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2005-06-06


[思想][情報社会論]闘争への欲望

罵倒王として名を馳せた「無題」や、あの切込隊長でさえ袋叩きから逃れられなかったのだから、尋常でなく頭がいい人でも、日本の匿名さんたちには勝てないわけだ。うまくいっているうちに更新を投げ出してフェードアウトしないと、真性引き篭もりも小林Scrap Bookも、そのうちに叩かれるようになるんでしょ。叩かれたらそれでお終いってことはないけれど、かなり面白くない体験をすることになるわけだよ。

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しかしそれでも人はインターネット上で他人に対し闘争を仕掛けるのです。自らが人として生きるために。

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よっぽどマヌケな発言を決めるのは誰か?

先に出したhttp://deztec.jp/design/05/05/28_blog.htmlに対し、その文の対象となっている真性引き篭もりを紹介したARTIFACT@ハテナ系では次のように言っている

ツッコミ屋の生き方(id:kanose:20050529#tsukkomi)

真性引き篭もり(http://sinseihikikomori.bblog.jp/)だって、小林Scrap Book(http://blog.heartlogic.jp/)も、今まで何回か批判は受けているから、二人とも、そういう覚悟はもちろんしてるだろう。でも、恒常的に叩かれる、なんてのは、よっぽどマヌケな発言を本気でしない限り起きないと思うけどね。

しかしではid:kanose氏が言うよっぽどマヌケな発言というのは一体どういうものなのだろうか?僕には良く分からない。何故ならそういうよっぽどマヌケな発言かどうかを決めるというのは、昔みたいに何処かのオピニオン誌のなかでのやりとりや、大学の中、テレビの討論番組などの、一応信頼性が担保されている所ではなく、まさに「ツッコミ屋の有為転変」に書いてあるように、日本の匿名さんたちが作る「場」もしくは「空気」であるからだ。そんなものが決めるよっぽどマヌケな発言を誰が予測できようか?誰も出来ないでしょう。つまり、ネットに居て、そして他人に対し「闘争」を仕掛ける限り、いつ「空気」によって自分が叩かれるのか分からないのです。だとしたら、一体何故そこにいる闘争者達は、それを知りながらその闘争の磁場=「場」から逃れられないのでしょうか?

二分法という共存関係

そして次にid:kanose氏は「真性引き篭もり氏の文章はネタとして楽しい。楽しい文章がなくなったらこの世の中はつまらなくなるのだから、私たちは楽しいものであったらネタであっても許容しなければならないだろう」というようなことを書きます。(*1)

真性引き篭もり JASRACブロガーBigBangは足を痙って改名しろ。

http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/188437/

この記事が名誉毀損に相当するということだけど、十二分に「ネタですよ」信号が入っていると自分は感じた。もちろん、アホな人が読んだら、誤解する可能性はあるだろうが。そういう人が出現したら、つまらなくなるけど、「ここに書いてある文章はネタ性が高く、事実として認識しないでください」とか注意書き入れるしかないんだろう。

嘘つくんじゃないよ。よりによって伊藤直也さんが石川直人さんを潰そうとするわけがない。

あ、考えてみたら、すでに徳保さんが本気で読んでいるから注意書きが必要じゃん! でも、マジレスしているのは、わざと釣られたふりをしているのかもしれないし…。でも釣られた振りとしては芸がないしなあ。このレスで釣られた振りだった、というのはなしの方向で。

ただひたすら真面目なだけ文章ばかりの世界と、楽しませる文章が多い世界。自分は、どちらを選ぶかといえば、後者だ。そして、いつ自分も真性引き篭もりでネタにされるか、恐怖する。

しかしこれに対し次のような批判が書かれます。

マジレスしてみる(id:yms-zun:20050530:magires)

ただひたすら真面目なだけ文章ばかりの世界と、楽しませる文章が多い世界。自分は、どちらを選ぶかといえば、後者だ。

  • ARTIFACT@ハテナ系 - ツッコミ屋の生き方

まづこの対立項が有効かどうかから検証すべきだらう。

ただひたすら真面目なだけの文章が人を楽しませられない?

楽しませる文章が多い世界はネタだらけ?

んなアホな世界はない。前提からをかしい。ネタかマジかしらんが、kanose氏のこの話を真に受けた人は自分の感性の偏りを自覚した方がいい。

くだらないネタよりは面白い真面目話の方がマシだ、さうだらう。ネタか真面目かは面白さとは関係ないはずだ。

そしてこれに対し「ARTIFACT@ハテナ系」では次のように返答しています。

「ネタ」だけが「楽しい」ではない(id:kanose:20050530#neta)

で「楽しい」には様々な意味を含めていて、広くいえば「人に興味を持ってもらいやすい」というところだろうか。別にネタだけが「楽しい」文章と主張するつもりはなかったから、「ネタ」にしなかったんだけど、その前の文章で「マジ」「ネタ」の構図が多かったからそう読み取れなかった文章だったようで、申し訳ない。

要するに「『ネタ/真面目』の評価軸は『楽しい/楽しくない』の評価軸とは関係ないことは分かっている。ただ、例え『ネタ』であっても『楽しい』のならば、私たちはそれを許容すべきだろうということを言いたかったのです。」ということです。

しかし僕はどうもこのやりとりに違和感を覚えるのですね。要するに彼らの間ではどちらも『楽しい/楽しくない』の評価軸が最も重要であり、『ネタ/真面目』の評価軸はいわばどーでも良いものとなっている訳です。まぁこれはネット上では極めてありふれた価値観といえるでしょう。

しかしそれはやはりおかしなことなのですね。そりゃ確かに最近ではマスコミ自身も「時には私たち自身も誤りを起こす」として、色々誤報によって人が傷つけられた時のためにhttp://www.bpo.gr.jp/みたいな組織を作ってますが、しかし基本は「間違いは絶対に報道しない」という心構えです。しかしそれに対し例えばインターネット上では今回の件のようにごくまともな記事の次にネタ記事が書かれたりすることが多々ある、というかむしろしていない人達を見つける方が難しいわけです。(*2)つまり彼らインターネット上の人々は自分の文章が「真面目」なものとして消費されることなど全く期待していないのです。では何故彼らの間で「真面目」なものは失効してしまったのでしょうか?

(なおここで「ARTIFACT@ハテナ系」では「楽しい」ということを人に興味を持ってもらいやすいと書いていますが、そこで想定される「人」とはつまり日本の匿名さんのような人々であるわけで、ここでもまた前項で挙げた「何でそんな人達に対し(*3)自らの存在を担保するのか」という問題が生じます。)

公共圏の衰退

このような問いに対し、『ISBN:4140910240:title』の著者である北田暁大氏はhttp://ised.glocom.jp/ised/20050312において次のような説明をしています(という風に、僕が解釈したということなのだけれど)。

1-2. 言説の稀少性と公共圏――ジャーナリズム論

 もちろん起源の問題と、現在の意味とは別に考えるべきですが、ここで言いたいことは、不偏不党性というのは歴史的にみると別段すばらしい普遍「倫理」でもなんでもなく、それ自体特定の言説空間のなかで構築された制度的産物にすぎない、ということです。

(略)

 かなり挑発的な言い方をしますが、「不偏不党」「公正中立」というスローガンは、いってみれば偶然的な事情に由来する希少性を、「我々は公共的な責任を持っているんだ」という倫理的な自意識へと転換していく装置のようなものといえるのではないでしょうか。こうしたある種の転倒、読み替えといったものが、ジャーナリズムをめぐる言説のなかで構造化されているのではないか。

(略)

 こうしたCMCの問題を再度整理しておきましょう。CMCにおいては、稀少な言説を供給する特権的な他者といったものが存在しないわけではないものの、とりあえず「いない」と勘違いしていられる空間ではあるわけです。そういった状況において、時間的に急き立てられたコンテクストの政治学とでもいうべきものが、前面化せざるをえない。これは逆に言えば、マスメディアという制度がなんとか覆い隠してくれていたコミュニケーションの真理、すなわち「実はコミュニケーションとは内容やメッセージの伝達ではなく、あくまでそれを解釈するコンテクストをめぐる闘争なのだ」という身も蓋もない真理をあらわに表面化させてしまったともいえます。ここにおいてはマスメディア的な実定道徳はおそらく失効してしまう。

つまり、そもそも不偏不党な公正な意見(*4)が賞賛されるという既存のジャーナリズムのシステムというのは、実はそのジャーナリズムが極めて限られた人の意見によって構成されているという、周辺的な条件によって成り立っているのであって、大勢の人々が一緒に参加することが出来、そして意見を出されたら即座に返答することが要求される様なインターネット的空間においては、その条件が外れるのだから不偏不党な公正な意見が賞賛されるようなシステムも失効するのは当然だ。というようなことを言ってるのです(多分)。

普段私達は『ネタ/真面目』という評価軸を自明のもの=固定的なものとして扱います。けれどもしそれがコミュニケーションの内で扱われるのならば、それは結局のところ間主観的なもの、つまり「みんながそう思っているからそうなる」動的な評価軸なのです。そしてそうである以上、もしその『ネタ/真面目』という評価軸がコミュニケーションにおいて意味を持つのなら、『ネタ/真面目』というものが差別的評価軸、つまりどちらかが劣っていてどちらかが優れているという様な共通認識がその評価軸に対して無ければならないのです。そして、確かに既存のマスメディアでは言説の希少性などの理由によりその評価軸に対し「『真面目』なものが偉くて『ネタ』は偉くない」というような(討議的)共通認識を付与することが可能だったのです。が、それは別にコミュニケーションの中に内包されていたものではなく、言説の希少性という周辺的な条件によって規定されていたものなのですから、そのような周辺的条件が無い以上、「『真面目』なものが偉くて『ネタ』は偉くない」というような(討議的)共通認識も無くなり、結果『ネタ/真面目』という評価軸は無意味なものとなるのです。

闘争的/多元主義的

3. CMC空間の社会哲学――公共圏から遠く離れて

 では、CMCの方はどうか。もちろんコミュニケーションである以上、参与者は過剰な複雑性に耐えることはできない。とはいえ、すでに述べてきたように、討議的なコミュニケーションによって対応することはきわめて難しいわけです。

 そこで現在観察することのできる特徴的な「複雑性の縮減」の様式は2つあると思います。これを鈴木謙介さんによるサイバーコミュニタリアニズムについての報告を受けて、1)闘争的コミュニタリアニズム、2)多元主義的コミュニタリアニズムと呼びましょう。

(略)

まず1)闘争的コミュニタリアニズムのほうですが、これは、コンテクストを共有しやすい言論集団を構成し、コンテクストを共有しない外部に向けて「コンテクストの政治学」を仕掛ける、といった方法論です。

(略)

 この闘争的コミュニタリアニズムは、内的にコンテクストの共有性・凝集性を高め、対外的にコンテクスト闘争を激化させる。あるいは、対外的な闘争を激化させることにより、内的な集団の凝集性を高めようとします。行為者はこうした共同体に属することで、行為接続の蓋然性を高めることができるわけです。ただ、諸々の共同体を鳥瞰する観察者の視点からすれば、別の意味でこれは行為空間の総体の複雑性を上昇させているともいえます。そして討議的な「正当化」は、妥当な行為調整のメカニズムとして機能できません。行為の正当化の方法論自体が共同体ごとに個別化される、と言うこともできるでしょう。

(略)

 次に「多元主義的コミュニタリアニズム」の方に移ります。闘争主義的コミュニタリアニズムには、「共同体外部としての敵」を見いだすことにより、内部と外部の境界線、共同性を再生産しているという部分があったわけですが、こちらのコミュニタリアニズムはそうした否定的なアイデンティファイを必ずしも必要としません。これは価値もしくは行為のコンテクストを共有する他者との、まったりとした共存を指向する共同体です。たとえば2ちゃんねるのネタスレや、フレーミングを徹底的に回避するタコツボ的共同体、あるいは、Amazonなどのカスタマイゼーションにそれほどの違和を覚えることもなく、自己の価値を実現することを図る「動物」的な行為者*2などを想像してもらえればいいと思います。すなわち、他なる価値との折衝・遭遇あるいは文脈闘争を回避し、「快適」な情報環境を追及するという方法論。これもひとつの複雑性縮減の方法論であるわけです。

そしてその様なインターネット空間においては人々は、自分たちの評価軸(コンテクスト)が普遍的なものでないことを自覚しながら、そのコンテクストを他者に対し押しつけ合う「闘争的コミュニタリアニズム」か、またはそのような闘争から撤退し、ただひたすらmixiの様なタコツボ的共同体のなかで目的無きコミュニケーション(*5)を行う「多元主義的コミュニタリアニズム」という二つの様式のどちらかを選ぶしかないのです。

しかし僕は、確かにインターネット空間においては人々はただひたすら不毛なコンテクストの闘争を行うか、もしくは闘争から撤退して「動物」的な行為者となるかの二手に分かれることには同意するんですが、しかしその理由を参与者は過剰な複雑性に耐えることはできないということだけに求めるのはちょっと納得がいかないんですね。この過剰な複雑性というのは要するに、インターネット空間においては膨大な言説がなされ、そしてそれにより人々は自分がどのようなことをしているのか分からなくなってしまう。だから同じコンテクストを持つ者達の間で共同体を作って、そしてその共同体(内の言説)を他(の言説)とは違うものにする、つまり差異を作るために他者に対し闘争を仕掛けるのだ、ということだと僕は解釈したのですが、まぁそれは確かに正しいんだろうけど、でも何となくしっくりこないんです。何故ならそこでは「何故他者にわざわざ接触して。差異を設けなければならないのか?」ということが説明されていないからです。事実、「多元主義的コミュニタリアニズム」の様式を選んだ人達は他者との接触はせずにインターネット空間において暮らしていけているのですから、では何故「闘争的コミュニタリアニズム」の人々はそのような様式を選ばない、いや"選べない"のか?

要するに「闘争」というものにはこの講演で言われている以上の「何か」があるのです。ではその「何か」とは一体何なのか?

根元的なものとしての「闘争」

ここでちょっと話題を「インターネット上における相手との闘争的コミュニケーション」からメタ化して、「闘争」そのものについて考えてみましょう。

普段私達は「闘争」というものを何らかの目的を達成するために、他人より優位に立つ手段として考えます。例えばテレビのチャンネルを変えるために兄弟と喧嘩するとか、より多くの遺産を相続するために裁判に持ち込むとか、もっと大きな話をするならば、南の小島を確保するために隣国と闘争するとか、闘争には殆どの場合何かしらの目的が存在し、そしてその目的を達成するための手段として私達は闘争し、そして相手より優位に立とうとするのだと、常識的に私達はそういう風に「闘争」というものを定義しています。しかし本当にそうなのでしょうか?実は私たちは、自分の欲望=目的を満足させるために相手より優位に立つ「闘争」を仕掛けるのではなく、もしかしたら相手より優位に立つ「闘争」そのものを欲望しているのではないのでしょうか?

夢見る機会不平等(id:sarutora:20050604#p1)

 結局、「格差社会」の「格差」とは、社会階層間の格差であると同時に、いやそれ以上に、個々人にとっての内なる格差なのだ。すなわち、「理想(夢)の自己」と「現実の自己」の格差、「あるべき(本当の)自己」と「いまある(ニセの)自己」の「格差」、である。夢見る機械たるわれわれはいわば「同一性障害identity disorder」に陥っているわけだが、これを「治療」するにはどうすればいいのか。

 一つの方法は、身体を捨象し、「理想の自己」と同一化してしまうことだ。簡単なことだ。「会社」と契約し、「桶の中の脳*5」になってしまえばいい。そこには定義上理想の自己、理想の人生しかない。内なる分裂、内なる格差は解消される。

 もう一つの方法は、精神を捨象し、「現実の自己」と同一化してしまうことだ。これも簡単だ。「理想」を捨て、「夢」を捨て、「あきらめ」ればいいのだ。自分でできなければ、「職業カウンセリング」でも受ければよい。そうして、われわれはまぎれもない「ロボット」になる。心配しなくても仕事はいくらでもある。「会社」が派遣先を決めてくれるだろう。やはり内なる格差は解消される。

(略)

 ではお前は、「夢」を煽り、競争社会を肯定するのか? みんなが「とびぬけた」存在になろうとする「夢」を肯定するのか? と言われるかもしれない。しかし、そもそも「夢」とは、そのようなものでなくてはならないのだろうか? そのことを考えたとき、われわれは、われわれの「夢」が実は最初から「会社」によって配給されていたのではないか、ということに気づくのである。新宿の目の地下、「会社」の本拠地には、巨大な「高性能コンピューター」がある。このコンピューターは、身代わりロボットのコントロール、カプセル内部の人間の新陳代謝コントロール、会社運営、など「すべて」を行っているのだが、それはまた、カプセル内部の人間たちに「夢」を見させる「ドリームマシン」に接続されているのである。つまり、このコンピュータは「夢見させる機械」であったのだ。そして、ひょっとすると、夢見る人々は、カプセルに入る前から、すでに機械によって夢を配給されていたのではないか? われわれはすでに桶の中の脳だったのではないか?

つまり、id:sarutora氏によれば(*6)(現代社会に生きる)私たちの「夢」というものは、実は他者を犠牲にすることによってしかなりたたない。いや、もっとはっきり言ってしまえば私たちの夢というものは「他者を犠牲にする」ことそのものなのです。今回の記事に当てはめていうならば、人は実は何かの夢=(生きる)目的の為に手段として他人より優位に立つ「闘争」をするのではなく、実は「闘争」(をして勝つこと)自体が夢=目的であり、私たちが欲望するものなのです。

そしてid:sarutora氏はこの他者を犠牲にすることによってしかなりたたない夢が実は「夢見させる機械」によって配給されているものでは無いのか?と書きます。ここでid:sarutora氏がどのようなものを思い描いているかは分かりませんが、僕はやはりその機械の正体は「人間」というシステムそのものであるように思えてならないのですね。全ての人々は「人間」で有る限り、その「人間」というシステムからは逃れ得ない(*7)。例えば資本主義システムとか、自由主義システムとかそういう割と可視的なものなら、もしそれが多くの人にとって不幸をもたらすもの(殆どの人が叶えられない「夢」とかね)だったらとっくのとんまに人々はそのシステムから逃れているでしょう。そのような可視的なシステムには代換策は一杯有るのですから。しかし殆どの(というか全ての)人は「夢見させる機械」から逃れることは出来ていない訳です。とすれば、そのシステムは全人類を覆うほどの規模であり、それ故に逃れることも出来ないシステムであるということでしょう。その様な「人間」というシステム以外に無いのではないでしょうか。

しかしもしそうだとしたら、一体「人間」というシステムは何故私たちに対し他者を犠牲にする「闘争」を欲望させるのでしょうか?そのような問いに対しISBN:4062583240:titleという本ではこう答えます。「人間とは欲望=無であり、そしてそれ故他者を否定することによってしか自らを存在させることが出来ないからだ」と。

闘争する人間

『抗争する人間』を僕的に解釈するとこういうことです。人間は自然に対し「自然ではない自分」という認識をもって自分を認識します。つまり、最初にまず否定的なもの、空白=真空なものとして人間は「自分」を認識するのですね。そしてそれ故に人は自らが「存在してはいけないもの」として捉え(「自然は真空を嫌う」、そして自分が肯定的には居ない以上、自然しか肯定的に存在する者はなく、従って自然は「絶対的なもの」となるのだから、「絶対的なもの」に嫌われたら存在してはいけないのです)、自己破壊の欲望を持ちます。しかしもしそれをそのままにしてしまえば、本当に自分を破壊しかねませんから、なんとかその欲望を別のものに転嫁しなければなりません。そしてそれ故に人は「他者」を自分から求め、そしてその他者を破壊することにより、他者によって自己の破壊を先取りしてもらって(*8)、「『(他者の)空白』を壊すもの」として自己を「存在していいもの」とするのですね。しかしその正当性はあくまで「『(他者の)空白』を破壊する」という運動を行っている時にしか得られないものですから、結局人間は人間として生きている限り他者に対し闘争を仕掛け続けるのです。もちろんその中で遠くの他者を屈服させる為に、近くの他者と戦略的に友好関係を結んだりしますが、しかしそれは遠くの他者と闘争するためなのです。

「闘争」というものを根底から支える「何か」というものは、「人間」そのものだったのです。つまり「人間」である以上、「闘争」は避けられないもの。そしてその「闘争」はあらゆる他者との関わり=コミュニケーションを陰で支えるものであり、例えとても友好的なコミュニケーションがあったとしても、それは結局大きな他者を倒す為の戦略的な同盟に過ぎないのです。

もちろんこの様な事実は今までは巧妙に隠蔽されてきました。例えば既存のジャーナリズムにおいては少数の人間に言説を独占させることによって、彼らの言説のみによって私たちの共同体の行為を規定し、そしてそれにより私たち共同体が他の共同体に対してどのような闘争を行っているか隠蔽してきた訳(*9)ですが、しかしそのような隠蔽はもはや通用しなくなり、結果闘争的コミュニタリズムというものが民衆にも分かる様に前面化したのです(決してインターネットによって生じたものではないということに注意。人というのは結局本質的に闘争的コミュニタリズムであり、インターネットはそれを露わにしたに過ぎません)。そして、確かにインターネット空間は既存の社会とは全く違うものですが、しかし決して現実社会と全く遊離したものではないのですから、もしインターネット空間において人々が二つに分けられるというのなら、それは現実社会においても同じことであり、決してインターネット内に限定されるものではないのです。

では、ここでもう一度「闘争的コミュニタリアニズム」と「多元主義的コミュニタリアニズム」について考えてみることにしましょう。「闘争的コミュニタリアニズム」が人間の本質だとしたら、「多元主義的コミュニタリアニズム」は一体何なのか?また、「闘争的コミュニタリアニズム」はこの先どうなっていくのか?この二つの問題について、これから具体例を交えながら考えてみます。

それではまず最初に、「多元主義的コミュニタリアニズム」は一体何なのか?という問いについて。

現実を悪く、嫌だとらえているのは君の心だ……?

まず最初に、「闘争的コミュニタリアニズム」が人間の本質である以上、「多元主義的コミュニタリアニズム」を行う者は(哲学的に言えば)人間ではありません。つまり、自然と分かたれて存在しているものではないのです。彼らは別に「自然ではない自分」として自己を認識しない、いや、自己に対し(静的に)認識を持つことすらしないのです。そりゃ確かに彼らだって本当に動物じゃあないんだから、何か現れるものに対し感じることはあります。しかしここで重要なのが、彼らは何かについて感じるんだけど、その感じるものがもし自然と敵対した場合は、感情の方を変えてしまうんです。

最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

シンジ  > 現実世界は悪くないかもしれない。でも、自分は嫌いだ。

マコト  > 現実を悪く、嫌だとらえているのは君の心だ。

シゲル  > 現実を真実と置き換えている君の心さ。

マヤ   > 現実を見る角度、置き換える場所、これらが少し違うだけで心の中は大きく変わるわ。

リョウジ > 真実は人の数だけ存在する。

ケンスケ > だが、君の真実は1つだ。狭量な世界観で作られ、自分を守る為に変更された情報、歪められた真実だ。

トウジ  > まぁ、人一人が持てる世界観なんてちっぽけなもんや。

ヒカリ  > だけど、人は自分の小さな物差しでしか物事を計れないわ。

アスカ  > 与えられた他人の真実でしか物事を見ようとしない。

ミサト  > 晴れの日は気分良く。

レイ   > 雨の日は憂鬱。

アスカ  > っと教えられたら、そう思いこんでしまう。

リツコ  > 雨の日だって楽しいことはあるのに。

コウゾウ > 受け取り方一つで、まるで別物になってしまう脆弱なものだ。人の中の真実とはな。

本当に、正直今更エヴァを出すのもどうかと思うのですけど、でもやっぱ「多元主義的コミュニタリアニズム」の世界観を表すのにこれ程しっくり来る台詞も無いんですよね。つまり、彼らは例え自分を批判する意見にあっても、別に何とも思わないんですね。何故なら「現実を悪く、嫌だとらえているのは君の心だ」からです。つまり、心さえ変えてしまえば何にも怖いものは無いんですね。彼らにとって真実とは極めて脆弱だから、別にそれを知ろうが知りまいがどうでも良いんであって、例えばフィルタリングによって自分が見る文を制限されても「真実を知る機会が制限された!」と思ったりはしない。そもそも彼らには真実を求めるという欲望すら存在しないんですから。(*10)どんな状況であっても「これは僕の望んだ世界だ」(*11)と言えるんです。だって望まないものは見なければ良いんだから。

でもこの様な考えに対し「闘争的コミュニタリアニズム」は絶対に付いていけないのです。まず「人間」を捨て去れないし、それ故全てを見ようとするから必ず望まないものを見てしまい、「これは僕の望んだ世界じゃない!」と叫んでしまうのです。

何を願うの?

しかし「闘争的コミュニタリアニズム」を現代において貫き通すことは決して楽なことじゃありません。何故なら以前みたいに人間的行動の裏にある「闘争的コミュニタリアニズム」が隠蔽されていない為に、「闘争的コミュニタリアニズム」の本質的な不可能性(*12)がどうしたって目に付きますから、「結局自分がやっていることに意味など無いのではないか?」(エヴァ風に変換すると「何を願うの?」となる)と思わずにはいられないのです。そしてその思いがやがて「意味なんてどうでも良いや」という風に変化したとき、その人は「多元主義的コミュニタリアニズム」へと墜ちていくのです。例えば、ある人はいつの間にかmixiに入り浸る様になったり、またある人は自分に批判的なコメントを脳の検閲機構で無視する様になったり……

しかしそれでは駄目なのです。「闘争的コミュニタリアニズム」を取る人というのは、例えそれが不可能であると分かっていても、全ての人の発言を見て自分の意見と違う発言には怒り反論するよう努めなければならないし、決して非公開の場所でしか許されない様な発言をしてはいけないのです。しかもそれを守ったとしても何も得られるものはない。それでも自らを「人間」であるよう要請する人々、つまり「これは僕の望んだ世界だ」とは口が裂けても言えない人々はこの「闘争的コミュニタリアニズム」を守る様にするしかないのです。しかしもしそれが出来たとしても、それは決して良い結果を生むことはなく、むしろ「多元主義的コミュニタリアニズム」を守る人々が続々と増えている今の社会においては悲惨な結果をもたらすことの方が圧倒的に多いのです。

闘争する日常

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20040605/p1

それなのにかれらはなぜこの場所に集まってくるのか。答えはひとつ──ほかに行く場所がないからだ。かれらはひとり残らず「健全」で「常識的」な社会から疎外された異端者である。あるものはオカルト趣味をもつことでで、べつのあるものは自分の身体性に嫌悪感を抱いていることで、行き場所を失って漫研へ逃げ込んできたのだ。そこではかれらはおたがいに対する侮蔑を内心に隠しながら、ともかくも表面的には平和に穏やかに互いの個性を尊重している。まさに漫研こそはかれらにとって世界にただひとつ残された「居場所」であり、「コージースペース(居心地のよい空間)」なのである。

「外」ではどれほど迫害されているとしても、ここでは一応はかれらは「仲間」なのだ。「コージースペース」とは、いわば「反階級社会」である。そこでは、あらゆる個性の持ち主がその個性のままに尊重される。

(略)

しかし、それすらもまた個性の対立を秘めた空間にはちがいない。「ヨイコノミライ!」は「コージースペース」に秘められたその対立をさらけ出す。一見すると快適で居心地がよく、差別も迫害もない空間が、実はその内側に内圧と欺瞞を内包していることをあきらかにする。その意味で、この作品は実は「げんしけん」よりも日渡早紀「僕の地球を守って」のほうに近い。あの世界のほかのだれにも理解されない「前世の絆」で結ばれた、個性も性別もまるで異なる人間から成る、しかし内側には激しい相克を秘めた空間性。

『ヨイコノミライ!』という作品は、僕も一巻(ISBN:4901978268)を読んでみたんですけど、本当に凄いですよ……「多元主義的コミュニタリアニズム」の人達が信じる「繋がりの社会性」が、その社会性を信じることの出来ない人間に与える行為の酷さがこれでもかという位リアルに表されるんです。これを読まずに安易に「繋がりの社会性バンザーイ。まったりバンザーイ」と叫ぶ様な人は本気で死んだ方が良いです。といっても、そういう人はきっとこういう言葉もフィルタリングしてしまうんだろうけど……

「多元主義的コミュニタリアニズム」の卑怯な点は、まず第一に彼らには本当に他人を傷つけているという意識が無いまま、酷い行為をすることが出来るという点なんですね(「闘争的コミュニタリアニズム」の方も酷い発言はする。というかこちらの方が多いんだけれど、でもそれは闘争の為であり、「相手を傷つける」という意識はあるのです)。何故なら彼らの方はどなに酷い発言をされたって、そんなものフィルタリングしてしまえば良いことだろうし、心を変化させさえすればそれは「酷い発言」では無くなるんですから、そういう酷い発言をすることに何の感情も抱かないのです。さらに、こちらの方が結構重要なんだけれど、そういう酷い発言をされたからじゃあ反撃してやろうとしても、彼らは決して土俵には上がってこないのです。まぁ彼らは別に闘争するために酷い発言をするのではなく、ただ"ネタになるから"酷い発言をするのであって、そうだから一旦問いつめるとすぐ「ごめんなー」とかで済ますことが出来る。その言葉を出されたらこちらとしては何の手だてをすることも出来ないのです。その為例えどんなに酷い行為をされても、その相手が「多元主義的コミュニタリアニズム」であれば闘争を挑むことは出来なくなってしまうのです。

そしてその「多元主義的コミュニタリアニズム」に対抗する為に、「闘争的コミュニタリアニズム」の方も共同体を作るんだけど、でも例えそんなことをしたって「闘争的コミュニタリアニズム」は常に絶え間なき闘争を命じるものだから、やがてその共同体内でも闘争が生じて、大勢の犠牲者を出して共同体が解体する(id:rir6:20050503:1115131471)訳です。でも決して「闘争的コミュニタリアニズム」は例えどんなに自分たちの行く先が血塗られ、そして絶望に覆われていても、その道に進むしかないのです……


*1: 僕は一体何が楽しいのか全然分からないわけだが

*2: そして僕自身はそういう傾向は大嫌い

*3: 闘争をすることによって

*4: =真面目な意見

*5: =馴れ合い

*6: もちろん僕が解釈した「意味」なんですけど

*7: ま、逆に言えば「人間」さえ放棄しちゃうばそのシステムからは簡単に抜け出せるんだけどさ

*8: ここにおいて他者と自己が同一化される

*9: 例:「日本は戦後ずっと平和を守ってきた」と言うが、その平和はあくまで日本国内のことであり、対外的には朝鮮戦争やベトナム戦争で西側の味方をすることにより実質戦争を支援してきたんです。

*10: 基本的に僕は「闘争的コミュニタリアニズム」なので、一応冷静に書き表そうと思うのですが、どうも「多元主義的コミュニタリアニズム」について書こうとすると感情的になるんです。これでも押さえてるんですがねぇ……ちなみに抑えないとid:rir6:20040821:1113913544みたいになります

*11: ASIN:B0002KVDCM:titleの「ロストマン」より

*12: 結局どんなに「闘争的コミュニタリアニズム」の文脈上で頑張ったって自己破壊の衝動を無くすことは出来ない