http://slashdot.jp/articles/07/06/29/0357211.shtml
僕は、この話を、「寝てはいけないところで、居眠りをした人間が、そのことを原因に、コミュニティから排除された話」として解釈した。
そして、とても悲しい話だなと思った。
もちろん、排除した側の言い分も分かる。要するにそんなことをしていたら来場者に失礼だというのだろう。この問題となったイベントというのは、オープンソースに関係する団体や企業が、展示やセミナーを行って情報交換するという、とてもコーショーなイベントだったそうで、まぁそういう所で寝てたりするというのは、そのコミュニティの評判を損なうのだから、とてもいけないことなのだろうなというのは、理解出来る。
だから、別に排除した側が悪い人だとは思わない。いや、むしろ彼らはコミュニティを引き締め、よりコミュニティの構成員をそのコミュニティの目的の方向に向かわせられるようにしたのだから、とても目的合理的な「良い人」たちなのだろう。
ただ、僕はーそれが至極本末転倒な議論だったとしてもー思ってしまうのだ。そういう風に目的に向かおうとしない「悪い人」を排除して、そしてそれにより目的を達成したとして、それに一体何の価値があるのかと。いや、価値はあるんだろう。むしろ、無用な人を囲い込んで目的を見失う、そんなことになる方がそのコミュニティは価値なきものになると言う人の方が圧倒的に多いだろうし、それ故にそのような判断が多数決で是認される訳で。そして、何に「価値」があるのかを決めるのが、世の中の多数派、所謂社会である以上、そんな無用な人を囲い込もうとすることは「価値のないこと」であり、そのような人を排除するのは「価値のあること」なのだ。
ここで僕はある議論を思い出す。それは、つい最近まではてな界隈でよく論じられていた、「サークルクラッシャー」という存在にまつわる議論だ。
「サークルクラッシャー」というのは、要するにそのサークルに入り、その中恋愛関係の揉めごとを起こして、最終的にそのサークルを壊してしまう、そんな女性のことで、議論では、そういう人間を如何に排除し、サークルを守るかが、論点となった。きっと、そういう論議をすることは、サークルを運営する人達の間では、極めて「有意義」な議論なのだろう。
でも、僕はそのように「有意義な」議論であるにも関らず、そのことに極めて嫌な感じを抱く。そしてこう問いたくなる。「そんなある人を排除するようなサークルに存在価値は無い!サークルは、来るものを拒んではいけない。例え、全ての来るものを受け入れて、その結果サークルが壊れてしまうとしてもだ!」と。
もちろん、この問いは矛盾している。壊れてしまうもの、存在しないものに価値なんかない。例えどんなに理想論を掲げたとしても、実在できなければ、その理想はクズでしかない。
でも、僕はそれでも、そんなクズみたいな理想に憧れてしまう。そして、その理想を実現しようとしない人達を見て、吐き気を催す。
もちろん、僕だって幼児ではない。どんな理想を掲げるにしても、その理想は、「生存」の枠内に収まらなければならない、という条件から逃れることは出来ない。そして、生存とはつまり、目的に合致するものだけを「価値あるもの」と認め、目的に合致しないことは「価値なきこと」と排除することなのだ。
つまり、排除のないコミュニティなどというものは、「生存」できないのであって、それ故に「存在しない」。
全ての人を拒まないコミュニティがもしあったらどうなるか、ちょっとでも考えてみれば分かることだ。まず「お金」の問題が出てくるだろう。つまり、お金の管理にルーズな人が、勝手にお金を持ち出したりする。そういう人を排除しなければ、コミュニティは絶対につぶれる。他にも「士気」、「恋愛」、「ヒエラルキー」など、様々な問題が思い浮かんでくる。そしてそれは、「コミュニティが存在する事自体がコミュニティの目的」だったとしても、必ず出てくることであり、逃れることはできないのだ。
だから、僕達は、生きている以上、そのあらゆる場面で目的にそぐわない他人を排除する。そして、それ故に、自分も排除されるかもしれないということに恐れ、自分を目的に合うようにしなければならないと思い、努力する。もしその努力を怠れば、待っているのは排除だ。適者生存。不適合者は排除の上消去。なんて地獄なのだろう・・・
でも、それが世界の真実であると知りながら、僕は不可能な夢を見る。
誰も人を排除しようとしない。真面目な場所で、不真面目なことをやったとしても、それを咎める人が誰も居ない。というか、真面目/不真面目という境界線自体が消滅している。故に、コーショーなものなど存在しない。全てがおふざけであり、何をしても許される。他人から強いられるルールなど存在しない。故に、そのルールを破ったものを排除するというようなことも、また存在しない。目的などというものもまた存在しない。故に、「目的に合致するもの=偉い/目的に合致しないもの=悪い」などという区別も存在しない。行為に対する評価などというものは消え失せ、全ての人は、生きているだけでその存在を全ての他者から承認される・・・
もちろん、こういう夢が過去にどれだけ悲惨なことを産み出したかはよく知っている。だから、これが夢だということも、よーく知っている。だから悲しいんじゃないか!
このエントリは、僕的にはid:Rir6:20070702:1183311343の続きだったり。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070623/1182580528
なんである種の思想系の人というのは、合理主義を敵視するのだろうか。それは論理的錯誤だし、愚策でしかあり得ない。政治的利害が対立している相手と意見の相違があるとき、しかも相手が合理主義者であれば自分は不合理主義を信奉する、なんていうことは、それこそ相手に囚われているのです。合理主義者に勝ちたかったら、自分がもっと合理主義に徹するしかない。
利害の対立が問題なんじゃなくて、「合理主義」そのものが敵なんですよ。要するに、合理的でないものを排除することによってしか成り立たない、私達の「現実」、それこそが嫌いなんです。
問題を単純な正義感で解決しようとすると、かえって状況は悪化する。その実例は歴史に山ほどあろう。
(略)
「思いて学ばざれば即ち胎し」の典型のような文章を読んで、ああ、おそらくはこういう「正義感」を当初は抱いていた青年たちが、クメール・ルージュや、文化大革命に参加していったのだろうなと思うとちょっと絶望的になったりもする。彼らは歴史から学ばないのだろうか。いまある世界がこうなるに至った歴史そのものを否定するには、やはり歴史から学ばなければならないだろうに。
と書いてるけどさー、歴史から学んでないのはむしろあんたたちじゃないの?幾ら経済が発達して、豊かな国になっても、そういう風な青年たちが出てくるってことは、やっぱり資本主義システムのどこかにそういう人間を産み出す回路があるってことなんだから。それを無視して、ただいたずらに「経済が発達すりゃあ全て解決する!」なんて、壊れたプレーヤーみたいに繰り返す方が、よっぽど歴史から学ばない行為だと思うよ。
経営について、それらがまるで賎業であるかのように論じる人たちは、実は内心、いくらか大衆蔑視、衆愚意識とそこから得られる優越感に陶酔しているのではないかと思うことがある。特に人文系にはたまにそんな人がいる。彼らは「眠れる大衆よ目覚めよ」などという。自分は既に目覚めており、周囲の衆愚はまだ愚かであるという独善的な意識が透けて見えるのは僕の錯覚なのだろうか?
おー凄い暴露だぁ。まさに「王様は裸じゃないか!」って叫ぶ子供だね。本当に、お利口なこった。
で、その暴露は、王様に聞き入れいられたの?
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070702/1183371975
やっぱり小沢氏の議論は非常に粗雑で、論理的に支離滅裂であるのみならず、彼の言葉が現実に影響を及ぼしたとしたら、そもそも小沢氏のヴィジョンの実現に対しては逆効果であろうと思います。
じゃあ、もし何も影響を及ぼさなかったら?
「いまあるシステム」全部を否定して代替案の提示をせずにただ現状を変革しようとすることは、破壊運動でしかないと思いますが。
「破壊運動」だって!そりゃ大変だ。僕らの社会が壊される!いますぐ彼らを改心させなきゃ、僕らの生活が破壊されちゃうよー。
・・・まぁ、彼らが持ってるのは「ピコピコハンマー」なんですが。
まず社会を敵と味方に分け、社会の問題の原因はあたかも自分以外の他者に外在的にあるかのようなレトリックを巧みに展開し、敵と味方が行為として同じことをしていても向こうは悪でこちらは善だ、と弁別するのははっきりと二重基準ですが、それは「普通の人々」の耳に心地良い。でもそれは、具体的な問題について「もっといい解があるはずだ」と架空の理想を提示して抽象論で攻撃するという極めて安易な論法で、しかも「自分は目覚めている」という甘美なナルチシズムを存分に味わうことができる。
なるほど。彼らは「夢」を見ている。だからその夢を覚ますのは私達の責務だと、そう言いたい訳ですね。ほんと、大変に責任感ある「大人」の行動でありますこと。
で、その「夢」が醒めた後、彼らは現実を見て、何を思うのでしょうね?
なんでくどくどこういう問題に僕がこだわるかと言いますと、僕が大学で教えていて、時折学生の一部から「そもそもビジネスはお金儲けを追求する悪ではないのか」という疑問をぶつけられるからです。それへの反論をここで書くとまた膨大になるから今日は書きませんが、少なくとも我々の社会はビジネスの存在によっていまあって、それを続けるにしろ、そこから脱するにしろ、実効性があるのは「現実の問題を考えること」であって、それにつながる道程として「まず概念から整備すること」を考えよう、そう学生にも説明をしようと僕は思っていますが、小沢氏が展開されているような架空の理想論を以て現実の複雑なシステムを部分的に論難することは、それとは違うと思います。
で、その説明で学生は納得しましたか?ま、ちょっとでも根性がある学生なら、納得しないと思いますが。
僕はこの小沢とかいう人のことは全然知らない(あ、スチャダラの「今夜はブギーバック」は聞いたことあるか)し、「企業的な社会・セラピー的な社会」とかいうのも読んだことないから、実際その文章がどんだけDaydream believerなのかは知りませんが、まぁ、このid:fuku33の話によると、相当アレな話だそうです。
でも、そうだとして、一体何の問題があるのか?正直アタマの悪い僕は全然理解出来ない。
要するに、この小沢氏が語っている話っていうのは、全然実現可能性のない、誇大妄想なわけでしょ?だったら良いじゃん。好き勝手にやらせときゃあ。
id:fuku33氏はクメール・ルージュとか文化大革命とかの例を出して、「こういう歴史を学べば、自分のやろうとしていることがどれだけ愚かか分かるはずだ!」とセッキョーしてるけど、正直今の日本でそんなカクメイだかなんだかが起こるのを真剣に恐れるなんて、どんだけ妄想力が豊かなん?と嘲笑いたくなる。
というか、むしろそういう歴史から学ばなきゃならないのは、彼らじゃなくて、むしろあんたらじゃないの?。だって、そういう歴史が後生の人達に教える教訓っていうのは、結局
「どんなに社会が変化したって、そういう正義感だけ肥大して頭の悪い反合理的な若者たちは出て来る」
ってことなんだから。
id:fuku33はそういう人達が反合理主義に走ることを、それが「決して目的を成就させない」というところから批判するけど、僕からすればそれは全く批判になってない。だって、彼らが反抗しているのは、まさにその「目的が達成されなければそれはクズである」という価値観なんだから。
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20060405/p1より
このようなひどい生活に何故みんな耐えられたのか。オウムにおいては、難しい指示はどんどん出されるものの、結果と責任が問われることはほとんどなかった。たとえば「うっかりミス」で資材の発注を忘れ、みなで取り組んでいる工事に大幅な遅れが出したとしても、ミスをした人間が責められることはまず無かったという。スケジュール的に無理な指示を結局こなすことができなくとも、とにかく取り組んだのであればそれでOKであった。
(略)
要するに、「ワーク」はあくまで、取り組むことによって自分の修行を進めるためのもので、とりあえずの結果は問題にならないというメタな視点を教団全体で共有していたわけである。人によっては「そんなの所詮ごっこじゃないか。なんの意味があるのか。つまらねー」と思うだろう。しかしけっこう多くの人は、特に仕事で挫折を経験したことのある人は、「そーゆーのうらやましいなあ、楽しそうだなあ」と思うのではないか(僕は思いました)。
僕は、オウムの人達っていうのも、まさに上記で述べたような、アレな若者たちの集団だったと考える。
そして、そうである以上、そういうアレな人達に対して幾ら「現実を見据えなければ理想は達成出来ない!」とか「もっと実効性のある提案をしろ」とか言ったって、そんなの効果あるわけないんですよ。だって彼らは、そもそもそういう現実に合致しなきゃならないとか、実効性がなきゃいけないとか、そういう価値観が嫌で、そういうアレな人達になったんだから。
宮台ー稚拙か巧妙かという差異は、社会の中に留まる限りでは重要ですが、社会の外に突き抜ける龍社会的存在にとっては意味がない。要は「彼岸に行っちゃう」子が増えたんです。じゃあ彼らに対して此岸に留まる利益を我々が示せるかというと、絶望的に困難です。
[asin:4924718416:title]
このような若者たちに対して、id:fuku33のセッキョーは、あまりに遠い。
そして、その点から言えば、むしろ小沢氏のアクションの方が、id:fuku33のセッキョーより、そういうアレな若者を、社会に留めていると、僕は思う。
だって、彼が言ってることって、結局単なるロハスでしょ?そりゃ確かに文面をそのまま受け取りゃあ過激なコト言ってるかもしれんけど、でも彼らにはそれを実行する行動力なんて微塵もない。彼らに出来ることといったら、それこそ何か石鹸とかで服を洗いましょーとか、コーヒーはフェアトレードのコーヒーを飲みましょーとか、そんな程度のことでしかない。というか、それによって彼らは、その彼らが忌み嫌う資本主義システムに、立派に貢献してるんだけどね。
でも、それに彼らは気づくことはない訳よ。彼らは現実においては立派に資本主義システムに貢献しながら、しかし「夢」の中では、資本主義と闘う正義の戦士で居られることが出来る。もちろん客観的に見れば、それによって彼らは牙を抜かれ、破壊運動すら起こすことの出来ない、ぶっちゃけて言えば資本という神に服従する臣民にされているんだけどね。
小沢氏が、もしこういう構図に自覚的だとしたら、彼はとてつもなくクレーバーな人間だと思うよ。合理性や現実を憎むアレな若者たちに対し、自意識においては資本主義と闘争しているという「夢」を見せることにより、肥大化した正義感を満足させ、そして行動の水準においては、反抗=破壊を抑えるどころか、見事にそういう人間を資本主義社会に貢献させている。
もちろん、小沢氏がこういう構図に自覚的でない可能性も(極めて小さいけれど)ある。ただ、そうだとしても、行為の水準においては、彼がこの資本主義システムに重要な貢献をしているというのは、紛れもない事実だ。少なくとも、何も効果を産み出さないid:fuku33のセッキョーよりはね。
如何に論理的な文であろうと、それが人を動かさなきゃ、その文にはいかなる価値もない。逆に、如何に非論理的な文であろうと、それが人々を良き方向に動かすのなら、その文章は価値がある文章なのだ。
もういちど問おう。
小沢氏の文章は、それが如何に非論理的で、その文面が破壊を賞賛していようと、その文が公開されるという行為作用の水準においては、立派に経済活動を行う人間を産みだし、資本主義システムに貢献している。
では、それに対して、とても論理的で建設的なid:fuku33のセッキョーは、一体何を産みだし、どんな形で資本主義システムに貢献しているのかね?
id:fuku33氏には、この問題に触れないことも出来た。「わたしは経営学者ですからこういうことは専門外のことです」と答えてもよかったし、浅田氏がオウムに対して述べたように
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20060616/p1より
●オウムは単にくだらない
浅田 ただ、僕は大塚英志と違って、おたくを象徴するといわれる宮崎勤事件はもちろん、連合赤軍事件だってたんにくだらないと思う。落ちこぼれの馬鹿が誇大妄想にかられて暴走したら、ろくなことにならないというだけのことでしょう。あんなものがその世代を代表しているとか、その世代の人間は自分の問題として引き受けなければならないとか、そんなの冗談じゃないと思う。オウム真理教事件だって、まさにそれと同じ程度にくだらないと思うので、それは社会問題ではあるかもしれないけれど、宗教や思想の問題ではない、
(中略)
オウム真理教に知的エリートが集まったということが強調されているけれど、それは違うと思うんで……。
(中略)
偏差値が高いということと、エリートだということは違うからね。偏差値だけは高くて大学には入ったけど、大学でも社会でも使い物にならなかった人が、ああいう宗教もどきに走っただけです。
浅田彰vs.中沢新一 「オウムとは何だったのか」 『諸君! 1995年8月号』(文藝春秋)所収
「そんな小沢氏が何言ったってこの資本主義システムが壊されるわけないんだから、そんなのくだらない」と言うことも出来た。
でも、id:fuku33氏はそうはせず、この小沢氏の文章に真っ正面から闘いを挑んだ訳だ。
とするならば、単に「学問的に正しい」文を書くだけじゃあ済まないことになるだろうってことは、当然理解してもらわないと困る。id:fuku33氏は、小沢氏の文章を批判することによって、また、小沢氏の文章が射程に入れていたアレな人達の価値観をも、批判した訳なのだから。その時点でid:fuku33氏は立派に価値観闘争の世界に殴り込みを掛けた訳だ。とするなら、そこで問題となるのは、もはやその発表する文が論理的に正しいか否かなどではない!問題となるのは
「それが実効性を持つか否か」
だ!
そして、その観点から言うならば、id:fuku33氏の文章は、はっきり言ってクズ以外の何者でもない。何しろ彼は、価値観が問題になっているにも関らず
価値観まるごと、フレーム全体を問題にされるならば、後はもう、お互いが宗教だと考えるべきかも知れませんが。
と、価値観に対して語ることを放棄しているのだから。どんなに論理的であろうが、問題の所在を間違えた文章は、その問題の文脈ではクズなのだ。