これ、面白いなぁと思うのは、「我思う、ゆえに我あり」という命題(なの?)の解説で
後世への影響
- スピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している。
- アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。
- 木城ゆきと原作の漫画『銃夢』において、自分の思考さえも集積回路のチップによって統制されているためにこの命題すら気休めにしかならない、と木城が書いている。むろん、「自分の思考さえもそのようになっている」と疑うそのことが自明である以上、この命題そのものの妥当性が失われているわけでは全くない。数学の正当性(5-1=4は実在するか?)すらも悪霊の仕業かもしれないと疑うなど、デカルトの方法的懐疑は極めて徹底的であり、木城の指摘はあまり正確とはいえない。
という風に、有名な哲学者とかと一緒に、『銃夢』なんていうマンガ作品が並列されているということ。
もちろん、こういうことが、それこそ伝統的な哲学学者から見たら「これだからインターネッツは……」ということになるのだろうけどさ。でもやっぱりの面白いよこれ。サブカルチャーと伝統的学問が表面上は一緒くたに並列されて列記され、等価に扱われるっていうのは、まさにインターネットだからこそ生まれる発想だろうし。
もちろん、wikipedaiを“普通の”百科事典にしたい人からすれば腹立たしいんだろうけど、でも僕から言わせれば、せっかくインターネットで百科事典を作ろうっていうのに、そんな普通のつまんない百科事典作ってどーすんのって感じ。いいじゃん、「コロニー落とし」とかが詳しく載ってても。それが人々にとってはほかのことより重要だってことなんだから。
ただ、これを「正典」として読む人が居たら、それこそ問題なんだろうけど(*1)。
*1: だから、wikipediaがこういうインターネット百科事典を独占しているのは、良くないと思う