「私」という嘘(id:rir6:20050209:1113809653)のコメント欄
essa wrote:ということで、ちょうど僕も朝日新聞記者のコメントスクラム問題について記事を書こうとしていた所だったので折角だから取り上げて見る事にします。こちらでも、私に対する厳しい批判があって、論点に通じるようなところがあるような気がします。できたら、これについてコメントをいただけないでしょうか?
「言説のフォーマット」という権力とそれにともなう責任@圏外からのひとこと
なにもアレントを持ち出さなくてもね@小さな目で見る大きな世界
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まず「圏外からのひとこと」の記事から
「記者ブログ炎上」というネーミングはよくないと思う。記者さんが口を塞がれたならこれは全然違う話で、私は人が言葉を発することを封じることには断固反対だ。この文に対して「小さな目で見る大きな世界」は次の様に反論しています。しかし、この事件では、記者さんは反論する場を奪わたわけではなくて、自発的にブログをおやめになっただけだ。「炎上」というネーミングには、その記者さんが言葉を発することに対する憎しみがこめられているとは思うけど、その憎しみは物理的な暴力でなく、あくまで言葉によって表現されたわけです。
(略)
「これを読んでくれ」という言葉をたくさん送ることは何も問題ない。それを相手に読ませたいと思ってしたなら全く問題ないことだ。もちろん、その中のどの言葉に答えるのかも記者さんの自由だ。その選択によって、暴かれてしまう「who」というものがあるとは思うけど、記者さんがブログをやめたことも非難しようとも思わない。
それが言論というものだと思う。
それに一定のフォーマットというか規制をかけて、「これがあるべき言論、これはダメな言論」とか「これが許される言論、これが許されない言論」と区分けするなら、その区分けによってはじきだされる言葉に思いをはせるべきである。
例えば、何か高学歴っぽい言い方じゃないと言論と呼べないと言うなら、低学歴の人は言論に参加できない。高学歴っぽい難しい言い方ができる人は、低学歴の人の言葉を代わって引き受けるべきだ。それができてないから、2ちゃんねるに厨房がはびこるわけで、高学歴の人は、そのことを真剣に受け止める義務があると思う。
憎しみにあふれた言葉しか出せない人には、それ相応の理由があるわけで、自分がそういうポジションに置かれてないのをいいことに、言論から憎しみを排除するなら、最終的には暴力を甘受するしかない。
罵詈雑言は民主主義の原点です。
(略)という事なんだけど、うーん、確かにちょっとこの前の「私」という嘘(id:rir6:20050209:1113809653)と似た様な形式がある気がします。essa 氏の論の無理のある(と私が思う)ところは言論の場を金網デスマッチのようにノールールなものと規定しながら、一方で言論弱者救済のようなことを言うところだ。
(略)
言論の場に無批判の絶対的自由を与えながら、その人の属性があらかじめ言論のありようを規定するならば、それはもう絶対的自由ではないし、しかも属性を明らかにしてもらわなければならない。
唸らせる文章を書けるロジカルな人がすべて旧帝大・有名私大卒ではなかろうし、逆にそうした高学歴な人が対話の可能性のある文章を書く(or書ける)とも限らない。
現れたものがすべてであって、言論の場の絶対的自由を言うのであれば、くだらない文章はくだらないし、礼儀知らずは礼儀知らずである。属性は関係ない。
(略)
言論のあるべき姿というものが言論によって模索されている限り、それは言論の自由であるし、もしそれが何かしらの言論を排除するということであれば、何かしらの言論を排除してはならないとするのもまた言論のあるべき姿を模索する言論の排除である。
(略)
憎しみにあふれた言葉しか発せられない人にそれ相応の理由があるならば、それを聞けない人にもそれ相応の理由があるのであり、罵詈雑言に対して罵詈雑言を返すのも言論の自由である。
(略)
罵詈雑言が民主主義の基盤?
言論はそういう意味では民主主義ではない。
罵詈雑言は罵詈雑言であって、そういうものとして処理されてゆくしかない。
つまり、今回の朝日新聞記者のBLOGに対するコメントスクラム事件に対してessa氏は「例えあの様な、集団で一つのブログに洪水の様にコメントを浴びせかける言論であっても、それは彼らが『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達で有るが故にそういうことになったのだから、その言論様式そのものを批判するという事は、その様な『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達の言論の自由を奪う事となる。もしそれをするなら『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達の言論を代弁しなければならない」と言い、それに対して「小さな目で見る大きな世界」のstandpoint1989氏は「『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達に対する批判だって言論なのだから、それを批判することに対し、『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達の言論を代弁しなければならないという様な制限を掛けるのは、『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達に対する批判をすることによってしか言論を構築できない人々の言論の自由を奪う事になる。第一、『洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない』人達なんて本当に居るのだろうか?」ということを言ってる訳だ。
で、この論争の面白い所は両方とも相手側の言説を「言論の自由を奪う事になる!」という風に批判してるところに有るところだと思う。つまり両方とも「言論の自由」が重要なことは認めてる訳だ。にも関わらず二人の論は対立してしまう、これは一体何故なのか?
しかしここで一つ見落とされてる点が有る訳ですね。それは「『言論の自由』って一体なんの為に存在するのか?」ということです。別に双方とも「言論の自由」がとても重要だとは言いつつも、しかし至上命題(僕は思う。">*1)にしてはいないんですね。結局どちらも「言論の自由」によって「何か」(*2)が得するからその「言論の自由」は重要なんだと思ってるのです。ですから、双方とももしその「何か」に対して「言論の自由」が刃向かってきたときは言論の自由を一時的に停止させてでも「何か」を守らなければならない(*3)と考えていて、で、その「何か」というものが双方全く違うものであることが、双方の論が同じ事を目指している様に見えながら対立してしまう原因なのです。
まずessa氏の「何か」、つまり至上命題は、前回の記事でも言いましたが「私たち」=「(関知出来る範囲の)(*4)世界」なのだと僕は思います。つまり色々な人が色々の立場から「どうすれば世界が良くなるかな?」ということを妨げない為に言論の自由は存在するのであって、それ故essa氏は「洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない」人達も「どうすれば世界が良くなるかな?」と言う事を言っている訳だから当然守らなきゃならない訳なんだけど、でもそれに対する批判ってのは言論様式という「世界」にとってはどーでも良いことな故、「言論の自由」を一時的に制限して、「洪水の様な形でないと言論を発表する事が出来ない」人達の声を批判した人が、その声を代弁しなければならないと考える訳です。
それに対してstandpoint1989氏の至上命題はやはり「私」なのですね。「私」から発言することが最も重要なわけであって、「私」が言論様式を批判するのも当然「私」からの発言だから認めなきゃいけない。しかし例えそれによって「私」以外の他者の言論が制限されたとしても、それは他者の言論だから「私」の言論には全く影響はない訳です。しかし「私」が他者の言論を述べると言う事は、「私」の口から出るもの(*5)の一貫性を失わせる事にも繋がる訳なのですから、それは「私」に対する侵犯にもなってしまう訳で、絶対に容認できない訳です。
まとめれば、essa氏の「言論の自由」というのは「世界の言論の自由」ですが、standpoint1989氏の「言論の自由」は「『私』の言論の自由」なのです。ただ、それを論争している当人達が言わないのは仕方がない事でもあります。このような「至上命題」というのは、それが「至上」なものであるが故、その「至上命題」を持っている人は、それを言葉で表すのが不可能だからです。何故なら、言葉というのは相対化の産物でありますから、「至上命題」を言葉で表すという事はつまり「至上命題」を相対化することと同義な訳で、しかし「至上であること」=「相対的で無い事」なのですから、そこに矛盾が生じてしまうのです。ですから僕も、あれだけ人の事を言いながら、自らの「至上命題」は言葉に表せないのです……
で、じゃあそんなふうに「至上命題」が違う人同士は、どんな風に意見を摺り合わせれば良いのかという事なんだけど、これが僕には分からない……別に共に生きるとかそういうのなら可能だと思うのですよ。僕はこの対立がやがて人類滅亡に至るとかそういうことを思ったりはしないんですね。これは別にあえて楽天的に考えてるとかそういうことではなく、ただ単純に多数決で今の世界では「生きたい」人が「死にたい」人より圧倒的に多いから、確かにこれからもこの様な対立による戦争は起こり続けるだろうけど、人類絶滅までには行かないと思うのです。だから、この種の対立は普通の人にとってはそんなに悩む必要はないと思うのだけど(むしろ普通の人にとっての問題は、この種の問題を無理矢理解決しようとして、ホロコーストを起こしたりすることだと思う)……何故か僕には問題なんだなぁ。(こことかに書いてるつもりですが、しかしその関係性は多分僕にしか分からないと思うから、別に皆さんは見なくても良いと思います。">*6)
さて、そんな訳で「朝日新聞記者のコメントスクラム問題」に対してはその人の「至上命題」によって受け取り方が違う訳なのですが、しかし僕はここでどうしても疑問に思う事が有るのです。それは「何で当事者の朝日新聞記者は沈黙しちゃってるの?」ということです。あのブログを書いているのは朝日新聞の記者な訳なのですが、記者っていうのはニュースを探して記事にするのが役目な訳なんですから、だったら今回のことを記事にすれば良いと、僕なんかは思ってしまうのです。
別に「中立な記事を書け」とかは言いません。もう圧倒的に朝日新聞記者寄りで、ブログにコメントしてきた奴らをバッシングするような記事でも良いんです(*7)。というか、むしろ僕なんかは下手に両論併記するよりそっちの方を望みます。幸い小倉弁護士みたいに朝日新聞記者側の味方をしてくれる著名人も居るのですから、記事にする条件は整っているような気がします。
僕はブログを閉鎖した事自体は特に何とも思わないんですね。ブログなんてのは所詮趣味の領域のものですから、それを閉鎖したって自らの立ち位置には何の問題も無い。ところが、その様な特異な行為があったのに、それを記事にしないということは、それは新聞記者の本分に関わること何じゃないのでしょうか?何てったって「新聞記者」ってのは本業なのですから……
上記の議論で「『言論の弱者』への配慮」が問題となりましたが、しかしやはり朝日新聞の記者っていうのは確かにブログ上では「弱者」な訳なのですが、しかし新聞の紙面では圧倒的な「強者」なわけなのですね、だったら、もし自分が弱者であるが故に負けたと思うのなら、強者になれる場所で闘うべきなんであって、もしそれが出来ないのなら、その記者さんは「弱者」な為負けたのではなく、単純に自分の言った論が自分で信じられなくなったから負けたということになると思います。それだったら別に助ける義理は無くなるでしょう。(もしかしたら新聞上でも「弱者」なのかもしれないが、それだったら新聞記者なんてもう止めた方が良いと思う……)
とにかく、今朝日新聞記者と同じようにコメントスクラムに苦しむ人達(朝日新聞記者と小倉弁護士しか目に付かないけど、実際名付けられる前から「コメントスクラム」的な行為は沢山ありました。と言うか実際僕もそのようなことをしてきたし、されてきた気がします……">*8)の為にも、そして記者自身の為にも、このことは是非記事にして貰いたいと思うのですが……やっぱ無理でしょうかねぇ?
(ちなみに、僕は朝日新聞記者の振るまいなどは論ずる価値があると思いますが、あのコメントを一杯付けてきた人達は、もはや真面目に論ずることは出来ないと思っています。殆どが所謂「名無しさん」かその類の人たちで、要するにゲームに参加している様な感覚で相手の揚げ足を取ってるのですから、これはもう真面目に応対する方が馬鹿を見るのでは無いでしょうか?そういう輩は削除したりすることによって「相手にして貰える!」と思ってつけ上がるのですから、そういう輩がコメントを書き込むのが嫌なら無視してれば良いのです。僕は別にもはや嫌という感情すら沸きませんからついつい応答してしまうんですけどね)
*1: ここで言う「至上命題」とはつまり、「この世界の全ての物は○○の為に存在している」という文の、○○に入れられるもののこと。それに対して「そんなものねーよ、この世界の全ては無意味だ」と言ったのが実存主義だったわけなんだけど、でも「無意味」ってことはつまり「不条理」に繋がる訳で、じゃあ何にもルールが無いのに何で「無意味」なんてことが分かるのか?(「無意味」か「有意味」かと言う判断にもルールが必要ですから)と聞かれて、結局実存主義者は「実存」という、古来ヨーロッパ思想に脈絡と受け継がれてきた「私」を使わざる負えなくなったわけです。つまりその時点で結局また「私」=「実存」という至上命題が実存主義にも出来てしまった訳だ。それ故、現在「全ては無意味」などという選択は出来なくなっていることになるから、結局誰もが至上命題を持つ事になってるというのが現状なのだと僕は思う。
*2: =至上命題
*3: 「何か」の為で無いのならものは「無意味」=「無価値」になりますから、別に遵守すべき必要もなくなるのです
*4: 括弧付けした理由は、これ以外の世界、つまり「関知できる範囲の世界」以外の世界を原理上人間は考える事が出来ない故、あくまでこの様な文章上でしかこの括弧内は見えないからです。
*5: 当たり前だけど、「口」ってのは比喩です
*6: それに対する悩みはこことかに書いてるつもりですが、しかしその関係性は多分僕にしか分からないと思うから、別に皆さんは見なくても良いと思います。
*7: 何なら実際にコメントしてきた奴らのブログのURLを新聞紙上で晒しても良いし(わ
*8: 今は朝日新聞記者と小倉弁護士しか目に付かないけど、実際名付けられる前から「コメントスクラム」的な行為は沢山ありました。と言うか実際僕もそのようなことをしてきたし、されてきた気がします……