語ってみよう。
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そりゃ確かに表層だけ見てれば、彼らの苦しみの原因は「非モテ・非コミュの人々に社会的差別が生じており、そのせいで彼らの内に劣等感が生まれる」とか「コミュニケーション能力によって階級が決まってしまう」という社会的なものに思えるし、またそのような言説はその処方箋として「非モテ・非コミュこそ偉いのだ!」とか「コミュニケーション能力以外のものをもっと重要視しよう」という風に、非モテ・非コミュらにアファーマティブ・アクションなどの具体的利益を与えるものだから、実際当事者である非モテ・非コミュにも支持を得やすいのも当然でしょう。
しかしだからといって「当事者の支持を得る=当事者の問題の真実を言い当てている」と思うのは浅はか。もちろんその様な等式が妥当性を持つ場面もあるにはあるのですが(*1)、しかし少なくとも、このインターネットコミュニティの様に各々が他者に強制する権力を持たない自由な討議の場に問題がある現段階では妥当性は持ち得ません。(*2)
大体「社会的差別」と言いますが、そもそも人とコミュニケーションとりたくないんだから、本当は自分達が差別されていることなんてどうでも良い事でしょう?そりゃ確かにTVなどマスメディアでは毎日「コミュニケーションが大事だ!」というメッセージが流れていますよ。でも別に他人と積極的にコミュニケーションを取ろうとしないんだったら、別にTVとかにマジになる必要も無いはずでしょ。「マスメディアで毎日『コミュニケーションが大事だ!』と言っている」ということは、コミュニケーションにあらかじめ乗っている人にとっては、生活を圧迫化する強迫観念ということで問題になりますが、非コミュにとってはそもそも問題にすらならない筈なんですよ。
そしてこれは非モテにも言えます。「自分たちは恋愛に疎外され、そしてさらに恋愛から疎外されている!」と、エセマルクス主義の非モテは言いますが、別に恋愛しなくたって生きてはいけるでしょうに。一体何処に疎外があるのか?「職場・学校で自分が『非モテ』であることによって嫌がらせ・いじめを受けたんだ!」そういうことは確かにあるでしょう。しかしそれはいじめ問題であって、非モテ問題ではないのです。何故なら「非モテ」はいじめの口実にしか過ぎないのですから。(要するに「おしっこ漏らした」とかと同じなんです。確かに「おしっこ漏らした」ことによっていじめにあう人は居るでしょう。しかしだからといってじゃあおしっこを漏らさなかったり、おしっこを漏らした人間を差別しないようにすればいじめが無くなるかといえば、そんなことは全くないのです。だから別に「おしっこ漏らした」人達が「非モテ」の様に自らの存在を規定するものがそこにあると考えることはありません。しかし「非モテ」の人達は「非モテ」によって自らを規定しているわけですから、そこから導き出される結論は「いじめが非モテが問題化される原因ではない」ということなのです)。
また一部の非モテは自分達の問題を「女が非モテを差別する社会問題」として捉え、そしてそれ故に父性復権論や反フェミに荷担します。しかしこれはとても馬鹿らしい無意味な動きであると言わざるをえません。非モテの一部は「上野千鶴子が童貞を差別するような発言をした」ということを根拠(*3)に、まるで彼女達フェミニストが自分たちを不幸にしているという様な主張をします。けどじゃあ、あんたら非モテの周りで、そういうフェミニストの言動を聞いてあんた達を差別している人が一体如何ほど居るのか?一人居れば良い方でしょう。幸か不幸かは別にして事実を言えば、彼女らラディカルフェミニストの主張を支持している人は極僅かです。何せ知っている人自体少ないですから(*4)。
非モテが苦しい理由をフェミとかジェンダーフリーに求め、そしてそれ故に父性復権論や反フェミに荷担する「俗情との結託」は、確かに一時的には(自らを運動の中に置く事によって、その激しさで)非モテの苦しみを和らげるかもしれません。しかしその裏で非モテの真の問題点はかき消されてしまうのです。ですから決して根本的な解決策にはならず、むしろその運動が「トカトントン」という音に乗って去っていった後、より深い苦しみを非モテにもたらす事になると、僕は予想します。
では非モテ・非コミュの真の問題点とは何なのか?それを考えるには、表層だけを見ていても仕方がありません。「コミュニケーション」・「恋愛」の根っこには一体何があるのか?それを分析し、そしてその根っこが非モテ・非コミュの場合にはどうなっているか、それが重要なのです。
人間の全ての行為というのは、突き詰めて言えば、全て誰かの(この「誰か」には自分も含む)幸福を得る為に為されると言って良いでしょう。他人を不幸にする行為ももちろんありますが、それは他人の不幸によって又別の誰かを幸福にするからこそ為されるのです。
しかし当たり前のことですが幸福には実体はありません。そりゃ確かに脳レベルの話をすりゃエンドルフィンやら何やらかんやら出るかも知れませんが、それは殆どの場合「幸福」の結果出るものです。幸福とは思考によって決定されるのであって、ではその思考とは何によって規定されるかと言ったら、それはその人が教えられた価値観によって規定されるのです。
つまり簡単に言えば「『これが幸福だ』と教えられたこと=価値観が、その人にとっての幸福となる」ということです(なおここで「そうなら答えは簡単だ。人々は『恋愛』・『コミュニケーション』が幸福なことだという価値観を教えられたから、『恋愛』・『コミュニケーション』が幸福だと思うのだ」と言う人がいるかもしれませんが、それはちょっと違うと僕は考えます。何故なら「恋愛」・「コミュニケーション」には「不幸な」という形容がつくものもあるからです。もし「恋愛」・「コミュニケーション」そのものが幸福だとしたら、どのような「恋愛」・「コミュニケーション」にも無条件に肯定されるはずです。しかし実際はそうではなく、「恋愛」・「コミュニケーション」ににも適切なものとそうでないものがあります。ということは、それは「幸福」への方法であって、目的ではないのです)。
そでは今の社会はどのような価値観を人々に与えているか?これの答えはただ一つ、「日常」です。つまり「なんとなく生きていく」ことを幸せに感じ、「日常」を肯定する。未来に希望を抱くのではなく、この今生きている現実を愛せ、それが幸福なのだから……これが今の日本を支配している価値観なのです。ここで重要なのが「これは現在の特殊な状況である」ということです。昔だったらその答えは「未来」でした。つまり未来がより良き社会になる。それが「幸福」であり、全ての行為はその為に行われたのです。そしてその未来がどんな良き社会なのか規定するのがマルクス主義だったり近代主義という「大きな物語」だったのです。しかし今は違います。何せ何が「良いこと」で何が「悪いこと」なのか、それすら分からなくなってしまったのですから、当然「良き未来」なんてものも想定することが出来なくなります。そういう社会で、それでももし人が生きていくとしたら、その方法はただ一つ、「今が良いんだ!」と言うことだけです。それ故に今の社会では「日常」というものが、殆ど唯一無二のものとしての地位を占めるようになったのです。
そしてそれ故、あらゆる社会問題もその価値観に沿って話されます。例えば憲法九条にしたって、実は九条を変えたい人も変えたくないひとも望んでいることは同じなんです。「今のこの平和な生活を守ること」、ただそれだけです。ですから彼らの違いは方法の違いに過ぎません。「平和を守るためには憲法を改正して軍隊を保持すべき!」なのか「平和を守るためには憲法を改正しないで軍隊を持たないべき!」なのか、九条にまつわる対立というのは、結局その二つの方法の違いに過ぎないのです。
そして実はその「日常」というものの絶対的な支配こそが、この非モテ・非コミュ問題の根幹なのです。人というものは―生きている限り―例えどんなにコミュ二ケーションが嫌だったとしてもそれをしなければなりませんし、また人というのは自分の死をあらかじめ知っている(しかしそれによる「終わり」を認めることが出来ない)生き物ですから、自分が死んでも「日常」が動き続けるのを確信しなければならず、その為恋愛によって「日常」が相続できる他者を獲得しなければならないのです。しかし非モテ・非コミュにはそれは出来ないのです。故にこの大きな物語が崩壊した世の中で、ただ一つ唯一無二の物として信仰するに耐えられる強度を持った「日常」価値観を肯定出来ず、幸福へのアクセス方法を失ってしまう。これこそが非モテ・非コミュの真の問題点なのです。もしこれが昔だったら、非コミュが嫌な様なコミュニケーションが存在しない未来を想定したり、自分が死んだ後に素晴らしい未来が来ると妄想したりすれば彼らも幸福になれたのですが、しかし今はそうではない。「日常」を否定する輩には、決して幸福の女神はほほえまないのです。
では一体どうすれば非モテ・非コミュ問題は解決するのか?一旦問題が何処にあるのか分かった以上、話は簡単です。要するに彼らの敵は「日常」のみを幸福とする価値観なのですから、それを攻撃し、その価値観の悪魔性を暴く(*5)こと、それこそが非モテ・非コミュ闘争の第一歩でしょう。しかしそのようなことをしている人は全くと言って良いほど居ません。多くの人は、非モテ・非コミュ問題を解決したいのだけれど、その方法が分からずに安易に既存の政治勢力の支持を行ったりします、しかし先ほども述べたとおりこの「日常」絶対主義社会ではあらゆる社会問題が「日常」価値観の元での方法の問題とされますから、当然既存の政治勢力も全て「如何に日常を守るか」しか考えません。そのような人達に非モテ・非コミュが与することは、自分たちの敵を利すること以外の何物でもありません。非モテ・非コミュは既存の勢力に縛られることなく、自分たちの言葉で、自分たちの主張をしなければならないのです。例えば憲法九条問題に関して言うならば、「確かに憲法九条が無くなれば軍が持てて防衛力により自国の平和は達成出来るかも知れない。しかしその影できっとこれからも発展途上国の間で戦争は続くだろう。そんなのは嫌だ!我が国は―例えそれが自国の今の平和に悪影響をもたらし、一方的に侵略され悲惨な目にあったとしても―捨て駒となって平和への流れを作る!」という意見があっても良い(*6)のです(そして僕はこの観点から護憲を選ぶ)。改憲派にしたって「人類は戦争によってしか発展できない。私達は戦いを望む!」とか「私達は真の世界平和の為には世界を一つにしなければならない。そのためには他国を支配する力が必要なのだ。」という意見があってももちろん構わない。それらの意見が現実的かどうかはどうでも良いのです。何故なら私達は「現実=日常」によって苦しめられているのですから、そこから抜け出し私達が望む「非日常」は、当然「非現実」的なものになるのです。
もちろんこの様な意見を打ち出すことに対して不安を抱く人も居るでしょう。「非モテ・非コミュは数で言えば圧倒的に少数なのだから、そんな戦いを挑んだって叩きつぶされるだけでは?」と。しかしそんなことはありません。確かに非モテ・非コミュという枠で括るならば数は少ないです。しかしそれは非モテ・非コミュという表層現象で括るからいけないのであって、そうではなく「反日常」という枠組みで括るならば、その数はかなり多くなりますし、闘いも既に海の向こうで始まっているのです。フランスでは「日常」勢力へのレジスタンスが始まりました(id:rir6:20051113:1131824449)。僕はあえて断言しますが、このような動きはこれから世界中で起こるでしょう。それはある意味では「共生」の崩壊でもあります。しかし個人の自由に例えどんな形にしろ格差がある「共生」など崩れて当然だったと僕は考えます。これから先の闘争が一体いつまで続くか、それは僕には分かりませんが。それによって例え今日の「日常」が崩れたとしても、それを悲しむ必要は全く無いのではないでしょうか?
(大分最初の文とは違います。あと『オトナ帝国の逆襲』批判は本当に声を大にして言いたいことなので別記事で改めて取り上げます。)
*1: 要するにこの図式って「お前が望んだんだから文句を言うな」という自己責任論だからね。そりゃある場面では妥当性を持ちますよ
*2: 要するに、「今はまだ何かを決めるんじゃなくて、現象について考えている段階なんだから、もうちょっとそれが正確かどうか考えて見ようよ」ということです。
*3: 僕はこのソースが何処にあるのか全然知らないから、これが事実なのかどうかについても判断出来ません
*4: 上野千鶴子とか田嶋陽子とかの名前を知っている人はそこそこ居るかも知れないけど、彼女らの本を読んだ事あるという人は、学校みたいな環境を除けばあまりいないだろう
*5: 例えば「その日常は屍の上に立っている!(id:rir6:20041124:1113764820)」と叫んでみたり
*6: asin:B0001A7D0O:titleはまさにそういう話だった。この話は反戦という共通核から既存の九条護憲派にも受けましたが、しかしこの作品のメッセージは正面から受け取れば彼らは(この作品の「立場」には共感できても「メッセージ」には)全く共感出来なかった筈なんですけどねぇ(まぁ本当の悪は作品のメッセージを受け取ることが出来ずに「効果音がさぁ……」とか訳の分からないことを言って日常に逃げようとする奴らなんですけど)。既存の九条護憲派は要するに「自分たちが幸せになればそれで良い」ですけど、この映画のメッセージは「誰か一人が幸せになって、それで終わりじゃだめなんだ。」なのですから