なぜ自分の首を絞めるのか@se acaboにコメント欄で返事を書こうと思ったのだけれど、「コメントは500文字以内にしてください」とか言われてしまって、そんな短文に分割したら10回も投稿しなきゃならなくなるのでこちらで記事を投稿してTrackbackを打つ事にしました。基本的に人権擁護法案について、あるいは「戦略的」ということをより僕的にかみ砕いた内容と、あとHate speech は存在するか@Dead Letterの僕なりの解釈です。
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確かにこの法案に反対しないということが「自分(達)の首を絞める」ことに繋がるというのは良く分かるのです。だから、「四の五の言わずに反対のメッセージを掲げるべきだ」というのも全く正しいことだと思うのですね。ただ、僕は正しいことが"結果として"正しくないことを産んでしまう、そういうねじれがもしかしたらこの問題に於いては生じてしまうのではないか?ということを恐れてしまうのです……
「今から僕は「バイアスが無い」というバイアスで物事を見ます」という宣言の直後に、「日弁連やアムネスティが反対しているのは問題ないが、こいつら(2ちゃんねらの一部を指している)が反対しているのが問題だ」と書いてあるのはギャグなのか。その判断がバイアスに基づいていないとしたら、何に基づいているのか。えーと、これはちょっと僕の説明不足で、「『バイアスが無い』というバイアス」というのは、要するに「株式市場において、どのような事をすればある株が高くなって、別の株が下がるか」とか、そういう風なことを現在の世論状況に当てはめるという意味なのです。つまり、株=世論勢力(「護憲派」とか「親米派」とか「嫌韓派」とかそういうもの)とみなして、一旦その世論勢力から「思想性」とかそういうものを抜き、純粋なパワーバランスから考えて、自分の行動はどの株(=世論勢力)の値段(=その世論勢力の規模)を高く(=広げる)するかということを考えてみよう。ということなのです。もちろんこれだって、様々なそれぞれ違う人々をある勢力ごとにカテゴライズする訳で、そういう意味で「バイアス」は掛かっているのですが、しかし「思想性」を考えに入れないでパワーバランスのみにおいて考えるという点で「バイアス」が掛かってない、その様な点から、「『バイアスが無い』というバイアス」という言葉を使ったのです。
もちろんその後に、そのような思考によって得られた結果を、再び思想性溢れる「私」の思考に戻して、「僕の思想と近い世論勢力が得する行動は何か?」or「僕の思想とは遠い世論勢力が損する行動は何か?」を考え、その行動を選ぼうとするのだから、結局どんな風に行っても「バイアス」は掛かってしまうのですが……
自分は日弁連やアムネスティをある程度は信頼している。一部2ちゃんねらの言動を嫌悪する。だがそれと人権擁護法案に反対するかどうかは全然別の話だ。今の人権擁護法案がもたらす害を、嫌悪する連中と同じ主張をすることの苦痛ないし屈辱より低く見るなら、そうすればいい。もう一度言うが、自分は真っ平ごめんだ。うーん。別に僕は「嫌いな奴らと同じ主張をしたくない」という情緒的な理由だけから「反対!」と叫ぶ事に躊躇してるのでは無いのですね。例えば、もしこの「反対」という動きのエネルギーが、純粋に「法案撤退」という効果によって全て消滅してしまえば、別に僕も一切逡巡せずに「反対!」と書きます。
ただ、やっぱり現在の政治状況っていうのはそんなに単純じゃないと思うのですね、どういう事かというと。「世論勢力」が拡大する要因というのは、思想的に考えれば「その世論勢力が多くの人を幸福にする思想を持っているから」というものである筈なんだけど、それはやっぱり理想論で、結局は「その世論勢力の望む政策が幾ら実現されたか(その政策が本当に人々の幸福になるかは関係ない)」という要因が大きい訳ですよ。要するに人々は「強い方」に付いていくのです。
今現在この法案に反対している勢力は単純化すると「嫌韓+朝=国家統制主義=2ch極東+ハングル板」派と「人権」派(あえてこのような名称を使います。理由は後述)の2つな訳ですよね。ということはつまり上記の法則から、もしこの法案を止める事が出来たらこの二つの勢力が規模を拡大するという結論が(かなり強引だけど)導き出される訳です。
しかし「人権派」ってのはどのような世論調査を見ても確実に減少している訳で(「論座」が『必ず反転攻勢を』なんて言葉を表紙に出してますが、要するにそれは今まで負けっ放しだったという事でしょう←まだ中身は見てませんが……)、例えこの法案を止めて、勢力の規模がちょっとだけ大きくなったとしても、そんなに現実的に政策に関与する力が強くなる事は無いでしょう。でも、まぁそういう小さな所からこつこつやっていかないとどんどん下がっていくだけなんですけどね……
で、問題はどっちかというと(というより絶対的に)そちらの方ではなく、むしろ「嫌韓+朝=国家統制主義=2ch極東+ハングル板」派が、今でももう政府に多大な影響力を及ぼすまでに肥大している(何せ官房副長官があの人なんだから……)のに、それが更に大きくなるということなのです。彼らが本当はどういうメンタリティで、一体何を望んでいるのかはブログの記事の方に書いたので省きますが、その悪影響は日本の言論の自由が制限されることによる害より、"さらに"大きなものであると僕は考えるのですね。
故に僕は、心情ではもの凄く「反対」したいのだけれど、しかしその一方で「本当に反対して良いのか?」と考えてしまうのです。決して「嫌な奴らと一緒にものを言いたくない」という理由だけで逡巡してるわけではないことをご理解下さい。
あと一つだけ。この種の文章で「2ちゃんねら(ー)」という言葉が無限定で使われるのを読むたびに「一緒にするな!」と思っている2ちゃんねらーの数を、一度考えてみてはいかがか。「中国人は」「韓国人は」「左翼は」「新聞記者は」「先生は」「警察は」「政治家は」などのラベリングと同じことを、わざわざ行うことはない。「ラベリング」についてなのですが、確かに僕もBLOGを書く前は主に2ちゃんねるで色々言っていたので、「一緒にするな!」という気持ちは良く分かるのです。ただその一方で、こういう問題(つまり政治・社会ネタ)を考えるにおいては、「2ちゃんねる」(←この言葉が「政治・社会ネタ」の文脈で使われる場合は、その言葉の定義は「2ちゃんねるのニュース・社会カテゴリら辺の板」という風に自然と限定される。という考え方もあるようです。僕はそれはちょっと不親切だとは思いますが、しかしやっぱりある程度社会・政治ネタの文章を書いていると、一々「2ちゃんねるのニュース・社会カテゴリら辺の板」と書くのは面倒になってくるのかもしれません。)の中でも「2ちゃんねるのニュース・社会カテゴリら辺の板」では、「2ちゃんねらー」という言葉が一つの疑似共同体として機能している点にも注意すべきなのではないでしょうか?
確かにその様な板にもごく一部「嫌韓+朝=国家統制主義」ではない考え方を持っている人は居るかも知れません。しかし、多くの場合、その様な人は「外部の人間」として叩かれているのでは無いでしょうか?(「プロ市民認定」なんてのはまさに、その人が「普通の2ちゃんねらー」とは外部に居る人間だという風な認定だからね。)そして「外部」があるということは「内部」もある。もちろんそれは一部の偏狭な人達によって作られている砦な訳ですが、しかしそれに気付きながらもその砦に暮らしている人が「2ちゃんねるのニュース・社会カテゴリら辺の板」では殆どな訳ですよ。だとしたら、その様な砦が存在するという事を、その問題にかんして沈黙するという形で承認している人々は、幾ら言い訳しても、「2ちゃんねらー」という疑似共同体の中(今気付いたけど「共同体」なんてものは全て「疑似」なんだよね)で暮らしているということになるのではないでしょうか?それ故、彼らはみんな「嫌韓+朝=国家統制主義」派に属すると言われても、それは事実な気がするのです。
(しかし一方でそのように「外部」から「2ちゃんねらー」を観察する事が、また彼らの砦を強化させてしまうという悪循環に気をつけなければならないのも又事実。これを打破するには、やはり「内部」から「2ちゃんねらー」という砦を壊す必要がある。その点では、▼CLick for Anti War:http://d.hatena.ne.jp/claw/のやり方は割と良いのかも知れない……全く関係のない話だけど)
まぁ、要するに「2ちゃんねらー」という言葉の定義の問題だと思うのですよね。「2ちゃんねらー」を「2ちゃんねるを使っている人」という定義だと思っているなら、確かに「2ちゃんねらー」というレッテルを貼る事はラベリングとなるかも知れない。しかし、「2ちゃんねらー」を「『2ちゃんねらー』という疑似共同体の構成員」という捉え方で捉えるなら、一概に「『2ちゃんねらー』はみんな嫌韓だ!」とか言っても、そんなに重要な問題は起きない気がします。
これで僕の文への言及に対する答えは大体終わったと思うのだけれど、もう一つの「Hate speech は存在するか」という文とそれへの言及も面白かったのでちょっと口出してみる。ただこっちの文は、僕が書いた文ではない故多分間違った解釈で考えてると思います。ので、ご注意下さい。
まず最初に確認しておくと、多分Dead Letterさんもse acaboさんも
三権分立がほとんど機能していないという現状認識があるため、人権擁護法案に反対しているという点では同じだと思う。だけれど問題はその先なのだ。人権擁護法案が止められた後、じゃあ一体どんな風にすれば良いかと言う事。この点においてDead Letterさんは
ヘイトスピーチは原則不許容とし、今の三権分立をまともなものにして、何かしらヘイトスピーチを止める方法を考えるべきだと考えている。実を言うと、僕もこちら側。そしてそれに対しse acaboさんは
自由な言論をしたいのであれば、言論の自由は大原則としなければならない。「一般的な表現とは区別されるもの」など認めてはいけない。とする。つまり、ヘイトスピーチなどというものが例えあったとしても、それを規制することは結果としてヘイトスピーチ以外の言論も規制してしまうから反対。今の言論が自由な状況を維持しなければならないと考えている。
さて
自由な言論をしたいのであれば、言論の自由は大原則としなければならない。「一般的な表現とは区別されるもの」など認めてはいけない。それを認めたとき、その領域はいつか必ず恣意的に拡張され歪められ、自由な言論を阻害する。ということなのですが、確かに「自由主義」的な考え方でいくとそうなると思うのだけれど、しかし「これは『毒入り』だ!」と宣言したところで、毒は別に無くならないんだよね。ということはその毒によって苦しむ人は相変わらず居る訳で、そういう人のことも何とかするためにちょっとだけ原則を曲げてみようよっていうのがDead Letterさんの考えなのだと思う。ヘイトスピーチの有害さは、自由な言論を求める際には、当然認識しておかないといけないものにすぎない。もともとが毒入りなのだ。
どういうことかというと、「言論の自由」っていうのは要するに「人が何か言う事を妨げるのは止めよう」という、単純明快に見えるルールな訳だ。ということは誰がどんなこと言ってもそれは許されるということになる。でもじゃあ例えばAさんが「Bさんは口開くなよ、ウザイ」(ヘイトスピーチ)とか言ったら、Bさんが話しをするのを止めてしまったとする。つまりAさんの発言が原因となってBさんの言いたい事が妨げられたわけだ。よってAさんはBさんの「言論の自由」を侵害したことになる。よってこれは罰しなければならない。
でもそうするとAさんが「Bさんは口開くなよ、ウザイ」と言うことが、国家を通じて妨げられたことになる。Aさんは「Bさんは口開くなよ、ウザイ」と言いたいのに、それが妨げられたんだから。ここでパラドックスが生じる訳だ。そしてこのパラドックスを解決するために二つの国家政策の方法が出てくる。
一つは「Aさんが『Bさんは口開くなよ、ウザイ』と言っても、それは別に暴力を行使して強制した訳ではない。あくまでAさんの発言を受けてBさんが自主的に口を閉じた訳だ。よってAさんは無罪」とする考え。つまり、Bさんが口を閉じたのもBさんの自主性、言ってみればBさんの「自由」となるわけだ。この方法を、「自由主義」と呼ぶ。でも本当に人間にそんな「自主性」なんて存在するのか?そのことは、"僕は"疑問だと思う。
そしてもう一つは「言論の自由は結局何かしらの枠の中の自由である。つまり、いくら自由と言っても『Bさんは口開くなよ、ウザイ』なんて言う権利は無い。よってAさんは有罪」とする考え。つまり、「言論の自由」すら制限する枠を考え、そしてそれによってある程度行き過ぎた自由を抑制する変わりに、自由を万人に平等に配分する。これは、その「言論の自由」すら制限する枠が、結局共同体から来ている(「原則」以外の枠は共同体にしか作れない)のにちなんで「共同体主義」と呼ばれる訳だ。
(もちろん↑の文はどちらかというとこの件にかんしては「共同体主義」になる僕が作ったから共同体主義に有利に傾いている。ので、詳しく知りたい人は自分で調べてください。)
で、多分お分かりのようにse acaboさんは「自由主義」で、Dead Letterさんは「共同体主義」な訳だ(何か双方から怒られそうな分類だが、あくまで「この件にかんして」の分類だと、先に言い訳しておこう……)。だから
だからと言って彼らから喧嘩の手段を奪うことは、煎じ詰めれば民主主義の否定にほかならない。民主主義について論じ出すとえらいことになるので、ここでは「いい独裁制はいい民主主義よりいい。だが、ひどい独裁制よりはひどい民主主義のほうがまし」というとある小説の登場人物のセリフを引くにとどめたい。と書いているけど、この論争は「独裁制」v.s.「民主主義」というよりは、「自由主義」v.s.「共同体主義」と見るべきだと思うのだ。ついでに言うと、独裁制と民主主義は対立するものというよりはコインの表裏なのだと誰かが言ってました。ナポレオンもヒトラーも民主主義より生まれた独裁者なのだから。