Rir6アーカイブ

2004-09-22


[異論]オフ板でレイプ:犯罪の加害者はお前らだ!

オフ板でレイプ?2典TIME

記事No.405

オフ板でレイプと言う何とも残念な事件が起こっちゃいました。
本当にレイプかどうかはまだわからんのだけど、この加害者が
2典TIMEの記者なんですよ。
横にも名前が出てる”坊主”って言う人です。
私とは面識無いのですが、ここの他の記者とは面識あるっぽいです。
被害者は武者と言う20歳の女の子です。

坊主記者の自己スレからお祭りになり、ニュー速ニュー速VIPへと飛び交ってる状態です。
今凄い勢いでスレッドが進行してます。

でもね一方的に坊主が悪いように思えない。
なんかあるよこれ・・・。
コメント欄にあった
2典を見限る日が来たようだ
とりあえず2典は加害者側擁護か

見たやつは全員覚えとけ
(名無しさん/20040920022825)
という言葉に則って全文転載しました。僕はこのコメント欄の言葉を全面的に支持します。

一体真相が何になるというのか!真相を明らかにすればそれで被害者は救われるのか?今ここに被害者が居る、彼女は被害を訴えている、それだけでもう十分ではないか!そこまで行っているのにまだレイプだと認めず、「とりあえず加害者の言い分も・・・」などというのはそれ即ち加害者の味方をすることなのである。

さて、ここで1つはっきり言いたいことがある。「夜中にのこのこと男の部屋に一人でいくなんてレイプされても仕方ない」とか「何で抵抗しなかったの?」とかいう言葉をこの期に及んで吐いてる奴は今すぐ死ね!お前に被害者と同じ空気を吸う資格はない!

そもそもセックスするということはそれ自体相手の身体に対する侵入行為であり、例えどんなに親密な関係があったとしても、そこでは普段とは違う特別な配慮が行われなくてはならない。更に言えば、全てのセックスをする人は行為の後相手から責められるリスクを絶対に負わなければならないのだ!そんな事当たり前だろうが、自分の欲望で他者を汚したのだから。そのリスクを負う覚悟がないのなら絶対にセックスなどしてはいけない。

そもそも恋愛とは一歩間違えばどちらかがどちらかの奴隷となってしまう極めて危険な関係だ。しかし例えそれが望んだことだとしても、相手を奴隷にするというのは絶対に許されないことなのである(もしその様な結果になりそうだったら即刻関係を解消しなければならない)。相手が望んでない性行為を相手に対してやったと、相手が言ったという事は即ち今まで自分が相手を奴隷化していたということの証明なのだ。奴隷が反抗出来ないのは決して奴隷の責任ではない!

被害者が精神的に少し病んでいたという事(これも真偽は不確かだ)を理由に「加害者は気の毒だねぇ」などと言う鬼畜どもも―驚き呆れてしまうが―居る。が、僕から見ればその様な言葉を言える奴らの方がよっぽど狂気に満ちているとしか思えない。それも、被害者が抱えていた病が絶望の上に成り立っている悲しき病なのに対し、彼ら鬼畜の狂気は快楽殺人鬼の狂気とよく似ている。自己が強者である(何せ身分を明かさずとも相手を傷つけることが出来るのだ)ことを最大限に利用し、まるで幼き子供が蟻を潰すかのように被害者の尊厳を笑いながら踏みにじるのだ。そして彼らはその事に罪悪感は全く抱かない。被害者が全く正当な訴えをしながら、なおその訴えが正当かどうか悩むのに対し、彼ら鬼畜は全く反省もしないし、反省へと向かう自己への疑いすら持たない。そのような鬼畜に対し、憎しみ以外のどんな感情を抱けというのか?

レイプはとても重大な犯罪だ。多分加害者はこれから法に則って裁かれるだろう。まぁそれも被害者にとってはホンの気休めにしかならないのだが・・・しかし法が裁けない加害者もレイプという犯罪には存在する。お前らのことだ!お前らはその集団でもって被害者を散々傷つけた。その事は確かに現行の法システムでは裁けないが、しかし罪の大きさは直接の加害者と同じか、もしくはそれ以上だ。もしお前らに一欠片でも良心か有るのなら、その罪の意識に一生苦しむことだ。ま、良心が一欠片でもあるならああいう言葉は吐けないのだから、どうせ無駄だろうけど・・・

参考リンク:
レイプ神話を超えて
 性暴力の残酷さは、被害にあった後、さらに社会の偏見に曝されることだ。
 これほど、被害者が社会から責められる被害は他にないのではないか。
 強盗被害に遭った被害者に、強盗された側が悪いなどと、人は言わない。
 しかし、レイプは、された被害者にも『隙がある』と、どこかで「世間」は言う。その世間の言葉に、被害者は自分が自分として生きていくことすらも危うくされる。
 一緒に出かけてしまったのが悪かったのではないか。
 手紙を出したり、電話をかけたのが間違っていたのではないか。
 社会にある偏見が、被害者を追い詰める。
 性体験の有無とは、何のための質問だろう。被害者だって初めてではないと、被害を過小評価するのだろうか?被害者の年齢が増すほど被害の事実さえ疑うのだろうか?なぜ電話したの、なぜ相談しなかったの、とは、被害者の「落ち度」を言いたいのだろう。抵抗したのかという質問は、被害者が必死に抵抗するのが当然というメッセージを、被害者に投げつける。
 加害者の多くは、被害者と顔見知りだったり、非常に親しい関係にある。
 しかし、一般には、「暗い夜道を一人歩きのとき、突然見知らぬ男性から」被害に遭うものという偏見・思い込みがある。
 これらの偏見は、「レイプ神話」(RAPE MYTH)という言葉で言い表されてきた。
http://2ten.2log.net/archives/blog405.html

[旧NWatch]性社会神話を乗り越えていけ!(1)恋愛編

何か最近性と社会の関係について考えさせられるニュースが多いですね(僕がそんなニュースばっか集めていたという説もあるが)。しかしそれらのニュースに対する議論を見てるとどーも何かウヨサヨ問わず社会の維持とかそういうものに拘り過ぎている気がするんです。というわけで今回は性と社会に関係するニュースを取り上げながら、本当に性は生に必要不可欠なのか?ということについて考えてみたいと思います。

それではまず最初にこちらの話題から
柴門たまきはてなダイアリーキーワード

エルフ作下級生2のヒロインの一人。主人公とは子供の頃からの幼なじみで明るく元気な女のコ。何をしでかすかわからない主人公のお目付け役として、あれこれと世話を焼く。主人公と同じ3年A組でクラス委員をしながら、主人公が部長を務めるキックボクシング同好会のマネージャーも勤め、放課後は。瀬津町内にあるビリヤード場でアルバイトをしている。

恋愛ゲームの典型的なヒロイン像である世話焼きの幼馴染みとゆー属性を持ちながら、ソレに相応しくない今風の設定(他に好きな男がいて非処女)があるとフライングゲットしたファンが報告した事により、エロゲーに幻想を求めるエロゲーファンの反発心から2ちゃんねるのエロゲー板のエルフスレで、発売前から凄まじい祭りが起きた。
というものです。はてな近辺に住んでいる人たちとかは割と耳にする機械が多かったのではないではしょうか?まぁこの論争自体をネタだと思いたい人も結構多いみたいですが、そういう人を除けばこの論争に対する姿勢には大きく二つあると思います。

非処女容認派非処女否定派と、まぁこんな感じで二つに分けることが出来るのでは無いでしょうか?

まぁ、確かに自分の本気で好きな相手がセックスしてるというのは大変ショックだろうと思うのですが、しかし一方で僕はこうも思ってしまうのです「でも、結局例え相手が処女だったとしても、最終目標としてゲームの中の自分がその女の人とセックスするのだから、どっちの場合だって同じになってしまうのではないのか?」と。つまり他者によってその好きな女の子の処女が非処女になるのと、自分によって好きな女の子が処女から非処女になるのに何の違いがあるのか?僕はそこの所がいまいち良く分からないのです。

もしかして否定派の人たちは「他人の性器は汚いが、自分の性器は綺麗だ」とか思っているのでしょうか?(何か皮肉に取られそうな言い方だけど、別に僕は特段皮肉的な意味をこめた訳じゃありません)僕なんかは自分の性器をとても汚いものと思っているのですが、しかしその様な視点は今回の論争ではあまり見られない気がします。はっきり言うと、この論争では他者のセックスを容認するかは争点にあがるが、自己のセックスを容認するかどうかは全く争点になってないということです。

それは一体何故なのか?「それを言い始めたらエロゲー自体なりたたなくなってしまう」、確かにそれも一理あるでしょう。しかし今回の論争は普段エロゲーをやった事も無いような人も多数参加していました。その様な人たちならこの事を契機にむしろエロゲーというシステム、つまり自己によるセックスそのものの善悪が考えられても良いはずです。しかし今回その様なことは起こらなかった。これはその様なシステムがエロゲー外の世界でも当然のものとして通用しているという事でしょう(何故ここまで回りくどいやり方をしてるかというと、その様な形を通してしかその様なシステムをリアリティ持って捉えられないからなんですな・・・←意味が分からない人は分からなくて結構です)。その事について考える前に別の性に関するニュースについて考えてみます。

山笠問題まとめスレ児童小銃
この問題の詳細な情報は↑のページを見て頂くとして、ここでは簡単な概略(簡単にするために一部事実を省いています)を説明すると
  1. 福岡県福岡市で博多祇園山笠という祭りが開かれる。
  2. そこで祭りの行事として少女がふんどし姿で踊る
  3. その様子を撮影(盗撮とそうでないのがある)した写真が児童性愛者のサイトに出回る。
  4. それを見たある人がそのような行為を激しく非難する声明をインターネット上に発表する。
    盗撮ポルノが蔓延する日本てぃるるの日記
     こんなとんでもないものをネットで見つけてしまうとは思ってもいなかった。
    私は普段のように適当にネットサーフしていただけだったのだから。

    (略)

    こんなことが許されていいのだろうか?!
    私はこの激しい怒りをおさえるなんてとてもできない!

    想像してみて欲しい。女も男もだ!

     貴方はある日、温泉とか銭湯とかに行っただけなのに、
    その貴方の着替えている姿が盗撮されていて、
    しかもその画像や映像が商品として高値で取引されている様を!

    そしてその盗撮ポルノを見ながらぺ○スをしごいてマスターベーションしている変態野郎どもの姿を!

    そんな盗撮ポルノの被写体にされるのは、自分や貴方だけでなく、
    貴方の親兄弟、友人や恋人・配偶者や我が子や教え子たちなのだ!

    このような事態を放置しておいていいはずがない!

    もしもこれを知った人がこの様な事態に憤りを感じるならば、
    もう黙っているべきではない。
    盗撮ポルノなんか犯罪だ!と声を上げよう。

    先ずは何が出来るのか、どんな方法がいいのか、智慧をしぼるんだ。

    児童ポルノだろうが大人ポルノだろうが、
    盗撮ポルノは全て非合法化すべきだと私は考える。

    人生とは絶え間ない闘いであるということを私は知っている。
    闘ってやる。死ぬまで闘ってやる。死んでも闘いぬいてやる。
    それが私の人生だ。
    なかなか名文だと思うがなぁ・・・というのは僕の感想
  5. 論争が起こる
という展開です。

この論争については主に三つの立場から意見の提示がされました。
博多祇園山笠記識の外から引用すると
  • 子ども、とくに少女にふんどしを着用させること自体が性差別であり、性暴力そのものだ。(ラディカル派)
  • 性の自己決定権という観点から、ただ伝統という名のもとに子どもに締め込み*2を着用させるのは間違っている。締め込みを恥ずかしがる子どももいるんだから、着用については子どもの意思を尊重しなければならない。(リベラル派)
  • 地域の伝統行事であり、地域の連帯を深め、子どもたちに伝統を教え、それによって地域社会の一員としての自覚を持たせるためにも、締め込み着用は必要である。(コミュニタリアン)
まー、これだけ見れば多くの人はリベラル派の意見を支持すると思うので、一応ラディカル派の意見を支持する僕(ただ普通のラディカル派とはちょっと違う意味なんだけどね、それは後で説明します)からちょっとラディカル派の意見の補足というか擁護をさせていただくと、リベラル派の人達は
  • 性の自己決定権
  • という事を主張するが、しかしそれは一方で自己決定権さえ尊重されればそれが未来どんな影響を及ぼそうとも自分のせいとされてしまう(今風の言葉で言えば「自己責任」かな?良く知らないけど)ということである。しかし人間とはそもそも変わり往くもので、過去の自分と現在の自分(過去から見れば「未来の自分」)の間で価値観が違うのは当然の事であり、その事によって生じる苦しみを「お前が許したんだろ」という言葉で片づけるのはやはりどうかという事になる(ま、この問いは突き詰めていくと「そもそも自己同一性は本当に社会倫理を担えるほど根拠のあるものなのか?」という近代的なことに対する問いになるんだけど、それはまた今度)。さらに言えばリベラル派は子供の意志を尊重というが、そもそもふんどしがあっても良いという社会の姿勢そのものがふんどしをしたくないという子供の意志に対する弾圧になる。ただ公的に選択の自由を与えたって私的にそのような選択についてどうこう言う自由がある限りその公的な自由は幻想であるのではないか(ここら辺は多分にマルクス主義の影響(要するに「公的領域と私的領域を分離する限り問題は解決しない」という視点のこと)を受けてる論理展開だが、僕は別に反共主義者ではないので別にマルクス主義の影響を受けててもそれが妥当である場合支持します)。という以上のような考えがラディカル派の中には(というより「僕の中には」だね)あるから、前記のような主張をするのです。

    さて、しかしこの論争にはこのような表の争点の他に、もう一つ裏の、言及するのが憚られる様な(というのは僕の妄想かもしれないが)争点がありました。それはふんどしの幼女を見かけたとして、それでオナニーをするのは許されるのか?という争点です。
    山笠問題についてリファがいっぱい来てるけどアンテナライフ☆星乃だーつのらくがきえにっき♥
    理想としている社会が異なる以上、何を書いても平行線にしかならないような気もします。「締め込みじゃなくても山笠文化は失われない」とかそんな話はどうでもいいんですよ。俺らにとっての文化は「ふんどし幼女でオナニーすること」なんだから。

    (略)

    全ての人間は存在することによって性的に欲求され常に犯されているんですよー。
    という意見です。この人はつまり「お前らが幾ら嫌がろうが、俺達はふんどし幼女でオナニーするのを止めない!」という考えなのです。というより
    山笠ポルノ騒動
    変態なんて行くトコまで行ったら石にだって欲情すんですけど。私は花のつぼみで勃起したことあるぜ! そんなに何でも規制したかったらイスラムみたいに黒い布かぶって暮らせっつーの。 (滅)たんも書いてますが、「君が黒い布をかぶっても私はハァハァすることをやめない!」
    という文を見るに、あまりふんどしは関係ないのかも知れません。

    確かにこの人の意見は極めて乱暴です。しかし一方で現在の性社会(僕がさっき作った造語、現在のこの社会は生殖、つまり性を基盤になりたっています。その事を明確にするために作ってみました)は、この様な事(つまり「俺達はふんどし幼女でオナニーする」事を認めるということ)を元に成り立っているのもまた事実なのです。そしてそれは内心の自由という仮の姿で表には姿を出している・・・

    例えば、もしある女の人が自分の裸の写真をA氏によってばらまかれたとする。そしてそのA氏に写真を押しつけられたB氏がついその写真でオナニーをしたとする。写真をばらまかれた女の人は当然A氏を憎しみから訴えるでしょうし、それに対しては罰する法律もあります。

    しかしではその女の人がA氏の供述からB氏が写真を持っていたことが判明し、そしてB氏を女の人が問いつめた結果B氏がその写真でオナニーをしたという事が判明し、そしてそれにより女の人がB氏を憎しみから訴えたらどうでしょうか?はっきり言うと合法的にその人の憎しみが解消されるようなことは殆どありえないでしょう。まず第一に、その人は別にその写真を手に入れたくて手に入れたわけではないし、第二に、その女の人に問いつめられる前は彼はそのようなオナニーをしたという事を一言も話しては居なかったからです。つまり簡単に言うと、彼はその女の人を故意に傷つけようとしたたわけではないし、彼がオナニーをしたのは彼の内心の範囲だったため、彼は処罰されないのです。

    しかしそんな事いくら言われようがその女の人は納得いかないでしょう。例えその人に犯意が無かったしても、その人が私(=女の人)を傷つけたのに変わりはないのです。そもそも犯意の有る無しがどうしてB氏以外の人間に分かるというのか?何故彼に私でオナニーをする権利を認めなければならないのか?彼は私をオカズにオナニーをした。それで十分罰する理由となるはずなのに・・・しかしもしその女の人がそのB氏をぶん殴ったりしたとしたら、その人は「フェミナチ」などの言葉で馬鹿にされ、その殴ったという罪で女の人が罰を受ける事になるのです。

    これが内心の自由の真の姿なのです。この件ではたまたま女がその内心の自由に打ちのめされた例をあげましたが、しかしこれは男がなる場合だって十分ありえます。何故か?これは女と男の間の格差が原因ではなく、むしろそれは、存続の為に生殖を必要とする性社会そのものが関わってくるからです。

    例えば、「性欲は本能であるから、男の子はこれを抑止する事は出来ないので、女の子はあまり男の子を刺激してはいけない」これが現在の性教育のコードです。もちろん一方ではジェンダーフリーについて触れたりもしているのですが、しかしそれにしたってジェンダーとセックスを分離して教え、「セックスは本能である」という事を言います。

    もちろんこれは大きな間違いで、例えば僕は男の子ですが、相手が大胆な格好をしているから興奮するとかそういう単純なものではないんですね。性的な興奮には(オナニーをしてる場合には)2種類有り、まず最初に単純に局部の刺激を受けたから興奮するというもの、これに関してはシンナーとかみたいな薬物と同じ様なものなのですから、もちろん女性の格好なんて全く関係有りません。次に相手が自分を好きと思っていて、その為に服を脱いでいるだの物語を構築するのがあります。そしてその物語構築の方法や責任は、ただその構築者、つまり僕独自にあるのです。例えばここに裸の女が立っているとする。しかしその時僕がもし「この人は風呂から出てきたばっか何だな」と解釈すれば、その人には性的な興奮はしませ
    ん。そして次に、例えばここにロシアの防寒着みたいなもの凄い厚着をした女の人が立っているとする。しかしその時もし僕が「ああ、この人はロシアからわざわざ僕が好きで会いに来たんだな」と思えば、僕は性的興奮を感じるだろう。これはあくまで「もしも」の例だと僕は言うが、それが本当か嘘かは誰にも分からない。何度でも言うが、自己の解釈・価値観というのは絶対に他者には分からず、他者の解釈・価値観は絶対にその他者以外にはは分からない。つまり簡単に言うと「男(に限らず全ての他者はそうなんだけど)は何考えているか分からないから近づかない以外に暴力を予防する方法は無い」のだ。

    だが、そのように欠陥のあるジェンダーフリー教育でさえも、それを否定したがる連中かいる。例えば東京都なんかはジェンダーフリーを否定するどころか男女混合名簿まで禁止するし(この件に関しては都教委各位、名簿とは目的に合わせて作るものです。kojidoiの非公正ブログの文を見ればそのおかしさが一目瞭然だろう)、荒川区なんかでは男女共同参画社会基本法から逸脱する条例が、あと一歩の所で作られるところだったのだ。

    このような動きは主にジェンダーフリー推進派によれば「石原みたいな保守派と統一教会みたいな宗教右翼の結合によって生じているもの」とする見方が一般的だが、しかしその様な特殊な人々の力だけでこの様な事が生じるだろうか?大体石原都知事にしたって統一教会と癒着している国会議員にしたって、それを選んでいるのは(なかなか皆さん認めたがらないけど)普通の市民なのだ。つまり、問題は普通の市民と、彼らが所属する社会そのものにあるのではないか?

    前に異論の方でも述べたが、社会の存在目的とは即ち自己存続であると僕は考えている。では社会の存在には何が必要か?それは人間である。つまり人間という種を存続させるという事が社会にとっては必要不可欠なのだ。そしてそれを存続させる為に、社会は「人間に限らず全ての動物は自己の種を残そうとする本能を持っている」という普遍の法則というものを信じ込ませたのだ。

    じつは僕にはネットで色々な意見を読んだり本を読んだりするときにいつも不思議に思うことがある。何故そこまで皆さん人類という種を未来に向けて保存したがるのか?例えば環境問題についてのテクストをぱらぱらと読んでみると、そこには必ずこんな一文がある。「この美しい地球を、未来の私達の子孫にも残せるように・・・何故未来に私達の子孫がいることが前提となっているのか?僕には分からない、もし未来、この地球が高い確率で酷い状況になるのが分かっているのならば、子供を産まなければ良いではないか。

    そしてこれは環境問題についてだけではなく、他の殆どの問題についても言える。例えば良く統一教会みたいな反共・反フェミニズム派の人達はフェミニズムや共産主義に対して「社会を破壊する思想だ!」という煽り文句を放つ、それに対して共産主義者やフェミニズムの人達は「いや、それは違う、むしろこの様な思想を選択しない限り社会は生き残れない」という事を言う。だが、何故そこまで社会破壊思想のレッテルを恐れるのか?僕なんかは一度で良いから自分の思想を社会破壊思想であるということを言われてみたいと思うし、また、僕の思想は最終的にはそのような思想にならなければならないと思っているのだが、しかし多くの人にとって、それは全く考えも付かないような事らしいのだ。彼らは言う「人間というのは社会的動物であり、もし社会が崩壊したら人間という種は存続できなくなる。その事を私達は恐れているのだ。私達が人間という種を存続させたいと思う理由は本能である」と。

    だがそれが嘘であることは明白だ。そもそも人間という種を存続させるなんて事は人間という枠組(僕はそんなもの幻想だと思うが)を手に入れなければ出来ない、とても高度な思想だ。思想は遺伝する訳がない。「セックスの時に気持ちいいのがその証拠だ」とあなた達は言うかもしれない。だがその気持ちよさは本当にセックスでしか得られない物か?確かにもし知能が無い動物ならば、セックスの快楽の分析も出来ずに、相手とセックスという行為をする=快楽という単純な式が出来上がり、そしてその為にセックスをする、だが私達はオナニーを知っているではないか?オカズの無いオナニーでも幼児は十分気持ちよくなる。幼児で満足できたものが大人で満足出来ないというのは明らかに本能以外のものの仕業だ。つまり、セックスをするのは本能ではなく、本能を満足させる為の1つの手段でしかないのだ。そしてそれ故に、自己保存ですらも目的ではなく手段となる。

    (ちょっとここで1つ注釈を挟むと、僕は別に人間は本能に従属すべきと言っている訳ではありません。むしろ僕は本能から自己を解き放つことこそ、すべき事だと思っています)

    「今地球上に居る生物は全て種の保存を目的としているではないか」という事もあなた達は言われるかもしれない。だが、それはあまりにも近視眼的的だろう。種の保存を目的として種は誕生するのではない、種の性質が自己保存である場合、その種は続くのだ。

    例えば、もし生殖能力が無く、例えセックスをしても快楽を感じないという変異が生じた動物が誕生したとしよう。種の誕生とはつまり突然変異によって今までの先祖と性質が異なってしまうことなのだから、それは明らかに新しい種の誕生だ。だがその様な種は生殖が出来ないのだから、その動物が死んだ場合その種はもちろん絶滅してしまう。だがそれにしたってそのような種は存在しえたことは事実なのだ。種が一代限りで消えてしまったことと、種がそもそも存在しなかったというのでは、確かに見た目ではそんなに違いはないが、その意味ではとても大きな違いがある。

    現在生息している生物の殆どありとあらゆる種は確かに生殖をする。だがそれは必然的ではなく、あくまでそのような性質を偶然持ったという事に過ぎないのだ。生殖をすれば快楽が生じるという性質がである。種にとって自己保存とは生きる目的ではなく生きた結果だったのだ。それを目的にしたのは人間が持っている本能以外のものである(あえて「理性」とは言わない)。

    えーと、何の話をしてたんだっけ?あー、そうだ。性社会を流れる原理としての性欲肯定論か。

    さて、そんな風にして性欲だって本能で無いことは証明されたのですが、しかし僕は別に本能ではないからそれを否定しようとしているのではありません。問題はその性欲原理の下で苦しみが生まれるという事なのです。

    もう一回「ふんどしの幼女を見かけたとして、それでオナニーをするのは許されるのか?」という問題に戻りましょう。そのような事は社会的に許されてしまうというのは前述べたとおりです。しかしじゃあ本当にその様なことをそのオナニーのオカズにされた人は許すべきなのか?

    僕は「許すべきではない」と思います。そしてオナニーのオカズに彼女たちをすることを認める社会に対し、オナニーのオカズににされた女の子達がその苦しみの文、オナニーをした人間に報復することを認めます。オナニーのオカズにされるというのはどんなに取り繕うと暴力なのです。それこそてぃるる氏の言うように
    そしてその盗撮ポルノを見ながらぺ○スをしごいてマスターベーションしている変態野郎どもの姿
    はやはり被害者視点に立てば、嫌悪して当然のものだと思います。

    しかし何故そのような行為は嫌悪されるのでしょうか?盗撮だから?相手が変態と呼ばれる人だから?いいえ違います。自分のイメージが他者の内部で汚らしく消費されている、その事そのものが激しく嫌悪される事なのです。ですからこれを差別を助長するとか言う人には深く熟慮して貰いたい。何故なら差別というのは前に異論で書いたが「異質さの発見」ではなく「同質さの発見」なのであり、そしてこの嫌悪は、自分のイメージが他者の内部で汚らしく消費するという事を称賛する性社会そのものに向けられる。自己独自のものなのですから。

    自分のイメージが他者の内部で汚らしく消費される。これは決して特別なことではありません。むしろコミュニケーションが不可能であることが分かっていながらコミュニケーションを行う社会に於いては、それは当たり前の様に行われることなのです。そして僕も多分に行っている・・・

    例をあげましょう。昔(というか保守派の間では今もなんだけど(w )信じられていたことに「ジェンダーフリー教育の一環として男女同室で体育着への着替えが推進されている」という噂が流れました。もちろんこれは悪質なデマで、むしろその様な尊厳を無視した行為はフェミニズムによって批判されるものです。しかし一方でこれを聞いたとき僕はこうも思ったのです。「確かに男女同室で着替えというのは絶対にやってはいけないことだ。だけれどじゃあ男女別室なら集団で着替えしても良いというのはおかしくないか?」と。

    どういう事なのか?つまり僕は男女問わず、集団で着替えをすることそのものがとても嫌なのです。人が僕の肉体を見てあれこれ想像(決して卑猥なことではなく、「あいつ太ってるなぁ(痩せてるなぁ)」とかそういうことね)すること。それを僕は嫌悪というか恐怖というかそんな感覚で捉えていたのです。

    しかしこれは集団で生きることを教えようとする学校ならば当然のことなのでしょう。いや、学校だけではない、家、地域、会社、そして社会において、私達は他者から想像される存在であることを強制されています。何に強制されているのか?それはまさに「人間は一人じゃ生きていけない」というその思想でしょう。その思想は古代ではポリス、中世ではキリスト教、近代では民主主義、ソ連では共産主義、中国では儒教、そして日本では戦前に教育勅語、戦後には成長神話という形で表層に現れていたのです。そして深層にあるのは社会の「自己存続」に他ならない。

    これに対してそこに生きる人間はどう対処してきたのか?その答は今まで1つしかありませんでした。「ごまかし」です。
    少し前、少女漫画の性表現の過激さが話題になりました(まぁその裏には「少年漫画のエロはあんなに規制されているのに、何で少女漫画のエロは規制されないんだ!」というルサンチマン的感情があったと思うのですが)。ま、これを契機に少女漫画の性表現を法律で規制しようとするような馬鹿は少なくともネット上に居ないと思いたいのですが、しかしそのような法律による規制を行わないことを前提とした上で、この様な過激な漫画について「どうかと思う」というような意見を言うサイトは結構多かった気がします。例えば新條まゆなんかは「自分をレイプした相手を好きになってしまう」などという、極めて際どいテーマを書きますから、少女漫画板などでも結構批判されてます。が、その様な見解は余りに表層的でしょう。何故ならそこには「何故少女達がその様なテーマを求めるのか?」という視点が抜けているからです。

    例えば現在の少女漫画雑誌、それも低年齢向けの雑誌の売り上げランキングを見てみましょう。
    雑誌売上ランキングBIGNET
    1 ちゃお 小学館 12298
    2 なかよし 講談社 5417
    3 りぼん 集英社 5171
    と、この様にちゃおと他の雑誌の間で売り上げ部数が大幅に違うんですね。この現象の原因はそりゃ色々あると思いますが、しかし重要なファクターとしてあげられるのかちゃおは低年齢のなかでも割と低い年代にターゲットを絞っているという事です。現在はちょっと成長するともう漫画は卒業するというのが大多数なのです。何故か?何処かのニュースで「携帯電話代がとても掛かるから」という事が挙げられました(ソースは忘れた)が、まさにその通りでしょう。

    では漫画を読んでいる層・読んでいない層は一体どんな層なのか。1つ確実に言えることは「活動的でコミュニケーション志向な少女はそんなに漫画を読まないだろう、逆に言うと、いまいちコミュニケーションに乗っかれない少女が漫画を良く読むのでは無いだろうか」という事です。最近の少女漫画の性描写について調べたページのタイトルは「少女の夢見る性行為」というタイトルでしたが、それは決して「少女がする性行為」とは成り得ないのです。

    では何故そのようないまいちコミュニケーションに乗っかれない少女がそのような過激な描写を好むのか。彼女らは一体何を望むのか。それを考えるためには彼女らが抱えている事情についての洞察が不可欠だと僕は考えます。

    そもそも恋愛とは一体何なのか?本能で無いことは何度も言うように明白ですから。そこには色々なケースがあると考えなければなりません。が、僕はそこに2つのカテゴリーを感じずにはいられません。「生産を奨励する恋愛」と「生産を奨励しない宗教」です。これは橋本治氏が宗教なんかこわくない!という本で宗教について述べてるときに紹介したカテゴリーなのですが、僕はそのカテゴリーは恋愛にも援用できると思います。

    しかしここで重要なのは「生産を奨励する恋愛」=「産む恋愛」、「生産を奨励しない恋愛」=「産まない恋愛」では無いという事です。むしろ割合からいったら「生産を奨励する恋愛」の中で「産む恋愛」は極僅かでしょう。恋愛というのは例え出産をしなくても多くのものを生み出す場合があるらしいです(えー、どうせ伝聞ですよ・・・)。今の高校生の恋愛とかは殆ど生産を奨励する"軽い"恋愛なのでは無いでしょうか?彼らは簡単にくっつきますし簡単に別れます。しかも別れた後もそんなに暗くならず一晩大泣きしたぐらいでけろっと立ち直ってしまう。そんな恋愛が殆どらしいのです。

    それに対して生産を奨励しない恋愛は別れを通告するときには相手から包丁で刺される位の覚悟が必要な"重い"恋愛です。これなんかはそんな恋愛の極北のケースと言ってもいいでしょう。

    さて、そんな2つの恋愛がある訳なのですが、ではどのような因子によりそのカテゴリーは決まるのか。そこには恋愛の目的という物が関係してくるでしょう。つまり「社会内に入る為に」恋愛をするのか、「社会外に自分の場所を確保する為に」恋愛をするのかの違いか、そのままその恋愛が「生産を奨励する恋愛」となるか、それとも「生産を奨励しない宗教」になるのかの違いになるのです。これを理解するためにはそれぞれを代表する(と僕は思っている)2つの歌を見れば一目瞭然だと思います。
    今日までそして明日から-吉田拓郎うたまっぷ←生産を奨励する恋愛
    わたしは今日まで生きてみました
    時にはだれかにうらぎられて
    時にはだれかと手をとりあって
    わたしは今日まで生きてみました
    そして今 わたしは思っています
    明日からも
    こうして生きて行くだろうと
    茨の海-鬼塚ちひろ←生産を奨励しない宗教
    低空を滑る私の非力な強さ
    不快なロープが燃え落ちて行くのを見てた

    貴方の放り投げた祈りで 私は茨の海さえ歩いてる
    正しくなど無くても 無くても 無くても 無くても

    さて、そんな訳で生産を奨励する恋愛と生産を奨励しない恋愛について説明したのですが、しかし生産を奨励しない恋愛というのは実はとても難しいのです。何故なら生産を奨励しない恋愛というのは当然生殖を目的とする性社会と敵対するものですし、何より生産を奨励しない恋愛はそのもの自体に矛盾を孕んでるからです。

    生産を奨励しない恋愛が社会外に自分の居場所を確保するために行われると言うのは前に話しました。これは確かに正しいのですが、しかし一方で現実を無視した考えだともいえます。異論でも説明しましたが人間が社会的動物であるというのは僕は嘘だと思っている、が、しかしその嘘を語る人間が居る以上、その言葉は効力を放つのが現状です。ですからもし社会外に自分の居場所を確保しようと思うのならばその様な嘘を語る人間とどうしたって対決しなくてはならないのです。しかし生産を奨励しない恋愛はそれが上手くいっている場合は、社会を脱しているようには見えるけど別に社会に反抗してはいないんですね。何故その様な事が出来てしまうのか?それは簡単です。例え生産を奨励しないという壁で社会と自分達を隔てたとしても、そこではまだ「私」と「あなた」が居るのです。確かに「私」と「あなた」とそして「第三者」が居る様な社会とその様な2者の社会(というか社会と呼んで良いのかさえ僕には分からないが)は大きく性質が違い、それは1970年代風の言葉で言えば「共同幻想」と「対幻想」の違いなのかも知れませんが(といっても僕はこの辺の知識は全く無いので突っ込まれると困ります・・・)、とにかくどっちにしろ「幻想」である限り、脱するという行為(というか「脱している」という事自体幻想なんだけどね)には繋がるかも知れませんが反抗するという行為には繋がらないのです。幻想の中でぬくぬくと生きていれば良いんですから。

    しかしそれは例え短期的には出来たとしても長期的には必ず破綻します。そもそも社会のもたらす幻想と恋人のもたらす幻想、2つの間にそんなに根本的な差異があるのでしょうか?結局どちらもその内部で自己が汚らしく消費するという点では全く変わりませんし、コミュニケーションを信じなければやがて破綻するという所も全く同じです。もしこの破綻(しかしこの様な恋愛が破綻を迎えると大変危険な状況に陥ってしまうらしんだけどね)を避けようとするならば、答は1つしかありません。答は「生産を推奨する恋愛」に自分達の恋愛をシフトするのです。

    しかしそもそもそんな事が出来れば最初から「生産を推奨する恋愛」を選ぶわけで、それが出来ないのが問題なのです。そこで彼女らはマンガという虚構の二次元メディアを使うのですね。虚構ならばどんなに矛盾があったとも描かれなければそれで済むのです。少女コミックの過激性表現を売りにした漫画は良く「心理描写が浅い」と言われますが、それは必然的なことなのです。だってもし心理描写をより精密にやったり何かしたら、それこそ矛盾がわらわら出てくるのですから(それこそヒロインが処女であるという今時絶対あり得ないような設定のエロゲーをしている男どもと同じかもしれません)。ですからあなたがもし、その様な描写の浅さを批判したいのならば、あなたはこう少女達から返されることを予測しなければならないだろう。「じゃああんたの言う様に描写が深くなったとして、それで私達は今まで通り救われるの?」と。確かにそれは「ごまかし」的な言葉だ。だが、その言葉に応える能力を持つ人間は、少なくとも性社会に対して何の疑念も抱いていない人間の中には一人も居ないのも事実なのである。

    しかしここてあなたは疑問に思ったことでしょう。じゃあ「生産を奨励する恋愛」の方は一体どうなのだろう?と。もちろんこちらも生産を奨励しない恋愛と同様に「ごまかし」なのであるが、しかしこちらのごまかしは生産を奨励しない恋愛よりも遙かに巧妙なのだ。それ故多くの人が生産を奨励しない恋愛の矛盾を明らかにしただけで「自分は『ごまかし』から逃れられた!」と勘違いし、見事に生産を奨励する恋愛に絡め取られていった。しかし生産を奨励する恋愛は確かに(「動物化」みたいな綺麗な美辞麗句にされようが)「ごまかし」なのだ。別にごまかしの元で生きようが構わないがそれを他人に推奨という名で強制するのはやめろ!(あ、結論を先に持ってきてしまった・・・)

    生産を奨励する恋愛をしている方々は前にも言ったように社会内に入る為に恋愛をします。要するに生産を奨励する恋愛というのは「自分はもう恋愛だって出来る年なんですよ」ということをアピールするために行われるのだ、ある意味ではブランド品を持つという感覚に近いのかもしれない。ブランド品を持つというのは色々な意味(例えば「そのブランド品のコミュニティに入る」とか「他者との差異(主に金銭上だね)を象徴化する」とか)があるのだが、しかしどれも結局は「他人に自分の存在を誇示」するために行われるものである。だが何のために?何故社会内に居るだけで十分ではないのか?その答えはそもそも社会が「自己存続」の為にエネルギーを必要とするという所にある。ただ人間が生きている、それだけでは社会はやがて存続能力を失い衰退してしまう。社会は常に人間が競争しなければ成り立たないのだ。もうお分かりだろう。恋愛もその競争の一種なのだ。自己をより強く誇示しようとする欲望は一体どこから出てくるか。それに答を見つけることは不可能である。何故ならそれは手段であると同時に目的でもあり、要するに手段を行使することが目的と化してしまっているのだ。これを幻想と呼ばずして何と呼べばいいのだろう?それを手放しさえすればもうそれを欲する必要もないのにそれを手放そうとしないのだ。

    これを「人生とは即ちそういうものだ」と呼んで肯定する人も居る。要するに人間というのは「生きる」という事が手段であると同時に目的であり、それが必然のだから、それに付随してくる様々なそれが目的と化した手段を拒否しようとしても、その「生きる」という事を拒否しない限りこれらは拒否できず、また生きるという事を拒否することは死に繋がってしまう・・・というのが彼らの言い分だ。だが、それは「生きる」ということの定義が多様に有ることを利用した悪質な罠だ。生物として生命活動をする「生きる」ということと、人間として「生きる」ということ、この2つは表面上は同じ言葉だが意味は全く違う。確かに人間は人間として「生きる」ことを目的とするのかもしれない。だがそれは生命活動をするのとは全く違う!生命活動としての「生きる」は別にそれほど脆いものではない、というかむしろそれは単なる「受け皿」と考えるべきである。人は受け皿のために生きるのか?いや違う、問題はその受け皿に何を載せるかなのだ。そこに載せるものが現在の「社会的動物としての人間」以外の何かであったとして、一体何の不都合があるのだろうか?いや、むしろ社会的で有るが為に自殺や過労死へと突き進んでしまう現代の人間(ま、昔もそういうことはあったんだろうけど)の視点からみれば、「社会的動物としての人間」の生き方が既に受け皿に収まりきらなくなっているのだから、それを他の何かと交換するのは絶対に必要なことだとも言えるのだ。

    さて、「ごまかし」の話しに戻ろう。恋愛とは他者から欲望されることの恐怖を恐怖と感じないために考えられたものだったのだが、しかしもともと出発点に矛盾(恐怖を感じているのに恐怖を感じていないとすることを指している)を抱え込んでいる「ごまかし」なために、この様に様々な部分がおかしくなっている。では何故私達はそのごまかしから逃れ、恐怖を恐怖と感じて嫌悪出来る様になれないのか?そこにはまたもや性社会の巧妙なシステムが潜んでいる。性社会は上記のような恋愛システムを使って本来他者から離れようとする人間をつなぎ止めている一方で、おかしな部分に気付かず(というか実質的にはおかしな所を特定の弱者にしわ寄せしてるだけなんだけど)、その恋愛システムのいよいよ中堅をしめる様になってきた人間に、社会システムによる人間の抑止という仕事を与える。それが「母性」、「父性」だ。次回はその事について話そう。

    (続く) http://home.att.ne.jp/omega/kojitsu/kaikan.htm http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C6%CC%E7%A4%BF%A4%DE%A4%AD