Rir6アーカイブ

2004-12-30


[思想]「動物好き」からの手紙

ペットを捨てるぐらいなら食べる?元祖しゃちょう日記より

理解したくないことを無理矢理理解させよう(orしよう)とするなら、それなりの覚悟が必要な訳だが、どうも覚悟が無いままに安易に理解したような振りをする人が多いような気がする。

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「動物好き」といいながら、ペットショップで動物を買う人は信用できないと思っています。

ペットを買う人がいるので、ペットを売る仕事が生まれて、ペットを安く大量に作る業者が出てくるわけです。

そして、ブームが過ぎたり、成長して商品価値が無くなると裏で処分されるわけです。

(略)


保健所で処分しないで、「ペットを捨てることが出来ないから食べた」という人がいたら、おかしな人だと蔑んだ目で見られると思います。

でも、食べた人は本当におかしいんですかねぇ?

飼えなくなったときには、他に飼い主を探すか、捨てるか、埋めるかしかないわけで、食べることで命をもらうという考えもありな気がしたりします。

なんてことを書いても、「動物好き」な人には理解されないんだろうなぁ、、と思う今日このごろです。

理解したくないことを、理解してもらうってのはなかなか難しいものですね。。

参考:ペットブームの陰に

私はこの文章の「命をもらう」ってどういう意味なのか全く分かりません。というのも、この文章は一方では「動物好き」、つまり動物の命と「私」の命に全く差異がないという視点からペットショップを批判しているにも関わらず、しかしその一方では動物の命と「私」の命はやっぱり違うという視点に則り、ペット食の肯定をしているからです。

どういうことか説明しましょう。もし私が「動物好き」の視点に立つ(*1)としたら、「動物の側からしたら例え処分されようが飼い主から食べられようが嫌なことには変わらない」ということに気付くでしょう。だってそうでしょ?例えば急に他人に「俺は今からお前を殺す。でも安心しろ、その後俺はお前を食って俺の命にするから」とか言われたらあなたは殺される事に満足します?する訳が無いですよね。それと同じ事、ペットを殺した後、幾らその殺した人間が供養しようが食おうがそれはその人物の単なる自己満足なんですよ。そしてもし動物の命と「私」の命が等価という視点に立つならば、その行為は全く同じ価値の物の間で不平等が存在しているということなのですから、全く許される訳が無い事になるのです。

ではもし僕が「私」の命が動物の命より貴重なものだと考えたら?(*2)その様な立場に立てば、そもそもペットショップを批判する根拠が消滅します。だってその様な考えならば、「私」の自己満足が何よりも優先される訳で、例え動物が何十万も死のうが、「私」が死ぬわけないのですからどうでも良いのです。最もそういう人がペットを飼うとは思えませんが・・・

まぁでもそういう視点に立つ人も結局は「『私』の満足は社会との関係の上に成り立っているから」とか言ってペットを飼うんですけどね。でもそう言ってしまった時点で実は「私」なんて無いという事が明らかになってしまうんですよ。何故なら「私」が存在する根拠なんて突き詰めれば殆どの場合「『私』が『私』のみで満足している」というところに行き着く訳で、もしそれが嘘であると分かったら「他人と違う『私』」なんてものは音を立てて崩れるんです。

で、それががらがらと音を立てて崩れているがまさに今な訳で、それを乗り越える為に「『私』とは即ち『セカイ』である!故に『セカイ』の満足が『私』の満足であり、かつ『私』は存在している」というテーゼが今社会を包み込もうとしている訳です。

何か話がずれている様に見えますが実はずれてないんです。というのもこの文章は結局そのテーゼのもとに成り立っているのですから・・・

つまりですね、この文章は上記で述べたように「動物好き」の視点からも、そして「自分好き」の視点(*3)からも「おかしい」となる訳ですが、しかしこれを容認するただ一つの視点が存在するのです。それがつまり「セカイ好き」というテーゼです。つまりこの点に立てば動物が死ぬ事は「セカイ=私」の不幸となり、そしてこの不幸を解消するためにペットショップ批判が出来ます。そしてペットが死んでもそれは「セカイ=私」の一部の喪失な訳ですから、それを食べる事により「セカイ=私」は回復し「セカイ=ペット」も満足すると、そういう解釈が出来るのです。

で、僕は思うのです。実は世の中の言説って殆どがこのテーゼになろうとしているのでは?と。実際紹介している記事の様な言説は増えています。例えば「もし世界が百人の村だったとしたら」とかもこの種の言説でしょう。前にも記事で書きましたが、もし本当にアフリカとかにいる飢餓の子供を可哀想に思うんなら今すぐ死ぬorテロをするべきなんですよ。あなたやテロの犠牲者が死ぬ事により先進国の発展途上国からの搾取がその分減るんですから。でもそのような最終解決策をそういう言説は絶対に提示しない。「小さな事から始めよう!」とかそういうことを恥ずかしげも無く言える。あんたが小さい事をこつこつ始めている間にも人はどんどん死んでるのに・・・・

最近「命の教育」とか言って豚の死体とかを見せている学校もあるそうですが、果たしてその行為の意味を本当に教育者は分かっているのでしょうか?その「現実」は本当は人を死に至らしめる程の効力を持っているのです。私たちの精神は「現実」を受け入れられる程強靱では無いのですから。ま、分かってやっていたら別に良いと思いますが、しかし殆どの教育者はただ単にそれを「死という物を理解し、人を殺さない&自殺しない子供を育てる為のツール」という程度の認識しか持っていないでしょう。その教育を受けた後の道筋は二つしかありません。「死ぬor人を殺す」か、「『人』であることを止め、『動物』となる」の二つです。そして学校は後者の道筋に行くよう仕向るのです(長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(9)動物化工場も参照">*4)。

兎に角、もう「俺は自分が他者の命を犠牲にしているのを知っているから善人だよ」とか思い上がるのは止めにしませんか?「他者の命を犠牲にしていることが『生きていく』ということの障害にならないもの」はもはや「人間」ではありません。「獣」です。ですから、私たちはこの問題について結論を未だ出せる訳が無いんです。このことについて考え続けるということ。それが唯一の人間の存在証明では無いでしょうか?



何が「考え続ける」だか・・・結局「考え続ける」なんて結論を出せるんだから、「人間」ではなく「獣」じゃねーか(わ


*1: というか実際そうなんだけど

*2: どっからそんな考えの根拠が出るのか全く分かりませんが

*3: つまり動物の命と「私」の命はやっぱり違うという視点のこと

*4: 長崎・佐世保小6女児カッター殺人事件について(9)動物化工場も参照