http://strange.toheart.to/diary/diary.cgi?Date=2005-08-02#20050802bから見つけた記事
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<<長野市立長野図書館が入り口ドアなどに「(お願い)悪臭の苦情が多いので 衣服を清潔に!」の張り紙をしたところ、市民らから「人権問題ではないか」と指摘があり、同館は31日までに張り紙を撤去した。
図書館によると、7月初めに窓を閉め冷房を入れるようにしたところ、「衣類を洗濯していない人がおり、においの対策を取ってほしい」との苦情が10件ほどあった。同館はにおいの問題だけで図書館の利用を制限することはできないと判断。「直接声を掛けると角が立つ」と考え、館内3カ所に張り紙をしたという。
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長野市立長野図書館の対応ももちろん頭に来るんだけど、それよりも腹が立つのはこの記事に対するhttp://strange.toheart.to/diary/diary.cgi?Date=2005-08-02#20050802bでの反応です。
人権問題っていうやつが人権問題だろう。って意味不明な日本語だ。
#: ある日電車に乗るとまだ30代くらいのホームレスが席に座ってた。その周りは空席。「差別すんなよ!」とか思ってあえて隣に座ってみたら鼻が曲がりそうになって一駅で降りた。人権問題とかじゃなくて単にくさいだけなんだけど、くさいのをくさいと言えないのは人権問題だよな。 : (08/02 06:31)
# strange : 目や耳はまだふさげるけど鼻はふさぎにくい! : (08/02 08:14)
# : 俺の人権が多少制限されてもいいから、こういう輩を黙らせてくれる独裁者キボンとか言いたくなるね : (08/02 12:08)
# : 常時クサプンに晒される眼鏡+ひっつめ髪の美人司書さん(28)の人権は誰が守るの!!1 : (08/02 12:11)
# jizou : ホームレスは人じゃないのにね : (08/02 12:20)
# : オタのクサプンとホームレスのはレベルが違うので同じにしてほしくないです。クサプンはワキガの人と同程度です。って誰も同じにしてないですけど : (08/02 15:49)
# strange : おれは自分の権利の方が重要だな! : (08/02 16:08)
# avi : 電車にトテモトテモ臭い人が乗ってきて、俺の人権が侵害された事がある。こういう人は強制的に風呂に入れて欲しい。←オタではなく浮浪者でした : (08/02 17:03)
# ニョクマム : 公共施設立入の際に住民税納付証明書の呈示義務を設けて入口で瞬殺すればいい。 : (08/02 23:43)
# : 入館自体を事前登録制にすればいいんだよ
まともな人間は公的証明書の一つや二つは持っているだろ
ホームレスはそんなもの無い奴が多いから、大部分は防げる : (08/03 02:00)
# : 年齢確認が可能なものなら、免許持ってない奴がパスポート取らなくて済むようになるね : (08/03 12:28)
もちろんこういう反応ばっかりじゃなくて良心的な反応もごく一部にはあるが、大部分がこんな反応。またはてなダイアリーを見回してもid:chuchutan、id:nekora、id:Wave-torpedoなどがこういう排斥主義的なことを言っている訳です。こういうのをまさに「下からのファシズム」と呼ぶんですかねぇ。
このような排斥主義的な意見が何故悪いのかはちょっと想像力を働かせれば分かるだけど、こういう輩はそのちょっとの想像力すら働かせることが出来ない人間(*1)だからこういう事を言う訳で、本当は自分でそういう排斥主義的な意見が何故悪いの気付くのが一番良い訳ですが、彼らが自分で気付くのを待っていたらまたこういう悲劇が起こりかねない(*2)ので、しょうがないので説明してあげることにしました。しかしなぁ……こんな乱暴な意見普通小学生でも何処がおかしいのか気付くでしょぅに。やっぱネットって人間を退化させるんですかねぇ?
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まず最初に「もし自分がホームレスになったら」を想像してみましょう。きっかけは今の日本では山程あります。会社から解雇されてしまったり、会社が倒産したりするのが主な理由ですが、他にも多重債務による取り立てから逃れる為、アルコール依存症・うつ病、対人恐怖症など、様々な理由により人はホームレスになります。では彼らに対し行政はどのような対応を行っているのか?
まず最初に思い浮かぶのが生活保護です。しかしこれは住所があり、しかも働ける肉体能力が無いか、もしくは就職している人しか受けられません。しかし例え働ける肉体能力があったとしても、そもそも求人が無ければ働くことは出来ない訳で、その結果統計ではホームレスの内75.5%が生活保護を受けたことすら無いのです。さらに言えば生活保護を受けたことのあるホームレスの中でもその大部分は病気になった時だけの保護であり、ここに書いてあるとおり一旦健康になってしまえば例え職が無かろうが(というか職が無いと受けられなくなるんだが)生活保護は打ち切られてしまう訳で、実際今現在生活保護を受けていないホームレスは75.5%よりさらに多いと考えられます。
以上のことから、ホームレスが生活保護を受けるのはほぼ不可能と言っても良い訳です。では他にはどんな対策があるのでしょうか?
まず国は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」を2002年の8月に施行しました。これは「地方公共団体はホームレスの自立(*3)に関する施策を行わなければならない」と定めたもので、具体的な施策をどうするかは地方公共団体に任されています。では地方公共団体はどのようなことを行っているのか?
例えば大阪市ではホームレスを収容する為のシェルターを作りました。しかしその実体はここに書いてあるとおり
釜ヶ崎の三角公園横にある、あいりん臨時夜間一時避難所は、釜ヶ崎のNPOが大阪市と一体となって管理運営しています。二段ベッドの下段は、あぐらをかいて座っても頭が上のベッドにつかえます。冬になってもストーブもありません。
寝具はマットに3枚の毛布。驚くことにまくらはありません。ですから毛布3枚のうちの1枚をまくらがわりにしているのです。「シラミが寝具についている」と寝泊まりした人びとは言います。夕方に配られる乾パンは硬くて、これで歯を折った人もいると聞いています。
とても人間が住む様な施設ではありません。更に問題は、行政がこのような施設にホームレスを強制収容する為の口実として、「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」を使っているということです。例えば名古屋では2005年1月24日、白川公園においてホームレスの強制排除を行いました(id:homeless758:20050125参照)。そしてこの強制排除(これが愛知万博の為に行われたことは明白)の口実として「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」によるシェルターが使われているのです。この名古屋のシェルターも大阪のものと同じように多分に問題を孕んでいるものなのですが
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<<◆問題点1 <入りたい人が入れない>
入所対象者は、白川公園やその周辺の小屋かテントに生活している野宿者に限定されており寒さも厳しくなる中、命が今危機にさらされている小屋・テントを持たない野宿者は、たとえ1日でも入りたいのに入る事ができません。実際にシェルターから道一つ隔てた歩道に毛布一枚で過ごす人がいます。
◆問題点2 <入所できる期間は6か月>
小屋やテントで生活している野宿者は、入所すると同時にこれまで住んでいた、生きていくための財産と場所を失います。「6ヶ月後どうするんだ?」という声があちこちで聞こえます。先のことは何の保障もなく、体1つで放り出され野宿に戻る可能性が高く、入所前よりも命が危機にさらされるのを皆認識しています。
(略)
問題の居室はベッドに立つと隣が丸見え。
プライバシーのかけらも無し。
部屋には外からの鍵がなくいつでも泥棒が入れるお粗末さ。
もしも定員いっぱい入った場合常にもめることは間違いない。
一人あたり2畳。
小さなロッカーが一つ。
リサイクル缶回収で生活している人は入れないと思う。
とても荷物がしまえない。
夫婦部屋も用意はしてある。
きわめておかしいのが部屋の両端に一つずつベッドが置いてあり、
2部屋をぶち抜いて1部屋にしたためか扉をあけるとベッドがあるのだ。
夫婦でも離れて寝ろと言うことらしい。
ここの部屋ももちろん隣が丸見え。
仲間の感想は、「刑務所よりひどい」
「小屋のない仲間が入るならいい」
「管理されたくない」
というものだった。
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しかしこの様なシェルターであっても行政はその存在を口実にホームレスを強制排除するのです。その意味で、「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」は実際は行政のホームレスに対する弾圧を手助けしているのです。
この様に基本的な生存権すら脅かされている実態(当たり前だがこの様な状況は日本国憲法第25条第1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」というものに違反している)がある訳で、当然お風呂・シャワーや服の洗濯などはかなり難しい(公共の水道を使ったりするにしても限度がある)のです。その様なことを無視して全員一律に「衣服を清潔に」などと言うのがどんなにおかしな人権侵害なのか、ここまで説明すればお分かりになるでしょう?
もちろん全ての今回問題になった張り紙に該当する人全てがそういう生存権すら脅かされる状況に居る訳では無いでしょう。人それぞれに色々な事情(その中には仕方がないと思える事情もあればそうは思えないものもあるでしょう)があるのです。問題はその様な人それぞれ色々ある事情を、一律に張り紙という形で対処しようとしたということにあるのです。もしその人の臭いを不快に感じるのなら個別に言って話を聞けば良い。この図書館では「直接声を掛けると角が立つ」などとほざいていますが、そんなの当たり前じゃないですか、角が立つ様なことを言ってるんだから。例えばもし自分が他人に「あなた臭いですよ」と言われたらどう思うか?当然頭に来るでしょう。そうである以上そういう注意をするのならば相手と喧嘩みたいなことになることは覚悟しなきゃ駄目でしょう。それが出来ない様な人間には(公人といえど私人といえど)他人を注意する資格など無いのです。相手と対話すること無しに「あの人は臭くてやぁねぇおほほほほ」とか言っている様な輩は僕は個人的には大嫌いなのですが、公共の基準において考えてもそのような人達は物事解決の為に対話などをしていない以上、何も強制力を持つ権限は無いのです。
そもそも「臭い」と言いますが、その臭いが本当に酷いものであるという保証は一体何処から出てくるのですか?臭いというものは極めて精神的なもので、客観的な基準などが存在しない(もしくはあったとしてもそれは到底万人の理解を得られるものではない)のですから、ただ少数の意見があったからと言って、それが本当に酷いものであるかどうかを判断できるものなのか?やはり実際にその臭いの元とされている人と会話してみなきゃ、その「臭いから何とかして欲しい」という要求が本当に妥当性を持つものなのかは分からないはずです。
今までのことだけでも僕はかなり腹が立っているのですが、、さらに憤りを覚えるのは「図書館を作るのに公的な書類を必要としろ」とか「住民税納付証明書の呈示義務を設けろ」とかそういう意見、というか暴言です。彼らはその発言から分かるように「ホームレスには図書館を利用する権利は無い!」という考えなのですが、しかし日本国憲法は全ての人に知る自由を保証しており、そして図書館はその自由を守る責任があるのです。
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<<図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
- 日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
- 知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
- 知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
- すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
- 図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
- わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
- すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。外国人も、その権利は保障される。
- ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
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本当に僕はこの「図書館の自由に関する宣言」は余り知られていないけど日本国憲法前文や教育基本法前文と同じぐらい名文だと思うのですが(*4)、とにかく、ここにも書いてあるとおり、「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。」なんであって、「すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。外国人も、その権利は保障される。」のです。誰も図書館を使う権利を制限することは出来ない、いや、あってはならないんです。住民税を納めてなきゃ入れないとか、証明書を必要にすべきだという主張がいかに馬鹿げているかはこれで分かるでしょう。かつて日本は国民の「知る自由」を抑制し、国民と全世界に多大な不幸をもたらしました。そのような過去を繰り替えさない為にも、図書館が利用者の選別・排斥を行うようなことは絶対にあってはならないのです。
さて、そんなわけで今回の騒動に対する反応が如何に酷いものであるのかについて、常識的な説明をこれまでしてきたのですが、しかし僕としてはこんな常識的な説明をしただけじゃ物足りなくて仕方ないのもまた事実なのです。よって、ちょっとここからは常識的な議論から外れて、僕独自のこの騒動に関する考えを示していきたいと思います。といっても当然そんなユニークな思想が僕に作れる訳もなく、色々な人の意見を組み合わせてるだけなのですが、しかし上記のことと比べてこれからの意見に反論の余地か山程あります。しかしここで勘違いしてもらいたくないのは、これから先に述べる意見を否定したからといって、それをもって僕の文章全部を批判できたと思うのは全くの間違いだと言うことです。これから述べる意見と上記の意見との間には連関関係は殆ど無いのですから。そのことをまず最初にきちんと示しておきたいと思います。
さて、そもそも今回の騒動では「臭い」が問題となっているわけですが、しかし実際人の「臭い」っていうのはそんなに不快なものなのでしょうか?もちろん僕だって近づいたときに「あっ、この人臭いがきついなぁ」と思う人は居ます。しかしそんな数時間一緒に居る訳じゃなく、たかだか数十分一緒に居るだけなのになんでそんなにぎゃーぎゃー騒ぐのか、僕には全く分からないんですね。
このようなことを言うと「『臭い』を嫌うっていうのは考えてることではなく肉体が生理的に行うものなんだから、幾ら説明したって分かんない人には分かんないし、分かる人には分かるものなんだよ。」と説明されるわけなのですが、しかし本当に『臭い』を感じるというのは純粋生理的なものなのであり、それはどうしようも出来ないものなのでしょうか?
これは僕は違うと思うのですね。例えば東南アジアやアフリカの状況を考えてみてください。彼らは家にシャンプーなどが無い家が殆どだろうし、日本みたいに一日一回風呂入るなんてことはしないでしょう。事実、そのような地方に旅行してる人は空港に降りた途端、「もわっとした空気を感じた」と良く言います。この表現には湿気や暑さなどだけでなく、臭いもきっと含まれているのではないでしょうか。
しかし東南アジアやアフリカの人がいつも臭いの為に他者と距離を取っているなんて話は聞きません。ては彼らと日本人の間には何か生理的な違いがあるのか?とんでも無い!第一、日本人旅行者も最初はその「臭い」に面食らいますが、やがて慣れます。ということは、「臭い」に対する感受性は決して純粋に生理的なものではなく、むしろ周りの人的環境によって変わるという意味では、社会的なものと言っても差し支え無いのではないでしょうか?
ではその社会的に構築された清潔志向(これは多分アメリカより輸入されたものなのだろう)は一体今の日本にどのような影響を与えているのでしょうか?これに対し藤田紘一郎教授はこの様なことを言っています。
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<<インドネシアの子どもたちや若者たちは、父母を大切にする。おじいちゃんやおばあちゃんを大事にする。病人にはとてもやさしい。彼らはごく自然にこれらの人々にやさしく振る舞うのだ。日本では、世の中でいちばん嫌いなものは「オジン臭」だと若者はいいかねない。時に年寄りや病人は「臭い」といって、老人ホームや病院に追いやられる。しかし、私が訪れたマカッサル周辺の村には老人ホームも病院もない。お年寄りも病人も同じ部屋に寝ている。でも誰一人「くさーい」なんて言わない。彼らの周りには、ウンチのにおい、オシッコのにおい、チョウジのにおいなど、いろいろなにおいが充満しているからだろう。これらのにおいが、加齢臭や老人臭など自然に発生するにおいを意識させないようにしているのであろう。
日本社会は、今、抗菌社会から消臭社会に突入した。しかし、においを排除していくと、加齢臭など自然の体臭が気になってくる。体臭は誰にもあるものだ。それを過剰に意識させ、だんだんとその度合いを強めていくと、ついには汗もかけない、息ももできない状況になってくるのではないだろうか。
日本社会の消臭志向は画一的な学校教育にも現れている気がする。制服を着せ、同じメニューの給食を食べさせている。運動会でも1等賞をとるような生徒はつくらない。個性はいわば体臭なのに、平等主義の旗印の下、脱臭に取り組んだりして、とにかく「目立たないように」努力している。そして、校則は「不純物」や「異物」の排除に精を出しているようにさえ思えるのだ。企業側も同じだ。建前はともかく、異物を嫌い、無臭の人材を求める傾向が目立つ。品質管理の面で世界にとどろく産業界は、人の面でも均質な規格型を求めるようになってきたのではないか。そして、さらに困ったことは、このような消臭社会はヒトにとって敵か味方かを見極めることなく、すべての異物を排除しようとする思想を生んでいるのである。
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この文は確かにちょっと飛躍している所や懐古趣味的な所も見受けられますが、しかし真実を多分に含んでいると思います。実際、この記事が載った8日後の2001年9月11日、アメリカ同時多発テロとその後のアフガニスタン空爆・イラク戦争(これらの戦いの殆どは掃討戦、つまり悪者の「掃除」でした)により、戦時下へと移行した日本を含む同盟国は、確実に異物排除の方向へと進んでいるのです。
更に僕がちょっと危惧しているのは、上記の引用文では日本社会はまだ「消臭社会」、つまり物体から臭いを消す社会という位置づけでした。つまり、悪い臭いを発する異物から、その臭いを消して無害な人間に変えるという、国家権力に置き換えると、悪い思想を持っている人間を良い人間に教育するという、規律訓練型権力なんですよね。しかし今回の騒動においてはそのような「臭いを出す人を強制的に洗ってその人から臭いを消す」という意見よりはむしろ「臭いを出す人をシステムによって入れない様にする」という意見、つまり臭いの発生源そのものが無い「無臭社会」を志向する意見が多かった。これを国家権力に置き換えれば、悪い思想を持っている人はそもそも最初にシステムから排除してしまうという、環境管理型権力です。(*5)
この無臭社会の最も恐ろしい所は、消臭社会ならばまだ他人を消臭する所はシステムの内部ですから、「ああ私達の社会は人を消臭してるんだな」という自覚が産まれるし、そしてその自覚から「その消臭って本当に正しいのかよ!」という、藤田紘一郎氏みたいな意見が出てくる可能性も一応担保されている訳ですが、しかし無臭社会においてはそもそも臭いを出すものはシステムの外部に置かれますから、「臭いを排除している」という自覚すら産まれず、その結果それに一定の歯止めを掛ける意見も生じ得ないのです。しかし藤田紘一郎氏の文にも書いてある様に、人間っていうのは生きている限り必ず「臭い」を発します。「人間は臭いだ」と言ってもそれほど間違いでは無いでしょう。ということは、臭いを排除する社会は歯止めがないままどんどん進めば必ず全ての人間を排除する社会となるのです。まず最初は社会的弱者であるホームレスや障害者から、そして次には女性や子供、そして最後には全ての人間をシステムから排除し、そして無人でただひたすら「臭いを排除する」という目的を遂行するシステム。このような悪夢が現実のものとなるのかならないかは、まさに今、この騒動に対してどの様な対処をするかに掛かっているのでは無いでしょうか?
この日へのコメント
排除をどう考えるかは議論は尽きないところかと思いますが、例えば例に引いている、インドネシアの場合ですと、新生児の死亡率は格段に高いかと判断できるかと。当然、新生児の死亡率と公衆衛生状況はリンクするのではないでしょうか? 仰る通り、日本は環境管理型権力が強いと創造されますが、一方でその環境管理型権力が、アジア圏では、新生児死亡率が最下位、という実体も議論の枠組みには入らないのですかね……。
以下、孫引きですけど、アジアの新生児死亡率データです。
http://dataranking.com/table.cgi?LG=j&TP=po06-2&RG=4&FL=