<チチアーノ・テルツァーニの『反戦の手紙』から孫引き。インドの思想家に向かってアメリカの婦人が言う。「世界がひとつの宗教になったらなんとすばらしうでしょう。インドの思想家は答えていわく「一人一人が別の宗教を持つようになったほうがもっとすばらしいですよ」。
この文章はまぁ普通に考えれば西欧グローバリズム批判とかそんなことなんだろうけど、僕はここで敢えて「差別問題」への提言を感じてしまう。というか、この二つのことは本来密接に絡んでいることなんだけれどね。
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多くの人は差別の原因を「差異」だと考えているでしょう。例えば、被差別部落に住んでいる人を差別する根本の原因は「被差別部落の人々は歴史的に私達と"違う"出自を持っているから」と考えるし、男女を差別する根本の原因は「男と女は違うから」と考える。よって、そういう考えを持ってる人は例え差別に反対するとしても、「そのような差異を無くすことが差別を無くすことなんだ!」とか思って、部落問題をタブー化したり、過去の連合赤軍みたいに「女らしくするな!」として女性をリンチしちゃったりするわけだ。そしてそのようなことを見た、そういう人達と根本的には同じ考え(「差別の原因を『差異』だと考えている」)を持つ人は「結局差別を撤廃させようとするとそんな酷いことになってしまうんだ!」と思って、差別解消自体に反対するわけです。
でもそれは違うんです。何故なら差別ってのは「差異」を認識する所に原因がるのではなく、「同質性」を追求する所にその根本の原因があるんですから。例えば部落問題に関して言えば、「被差別部落とは違う出自を持つ『私たち』という"同質な"集団」にこそ根本の原因があるのだし、男女差別に関して言えば「『男』という"同質な"人達と、『女』という"同質な"人達が居る」ということに原因があるんですね。つまり、例え出自が同じだったとしても、そこには本当に多様な人が居る訳なんだけど、「あの部落の出自」というだけで、そこの出自(の人)と同じ性質を持つという風に見られたり、「男」といってもそこにはお人形が好きなおとなしい子だって居るし、「男」というだけでみんな"男らしい"という風に同質的に扱われたりする、それこそがまさに問題なんであって、別に男と女に差異があることや、出自が違うことそれ自体は差別の原因ではないんです。
例えば「『差別』と『区別』をどう見分けるか?」なんてことが良く問題になるんですが、これは全くナンセンスな議論で、はっきりいってこの二つは文字面は確かに似てますが意味は全く違う、というか"正反対"なものなんです。区別は全ての人が一人一人他の人とは違う所=差異を認めることであって、これに対し差別は人を複数の集団に分けることによって、その集団を妄想によって構築し、「その集団に属すんだから○○という特性を持っている(持つべきだ)」という風に人間(とその行動)を規定することなんです。そしてそれ故それに反対する運動も、例えば男女差別に対しては、ジェンダーフリーということでその規定を無くす=フリーにする運動になるべきだし、またそうであるのです。
よって良くヤギさん(*1)やアベさん(座長安倍晋三">*2)なんかが「男女差別に反対するジェンダーフリーは男女のsexを同質化しsexを消し去る思想なんだ!」とか言う(*3)のは明らかに見当違いの戯言なんですな。例えば彼らは「ジェンダーフリーによって男女の更衣室の区分けが無くなった!」なんてデマを振りまく訳なんですが、本当にきちんとジェンダーフリーについて勉強すればこんな馬鹿な妄言言うわけないんです。何故なら「男女の更衣室の区別を無くす」ということは、つまり一つのクラス又は学校という集団が「互いに裸を見せてもよしとするだろう(するべきだ)」という風に規定されることなんだから、これは「フリー」とは全く反対なのです。ですから、もしジェンダーフリーの観点から更衣室に対し提言するならば、「男女の区分けを無くすべきだ!」なんて絶対言わない。逆に「クラスの中の男」という集団が「互いに裸を見せてもよしとするだろう(するべきだ)」という規定に支配されている(例えば僕なんかはこの規定が嫌で嫌で仕方ないのです)ことに反発し、「一人一人に区分けを作るべきだ!」という風に提言するでしょう。
そしてその結果到達する世界、つまりジェンダーフリーなどの差別に反対する思想が理想とする世界というのは、一人一人が他者によって集団同一性(そのなかにはナショナル・アイデンティティーとかももちろん含まれる)を規定されることなく、自分で自分の特性・性質を決定できる、そのような社会を作ることなのです。まぁ、でもそれでも「どこら辺から『自分自身で決めている』ということになるのか?」という問題(例えば家庭に入らないと著しく不利益を被るような日本みたいな社会においては、多くの女性が家庭に"自分で"婚姻届けに判を押して入る訳ですが、しかしそれは本当に「自分自身で決めている」と言えるのか?)は生じる訳ですが、しかし例えその問題に対しどんな立場を取るにせよ、「自分で自分の特性・性質を決める」ということは認めているのです。しかしそれに対し自民党などの反ジェンダーフリー思想は、ただジェンダーフリー思想を自らの妄想によって批判するだけで、何も自分たちの目指す所を言っていないわけで、こんなものお話にならないのです。