどうかは自分で判断するわけですから。引き受けなければそれなりの制裁を受けるだけです。
しかし、忘れてはならないことは、責任とは他者との関わりの中、つまり社会において発生するものであるということです。
ふむ、どうも僕の言っている責任とあなたの言う責任は違うみたいだ。

僕の言っている責任というのは「自己に忠実であれ!」ということで、社会が課す物では無いんですね。しかしあなたの言う責任というのは例え自己を抑制したとしても社会に奉仕しろという事なのですから、この2つの「責任」は文字としては全く同じでも意味は全く異なると言うことになりますね(所であなたは前者の、つまり僕の示した「責任」についてはどうお考えなのでしょう?)。

というわけで、とりあえずここではあなたの言う「責任」について話をするという前提を書いておきます。
この他者から課された責任を、最終的に自分が自分に課すのが一般に言われている責任です。もちろん、理不尽な責任を負う必要はありませんが、その場合は理不尽であることを周り納得させる必要があるでしょう。
まずそこで「社会に対する責任」とやらの第一の矛盾が出てくるね。

理不尽な責任とは一体どんな物か?これはつまり、社会によって与えられる恩恵・利益より責任によって与えられる負担が多い場合に人はそれを理不尽な責任だと感じる。ここまでは問題ないよね?(あったらごめん)

さて、ここで問題となるのが「では、どうやって利益と負担を比べるのか」という問題だ。社会というのは様々な機能があるため、責任という名の負担によって社会に与える物と、社会から与えられる利益は違う物である場合が殆どだ。両替みたいに、千円札一枚渡したら百円玉が十枚返ってくるとかいうのとは訳が違う(ここで商取引を例に挙げなかった自分を誉めたいなぁ)。

その為大昔の人は「幸福の定量化」という事を考えた。簡単に言うと「全ての負担・利益はある1つの尺度で比較出来る」という考えだ。これは今でも社会システムの殆どの所で当然の論理とされている。

しかしこれがインチキであるという事は聡明な人達にはすぐに分かったんですね。どんなことを幸福と思い、どんなことを不幸と思うかは価値観によって人それぞれな訳で、更に言うと価値観という物はどんなに頑張ったって他人には決して分からない(食べ物の好き嫌いはどんなに討論したって決着が付かないでしょう?)のですから、幸福の定量化なんて無理に決まってるのです。

もちろん「幸福の定量化」派にだって言い分はあります。ある「幸福の定量化」派はこの世の幸福をの2つに分けました。善というのはつまり「個人の生の究極目的にかかわり、『いかに生きるべきか』という問いにたいする解答として与えられる物」であり、生というのは「富、権力、地位という個人の生の外的条件にかかわり、社会的価値の配分にかかわる」という物です(自由主義の再検討からの引用、ただこの本終章ら辺がどうも気に食わない・・・)。で、彼は「善」の定量化は不可能だが「正」の定量化は可能だと唱えたのです(僕流の解釈だけどね)。

しかしこれもやはりおかしいのです。何故ならこの世の中には富・権力・地位を生の究極目的としている人も居ます。人間というものが定義不可能な以上、その人間の究極目標というものも定義不可能なのです。

そして、以上の理由から僕は幸福の定量化というものは出来ないと考えているわけなのです。定量化が出来ない以上、責任という負担と社会から与えられる利益を比べるのは個人の価値観ということになる。しかし個人の価値観というのは前にも述べたように(述べたよね?)個人に属するものなのだから他人には分からず、それ故責任という負担と社会利益を比べるということも個人に属するものなのだから他人には分からないのです。他人には分からないものを一体どうやってあなたは他人に説明・納得しろと言うのでしょうか?僕には分かりません・・・
そして責任を果たしたかどうかは、他者が決めることです。自分で勝手に果たしたと思っているのは単なる自己満足であり、責任を果たしたとは言えません。まして、その責任の内容を自分で決めるのは、個人的な目標設定にすぎないのです。
社会における責任とはそういうものだと思います。
で、何で僕がその責任を負わなきゃいけない訳?
以上のことは、RIR6さんが「社会に加入している」ことを前提に書いています。
というのも、「人間は皆強制的に社会に加入させられた」と言いながら自分から脱退するそぶりがないからです。むしろ、インターネットの中でもより社会的であるBLOGという形式で意見を発表し、他者のBLOGにトラックバックしているところを見ると、積極的に参加しているフシすらあります。
うーん、この人は社会というものを保険とかと同じ「自由に脱退出来るもの」として考えてるのかなぁ?まさかそこまで馬鹿とは思いたくないんだが、そう思わざるをえないよなぁ。

人間が社会的動物であるというのは僕は嘘だと思っている、が、しかしその嘘を語る人間が居る以上、その言葉は効力を放つのである。

例えば最近「脱社会的存在」というものが少年犯罪を起こす人間として大きく取り上げられているのですね、しかしそれはあくまで「社会から抜け出そうとする存在」であり、「社会から抜け出した存在」では無い。何故なら、そもそも社会から抜け出すことが出来たのなら、社会に対して危害を加えられる訳が無いのです。彼らが社会に危害を加えられた理由、それは彼らが社会から抜け出したいにも関わらず社会が彼らを内包しているからに他ならないのです。

そもそも世界に社会以外の領域が果たして存在するのか?僕は大変悔しいが「妄想としては存在するが、現実としては存在しない」としか答えることが出来ない。何故なら僕自身社会に加入している以上、そのような社会以外の領域を発見した途端、その領域を社会化してしまうからなのです。ですから僕は社会内部からの社会の解体を叫ぶのです。

ちなみに言っておくと、死というもので社会から逃れられると考えている者は大馬鹿者である。死というのは自我を世界と融合させることとに他ならない。世界=社会と化している現在の状況においてそれは即ち自我の社会化となるのである。つまり、死という選択肢を実行した途端、その人は未来永劫社会から逃れられなくなるのだ。
RIR6さんが加入した社会における責任とは他者が必ず関係する、ということです。
そんな責任は馬鹿げているというのであれば、社会全体をそういう意見に変えるか、社会から脱退するか、我慢するかしてください。
何故この3つの選択肢から選ばなくてはならないのか、それはあなたの倫理感でしょう?としか言いようが無い。果てしなく馬鹿らしい。
とりあえず、インターネット上で意見を発表しなければ、インターネットの社会に加入することもないですよ。
・・・( ゜д゜)ポカーン

インターネットの社会と現実の社会が別の社会だと考えている人間は、早々に回線切って(略)すべきなんじゃ無いでしょうかねぇ?社会というのは一つなんですよ。「インターネット社会」とか「現実社会」というのは便宜上の言葉でしかない。そもそもあなたはインターネット社会と現実社会の境を見つけられるのか?それが他の境界線と違って特段重視しなければならない理由は?そんな理由、見つけられる訳が無いのだ!社会というのは一つの目的、「自己存続」に向かって邁進するものである。そしてそれをするためにある場所では「ごみをポイ捨てしない」、またある場所では「反論に答える」というルールとなって現れる。しかしそのルールは結局根源的には「私、社会を存続させろ」という物であり、それ以外の何ものでもない。そして私が大いに嫌悪するのがこの根源的なルールなのである!
まあ、「僕にとってそんな責任は馬鹿げたことだ」とつぶやけば社会が変わるなんて思っていたりしたら、何とも言いようがないですが……。
だから僕は責任を放棄しているんじゃないか、何を見てきたんだこの人は?
それにしても、異論とは直接関係ないことですが、「誰か自サイトで責任持って批判する人は居ないのかなぁ?」と言っていた時の「責任」って何のことなんですかね? 自分に対する責任なら言及する意味ないと思うのですが。
「挑発」という意味がある(w

自サイトで批判するということはつまりその文章を書き換える手段を担保するということだ。例えば現在の自分と未来の自分で意見が違うということは大いにありえることであり、また恥ずべき事でも無い。しかし意見が変わり、その変わった意見によって、新たに前書いた文章を編集しようとしたときに、それが出来ないのは「恥」である。だから文章を書く人はすべからく未来の自分がこのような事にならないよう、誠実に、書き換えるための手段を担保しなければならない。そしてそれをしないコメント欄に書き込む人たちは、自己に対する責任を取ろうとしない不誠実な人なのである。社会は一切関係ない。
「四つ目」に関して。
確かに「読むこと」と「検証すること」は全く違うという事をもう少し理解してもらいたいものです。
私は読むこと(「読む」には内容を理解するという意味はありますが)は難しくないと言っただけです。私も36氏と同じく、検証する必要はないと思います。議論していく上でなされていくはずです。
読む」には内容を理解するという意味はありますがと35氏は思いました(w。これを「客観的な定義」だと、もし万が一あなたが思うのなら、頼むから僕の文を百回ぐらい読み直して下さい。

例えばだ、もし何の前知識も無く「アインシュタインの相対性理論は間違っていた!」みたいな本を僕が読んだとする。多分その時僕はその本を否定する術を知らないだろう(理科は大の苦手なのだ(w、馬鹿にしたいならどうぞ馬鹿にしてくれ)。もちろんだからといって僕はその本を信じたりしない。自分の知識で否定出来ないのは事実だが、しかし肯定できる訳でもない。要するに「訳が分からない」のだから、否定も肯定もしようが無いのだ。だからもしそのような本を見たら、僕はそれに対して「分からない」という事以外、何の意見の表明もしないだろう(もちろんその様な本が僕にとってとても重要な存在だったら話は別だけどね)。

今回の件はそれと同じなのだ。
大体、RIR6さんは「翻訳」の労力が大きいと言っていただけで、検証が難しいというようなことは、それまでに一言も言われていないと思うのですが、それなのに何故「検証すること」を考慮した発言を求められているのでしょうか。
それとも「翻訳」には検証という作業も含むのですか?
当たり前です。翻訳とはその文章の僕にとっての意味を理解することなのですから。
さらに続きです。

「五つ目」に関して。
具体的な内容に関しては、たくろふ氏ご本人がコメントなさっているので、私は触れません。
ただ、わたしは“せめて”ではなく“「翻訳」をする前に”と言ったのですが……。
あー、あんたはそこまで図々しい人だったんですか、それは失礼しました。m(_ _"m)ペコリ
あと、あんな程度のコメントなら、それこそ「検証」なんてしなくても、5-7について書けるでしょう。
書けません。
「この部分については何を根拠にされているのか僕にはわかりません、ここについては僕には根拠となっていることが理解できません、よって信用できません」とか書いていけばいいんですから。
そうやって書けばたくろふ氏が、わかりやすく説明して下さるかも知れません。
そもそも、相手の意見に理解できないところがあったら、その部分について説明を求めるというのは、議論していく上で必要でないかと思うのですが。
「ここの部分」という言葉が既に解釈をしているという事になんで気付かないかなぁ?文章を部分部分に分けるという行為自体解釈を含む物であり、解釈をするためには翻訳が必要な訳なんだが・・・ここまで説明しないと理解できない?
「六つ目」に関して。
私は別に、あなたにBLOGで意見を言う意味を差し上げる気はありません。ただ私の意見として、BLOGで意見を言う意味がないと申し上げただけです。
何で僕の意味をあなたが持っているのかな(w。あなたは僕の持つ意味について意見なんて持てる訳が無いんですよ、何故なら僕の意味には僕独自のものが隠れてるんだから・・・
「誰でも簡単に的確な反論ができる状態を放置し」さらに「人から信用されることを放棄した」状態では、RIR6さんの意見が他人に正当性を持って届くこともなく、
ま、「俺こそ全ての他の人の意見の代弁者だ!」と思ったりするその神経にはちょっと呆れるけど(誉めてるんだからね!)、僕はそれで良いと思うよ。
説得力も影響力も皆無でしょう。つまり、RIR6さんの意見は他の人にとって意味がないと言えます。
そして、それで構わないのだとしたら、他の人に読まれる必要もないわけで
そこでいきなりあなたの"独自なもの"が侵入して来るんだなぁ(ま、もともと独自なものを挟まずに意味論を言うなんて絶対不可能なんだけど)。「正当性が無けりゃ影響力が無い」という感覚がね。意味がない行為ほど人にとって恐怖となるものはないんですよ(と、僕は独自なものから導き出してるんだけどね)。
BLOGなどという場で公開して意見を述べる意味はない。そういうことです。
そういうことにしたいのですね?
「僕一人を残して人類全てが滅亡しても、残ったコンテンツに対して批判記事を書きます」って、その記事は別にBLOGじゃなくてもいいですよね。それとも、BLOGでなければいけない理由をお持ちですか?
持っていますよ。情報の備蓄性とそれに関連する公開可能性。そしてそこにおける利便性の確保である。(このような説明を一般には「ごまかし」と言うらしい)
最後につけ加えますが、「私がそう思っているという状態」に対する意見ではなくて、私の意見の内容に対するRIR6さんの意見がお聞きしたいです。
私の意見」と「私がそう思っているという状態」を分離できると思っているところを見るに、やっぱりこの人も客観性の奴隷なのかぁ・・・

コメントへの返信の続きはまた今度・・・(ここまで長くなるとは思わなかったんだもの) http://blog.newsch.net/bbs/iron/comment.html