id:Rir6:20070731:1185866385の続き
実は、前の記事では触れないようにしていたタームがあって、それは「希望」です。
というのも、僕は「未来」=「希望」ではないし、「未来」はなきゃいけないものだが、「希望」は別に存在しなくても良いと考えているのです。
そこらへんの所があまり良く分かられなかったと思うので、追記。
例えばid:essa:20070731:p1では
お肌の問題に悩んでいる女性にこんなことを言うのは明らかにコンテキストがずれている応答なので、その時は無茶苦茶な夫婦喧嘩になりましたが、折に触れ、そういうことを一年くらい言い続けていたら、ある時突然、これと言ったきっかけもなく「今の若者には『未来』が無いんだ」ということをストンと理解しました。
と述べた後に、それが
若者の絶望感を語る
言葉であると表現します。
要するに、この記事では
であり、そして当然その反対として
なのです。
でもこれが僕にはよく分かんない。例えば僕なんかは、先の記事で述べたように、「あなたに未来はありますか?」と問われれば、「あるでしょうね」と答えます。でも、じゃあ「あなたに希望はありますか」と問われると、「それは別にないよ」と答えるし、もし希望が無いことを絶望というのなら、僕は、絶望はしているのでしょう(だから、id:dacs:20070731:1185892999のまとめ方はちょっと違うと思った)。
が、一方で僕はこう思うんですね。「絶望して、何が悪いの?」
こう書くとまた「若者が無気力になっている・・・」とかいう若者論の餌食になりそうですが、僕はそもそも「全ての人は『希望』を持ち、それに向かって邁進しなければならない!」などという考え方自体、古い物だし、人を不幸にする考え方だと思ってます。
何故なら、それは結局は、今の自分を未来の自分の奴隷にし、その未来の自分によって今の自分の存在証明を先送りにする、そういう考え方だからです。
そりゃ確かに「希望」を持ってりゃあ生きるのは楽ですよ?「将来自分はお偉い先生になるんだ」と思えば、自分が何でこんなつまんない勉強をやっているのかも理由付けできるし、「将来子供が良い学校に通えるように」と思えば、それこそ単調で退屈なサラリーマン労働に耐える理由付けになるでしょう。
でも、僕から言わせれば、そんなの「『幸せになる』ことから逃げてる」ようにしか思えないんですね。そしてその逃げることによって、その人は今の自分を傷つけ、不幸にさせているわけです。
逆に言えば、もし「希望」を持たなかったら、人は真剣に今の自分が幸福になるにはどうすれば良いかを考えるでしょう。例えば僕は、前にも述べましたが、大学を出た後の進路について全く考えていません。将来において幸せになれるかどうかなんていうのは、どうしたって不確定なんですから、そんなこと考えたって何にもならないし、第一面倒です。
でも、だからこそ僕は、どうしたら今の僕が幸せに生きれるかを真剣に考えられる。「希望」という逃げられる場所がない以上、常にその時点で幸福になる道筋を考えなきゃならない。でも、だからこそ「希望の自分」などというものに逃げずに、今の自分が、自分にとってあるべき姿で生きられていると思えるわけです。そして更に言えば、未来自分がどうなろうとも、そういう風に、「今の自分」が幸せになる方法で生きていると、確信できるわけです。
これを、もっと社会全体に敷衍して考えれば、希望社会と絶望社会という風に分けることが出来るでしょう。
「希望社会」とはまさに、今までの日本のありようです。「明日の日本のために頑張ろう!」をスローガンに、ひたすら長時間労働をし、人々を病気にし、色々な意味の「遊び場」(*1)を奪ってきた。
確かにそこに「希望」はあったでしょう。そしてその「希望」へのノスタルジーが、ある面で昭和ノスタルジーとなるのかもしれないし、また別の面では「その頃のような待遇を私達現在の若者にも!」という、赤木氏みたいな反動的若者(*2)の発生につながねのかもしれません。
でも、僕から言わせれば、そんなのただのマゾヒズムです。いや、別に性癖としてそういうマゾヒズムを持つのは否定しませんがね。
でも、やっぱり僕はそんなマゾヒズムは「正しくない」と考えます。そしてそれ故に「絶望社会」を推奨するのです。
「絶望社会」においては、人々は常に「今」という時間に生きています。数十年後の未来なんていうものはもはやフィクションのネタにもならないし、そもそも明日が本当に存在するのかさえ誰も関心を持っていません。しかしだからこそ人々は、「今」をどのように楽しい時間にするか真剣に考えています。それは古い人々にしてみたら刹那的に見えるでしょう。ニコニコ動画を何十時間も見てる暇があったら、もっと将来の自分のためになるような高尚な本を読むべきだとそういう人達は言うかもしれない。でも、今その本を読んで楽しくないのに、将来その本を読んだことによって何か楽しくなるなんて、ありえるでしょうか?そんなこと本当はないんですよ。今を楽しく生きられない人は、将来も楽しく生きられません。
もちろん、今楽しく生きていたからといって、将来がどうなるかは予測出来ません。もしかしたら、それこそ社会基盤がズタズタになって、今の様な豊かさを享受できない生活が訪れるのかもしれない。でも、僕は断言しましょう。もし今を楽しく生きられるなら、例えそういう時代においても、人々は楽しく生きられると。
そういう人々が今楽しく生きられる社会こそ、人々が今すべき社会であると、僕なんかは思うのですがねぇ。「絶望した!」と叫ぶあの人達の、なんて楽しそうなことか。
この日へのコメント