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2005-03-15


[人権擁護法案]提案:「『人権擁護法案』廃案へ!」ではなく「『人権侵害救済法』制定へ!」と言ってみたらどうだろう?

という訳で、ここ数日僕を散々悩ませる(1)(2)なのですが、やっぱり「人権侵害だって言論なのだから、それを規制するのは嫌だ!だけどメディア規制は欲しいよなぁ。」と言う勢力と、「このような法律では人権を擁護することは不可能だし、メディア規制条項が、凍結されるとはいえ存在するのも駄目だ!」と言う勢力が、一見すると「『人権擁護法案』廃案へ!」で一致してしまうのって、やはりおかしいというか、双方にとって良くないと思うのですよ。

そこで僕はちょっと提案してみたいのですが、後者の勢力(つまり”人権擁護法案”討論場(仮設)旗旗でいう「社民系であり、『差別言論』は対処しなければならない」という考え。僕的には「社民系」というのはどうも納得いかないのだけれど)の方は、「『人権擁護法案』廃案へ!」と言うのではなく、「『人権侵害救済法』制定へ!」と言ってみたらどうでしょうか?「人権侵害救済法」というのは、つまり民主党・部落解放同盟側が「人権擁護法案」の対案として出している法案なのですが、この法案なら、後者の勢力が懸念している問題は払拭されると、素人考えでは思うのです(もちろんそれはつまり、前者の勢力にとってはより危険な法案になるということなのですが)。

「人権侵害救済法案要綱」(試案)検討シンポジウム(社)部落解放・人権研究所

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 まず、総論として、出発点はやはり「パリ原則」にのっとるべきだという点だ。

 第1に、人権委は、市民から信頼されるものでなければ作っても意味がなく、政府機関からの独立性を確保せねばならない。また、独立性・実効性を高めるためにも委員や事務局職員は、ジェンダーバランスはもちろん、さまざまな人権課題を抱えている人びとを含めた多様性・多元性に配慮するようにした。

 第2に、地域で日び生じる人権侵害の被害救済が迅速かつ効果的に実施されるよう、実効性を確保するために、都道府県ごとに人権委を設置するようにした。

 第3に、戦後民主主義の息吹のなかでできた「人権擁護委員法」は、「サンフランシスコ平和体制」以降、ほとんど骨抜きにさせられてしまった。その後の人権擁護委員制度はさっぱり信頼性がなく、「人権擁護推進審議会・答申」ですらこの制度に不備、改善の余地があると認めざるをえない状況だ。この制度を抜本修正し、国や都道府県に設置される人権委と十分連携をとりながら地域での効果的な人権救済活動などができる人権相談員制度とした。

 第4に、人権救済手続きの実効性の確保。独立し信頼される委員・事務局体制でも、あまり権限がなければ実効性に欠ける。また、たとえば救済申立者の範囲を、本人でなくても代理人でもいいとか、出頭しなくてもメールや電話でいいとか、大胆に変え、拡大した。

人権侵害救済法早期制定と法案充実を求めて、部落解放・人権政策確立要求中央実行委員会が開催松岡とおる 公式サイト
●メディア規制に関わる条項の全面削除

 報道の自由や表現の自由に対する公権力からの不当な介入や干渉の排除。

どうでしょう?これなら僕なんかは良いんじゃないかと思うのです。もちろんこの法律が導入されたら、2ちゃんねるのハングル板なんかは書き込みが激減するでしょう。でも、はっきり言うと僕はそのような言論(*1)の一部が規制され、それによる萎縮効果により、一部の人の言論が発表されることもなくなるようになっても、ても、それによって守られる被差別者の人権(前にも言ったが、差別言論というものは被差別者の言論の自由さえ奪うのだ。">*2)を考えたら、それは日本国憲法の言う公共の福祉に合致するのではないかと考えます。

もちろんこれはあくまで素人考えであり、もしかしたらこの法律の中にも「公権力による不当な人権侵害」を許したり「メディア規制」を行う抜け道があるのかもしれません。そのような抜け道に対する指摘があったら、僕は再びどのような立場を表明するか悩んでしまうかもしれません。しかしとりあえず現時点では、僕は「『人権侵害救済法』制定へ!」という立場である事を表明しますし、その様な立場を取る事を他の人にも勧めたいと思います。

「そのような立場は分かりにくいんじゃないか?」という批判もあるでしょう。確かにこの立場には人権擁護法案反対Flashにあるような分かりやすさはありません。しかし、誤解を恐れずに言えば、僕はこの件に関しては(*3)分かりやすさは罪であると考えています。例えばこのFlashにしたって、確かに2ちゃんねる系(*4)の人にとってはとても分かりやすく、「反対しよう!」という気にさせられるものだと思うのですが、僕から見ればむしろ「人権擁護法案」への賛成を促しているFlashなんですね。つまり、分かりやすさというのは「ある特定の部分を拡大して、他の部分を隠す」ことにより初めて成り立つものなのです。そして、このFlashで隠されているのは、メディア規制条項であったり、法務省の外局に設置されているが為に公権力の人権侵害を防げないという部分だったり、今現在ハングル板などの発言によって侵害されている人権だったりする訳です。

もちろんそれがより多くの人に訴えかける為には極めて有効な方策であるというのも良く分かります。僕だって「確かにこの人権侵害救済法はハングル板住人など一部の人の言論の自由を規制するものなのだが、しかしそれによってまた、在日コリアンなどの人の人権が救済されるのであり、そしてその人権の方がより公共の福祉に価する以上、ハングル板住民の言論の自由を規制するのも仕方が無いことなのだ。」と長ったらしく言うよりは、「人権侵害救済法はみんなの人権を守る法律です!」と一言で言っちゃった方が分かりやすいんですよね。でも僕はやはりその様な分かりやすさは避けたいのです。何故なら、ある人権を守るためとはいえ、別の人々の「言論の自由」=「人権」を規制するという事実に変わりは無いからです。これはこの問題に限らず、あらゆる社会問題でも同じこと(*5)だと思います。

しかし人間はその様な事実を往々にして忘れてしまう。すると何が起こるか?一旦「あらゆる人達に正しい政策」というのが妄想の上だったとしても出来上がってしまえば、あとはそのテンプレートに沿えばどんな政策だって可能になってしまうのです。「人権」の為にある国に侵略戦争をしかけたり、「人権」の為に経済制裁により多数の餓死者を出したり、「人権」の為に人を合法的に殺したり……

その様な悲劇を再び繰り返さないためにも、僕はやはり「分かりやすさ」の誘惑に屈するのではなく、正確に事実を見つめ、自分たちは「何か」の為に「何か」を犠牲にしているということを知るのが、やはり重要だと思うのです。もちろんそれだって結局は「言論」なのですから、また別の「何か」を取りこぼしているのは間違いないの(*6)ですが、しかしそのような行為を初めから諦めるよりは、ずっと良い方策でしょう。


*1: 殆どは「差別言論=Hate speech」だ

*2: この中には「言論の自由」も含まれる。前にも言ったが、差別言論というものは被差別者の言論の自由さえ奪うのだ。

*3: というか殆どの社会問題に関して僕はそう考えているんだけど

*4: このカテゴリ分けもなかなか批判を呼ぶのだが、此処で言っているのは「掲示板システム」としての2ちゃんねるなのではなく、「イデオロギー」としての2ちゃんねるであることに注意して欲しい。僕は、「掲示板システム」としての2ちゃんねるは既に自己同一性を失い、崩壊したと考えています。この件に関してはまた改めて記事を書きます

*5: つまり、「ある物を守るためにある物を犠牲にしている」ということ

*6: 言葉というのは、現実には存在しない観念上のものである以上、必ず構造的に「何か」をとりこぼします