http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20071112/1194809808
をまとめたその後、色々アルファブロガーとかが言及したことによって、論争の風向きが変わってきたと思うんだけど、理系女子という現象への批判意見で出てきた「プライドを持ちすぎ」とかいうのも、僕の言いたいこととはだいぶかけ離れているので、改めて、理系女子という現象の何が問題であり、それに対し僕はどんな意見を持つか、書いてみたいと思います。
まず、僕の議論の大前提となっているのは、次のような差別の構造がこの社会には存在するということです。
1番に関して言うと、まぁ、流石に生物学的な差異(男脳女脳(笑)(*1))によって、男性が論理的であり、女性が感情的である、などという風に考える人は、割とリベラルとされるはてなにいる人の中ではごく僅かでしょう。
しかしじゃあ「男女に全く考え方の差異などない」というのが言えるかというと、まぁ学級会的答えならばそういう答えでも良いと思いますが、現実問題として、やっぱり女性と男性との間には何かしらの傾向の違いがないとは言えない。というか違いはある。何故なら、少なくとも今の日本の社会では男/女という区別は厳然としてあり、そして社会で成長していく時の多くの場面で、女性側の性を持つとされる人が「女」として扱われ、男性側の「性」を持つ人は「男」として扱われている。例えば、幼少期において、女の子は他の女の子と楽しくお喋りしているのが自然とされ、男の子はお喋りなんかしてないで体を動かしたりするのが自然であるとされる訳です。
そしてその結果、男女で考え方の差異が傾向として現れるわけです。実際そこまではみなさんの思っていることとそんなに違わないはずです。もちろん、「女性は感覚的と言われるけど、私は違う!」という意見も大いにあって、そういう問題こそが、まさにこの理系女子という現象で問題になっている訳ですが、しかしそうやって主張する女性が「普通の女の子」という言葉を使うことからも分かるように、そういう理系女子も、傾向として女子が「感情的」である(もちろんその傾向は、生得的なものではなく、文化的に仕組まれたものなのだけれど)という点は否定しないわけです。むしろ、そのような文化がありながら、「自力で」論理的な思考方法を取るようになったからこそ、理系女子は「素晴らしい人々」として賛美される訳です。
そしてそれは、「『理系女子』という努力して論理的思考を学びえた人間が居るのに、『普通の女の子』は努力もせず感情的思考のままで居る」という風に、男性が「普通の女の子」を劣ったものとする根拠ともなります。「理系女子」に対する男性の反応
を見ればそれは明らかでしょう。「理系女子と付き合いたいなぁ」と言った二言目に「普通の女の子は面倒だよ」と言う男子共がなんと多いことか!
さて、ではそういう男共や、その男共によって祭り上げられてしまう理系女子に対してどういう反論があり得るか?
まず常識的な反論としては「もともと男性を論理的にし女性を感情的にする文化体系があり、その文化体系が自分たちを優遇してくれているだけで、男性は別に努力して論理的になったわけではないのに、なんで普通の女の子を『努力していない』という理由で批判できるのか!?」という反論が出来るでしょう。つまり、女性にばかり努力が求められ、努力をしないと差別されるなんてのはおかしい、という反論です。
しかし僕はその論法はとりません。そうではなく、むしろ「論理的」な思考は善い思考であり、「感情的」な思考は悪い思考である、という形式こそを問題視します。
皆さんに聞きたいのですが、論理的/感情的って、何で二項対立なんですか?例えば辞書を引くと、「論理」「感情」はこのように出ます。
ろん‐り【論理】
「ろんり」を大辞林でも検索する
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「―に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
3 「論理学」の略。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%84%9F%E6%83%85&stype=0&dtype=0
かん‐じょう〔‐ジヤウ〕【感情】
物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。「―をむきだしにする」「―に訴える」「―を抑える」「国民―を刺激する」
しかし、上記の引用を見れば分かると思いますが、たとえ「論理」の語義を逆さまにしても、「感情」の語義にはなりません。またそれと同様に、「感情」の語義を逆さまにしても、「論理」という語義にはならないのです。
また、更に考えていくと、何で論理=よいことで、感情=悪いことなのでしょうか?例えば僕がこうやって書いた記事に対して、「君の意見は○○という理由から××の点で問題がある」という論理的なコメントと、「こわーい」という感情的なコメントがあったとします。これに対し人々は前のコメントを良いコメントとし、後のコメントを悪いコメントとするでしょう。しかし、何でですか?「前のコメントは論理的で、後のコメントは感情的だから」。じゃあ何で論理的が良くて、感情的なものは悪いのですか?
こうやってどんどん考えていくと、最終的には1つの問いに結びつくでしょう。「そもそも論理的とか感情的ってなんなの?」
実はこう考えると上手くいく方法がたった一つあります。「論理的な考え方」は社会的に善い考え方であり、「感情的な考え方」は社会的に悪い考え方であると。
そうです、トートロジーです。
だから、男性の思考方法は「論理的」であって、女性の思考方法は「感情的」であるというのは、実は要するに男性の思考方法は素晴らしい思考方法、女性の思考方法は良くない思考方法と言っているに過ぎないんですね。ただ、それをあからさまに言うと説得力がないので、「論理的」とか「感情的」とかいう言葉を間に挟ませているだけなんです。
そして、そういう視点から考えてみると、「理系女子」を男性が賞賛することの意思もより明確になるでしょう。要するに男共は「女らしさを自力で拭い去った女」に対して、「えらいねー、女らしさを捨てたんだ」と賞賛しているわけです。これが如何に差別的な考えに基づいているかは、もはや言うまでもありませんね。
しかしもちろん僕は、「女らしさを捨てた女」を、例えばこんな意見↓のように、「せっかくの女らしさを捨てるなんて!」と非難しようとは思いません。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50949374.html
「女」は時には「女の子」のように甘えてくるが、そんなことでは崩れない本物のプライドを持っているから、それが出来る。女の子は女の子でしかないが、女は女の子として振る舞うこともできる。
「女らしさ」というものが、その当人にとって邪魔になるものであるならば、そんなのどんどん捨ててしまえば良いでしょう。「女なんだから女らしさを捨ててはいけない」なんてのはそれこそ性差別の最も原初的な形態だと言えます。id:gomi-box氏やid:b_say_so氏が「女らしくない女」、または「理系女子」として生きるのは全くの自由であり、もし自分のエントリーがその自由を押さえ込むようなものになったとしたら、それは遺憾であり、僕の意思に反することです。
ですが、その一方で、実は今の日本社会には「女も女らしさなんかに甘えないでしっかり男らしく生きろ」という風な空気もある(*2)。これは確かに「女には女の役割、男には男の役割」的な家父長制型、あるいは男女分業型の性差別とは違うでしょう。むしろ今までそのような家父長制性差別と戦ってきた人の間でも、そういう風なことを言う人もいるのですから。
しかし僕は、やはり「女も女らしさなんかに甘えないでしっかり男らしく生きろ」というのも、性差別の一種だと思うのです。だって「女らしさなんか」っていうのは、明らかに女らしさを劣ったものとしてみなすからこそ出てくる発言でしょう?そして僕から見ると、「理系女子」に関するエントリは、当人たちの意思はさておいても、そういう「女も女らしさなんかに甘えないでしっかり男らしく生きろ」というメッセージに、女も同意している、という様なメッセージを男共に与えてしまっている。
もちろん、その第一義的な責任は、「理系女子」エントリーを書いた人たちを一人の人間として見ず、「利口な女」という風に見て、相手のことなんか何にも知らないのに「お付き合いしたいです、普通の女の子なんかやっぱ面倒だよね」とか書いてやがる、まさに「女も女らしさなんかに甘えないでしっかり男らしく生きろ」とか考えている糞男共にある。だからまず第一に断罪されるべきは彼らでしょう。しかし、そうであっても、やっぱり「理系女子」系のエントリは、そういう糞男共に、吹き上がるきっかけを与えてしまっている。そのような効果を示して、「あなたのエントリはこういう効果を持ってしまうよ?」と指摘しようとしたのが、前回のエントリだったわけです。
Twitterで前書いた記事の後に書いたこともまとめておきます
あ、何か議論が(僕にとって)嫌な方向に言ってるな。僕は理系女子に「もっと強くなれ」と言いたい訳じゃない。その逆、「他人の弱さを認めよう」ということなんだが http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50949374.html
「生理」問題に合わせて、もう一つ記事書こうかな あー、眠いからまともな記事書けそうにないや、とりあえずtwitterで考えていることを吐き出しておこう。
生理というものを女性が忌み嫌う気持ちは、まあ当然だと思うのよ。それがあるから男性と平等に働けないんだ!という悔しさももちろん認めるし、それを「生理は自然なんだ。自然に逆らってはいけない」という様な馬鹿な自然主義で否定するつもりもない。もし、ピルとかそういうので生理がなくせるんなら、どんどんそういう技術は発展させていくべきだと思う。
でも、僕は一方でこうも思うわけ。「何でそんなに体を色々いじくってまで、私たちは働かなければならないのか?」と。月の半分体調が悪いんだったら、月の半分休めば良い。 例えば、僕なんかは男だから別に生理も来ない訳だけど、何か精神に波があって、月の三分の一は何にもせずただぼーっとしてたくなる。でもそんな時は、別に無理せずぼーっとしてれば良いし、実際僕はそういう時は(大学生だからできるのかもしれないけど)そうしている。
で、そこで「理系/文系」という二項対立(http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20071112/1194883286で「理系/文型」の区別なんてない、ということが言われていたから、それへの反論">*3)を敢えて考えてみる。僕は、一応文系の学問を修めているんだけれど、はっきりいってその理由は「文系の学問を知っていると、より楽に怠けて人生を送ることができるから」でしかない。例えば社会学とかは、この世の中で「問題」とされているようなことが、本当は大して問題ではないということを示し、「そんなにせかせかしなくても何とかなるだろう」と思わせてくれる(反社会学講座)。人類学も、こういうせかせか忙しくなきゃ生存できない近代とは違う生き方があることを示してくれる 。
それに対して、理系って基本的に「学問を進めれば進めるほど、問題が増え、忙しくなる」ものだと思うわけ。ある問題を科学的な手法で解決すると、それによりまた新たな問題がさらに発生する。エントロピー増大の法則だっけ?で、それ故に理系は「忙しくなるために学問をしている」印象がある。
でもそれって、文系(といっても、オレ定義による「文系」なんだけど)から見ると、男性/女性以前に、人間を不幸にしてしまうんじゃないかなーと思う。仕事をすればするほど次の仕事が増えて、どんどん忙しくなる。そしてその為に自分の体を犠牲にして働かなきゃならなくなる。それって、やっぱきつい。
もちろんだからといって、理系の学問が好きな人に、「理系学問なんて人を不幸にするだけだ!」と言うつもりはない。でも、理系の人も、ちょっとはそういう、ゆる文系的な視点も取り入れた方が良いんじゃないかなぁ。生理が来たらゆっくり休めば良い。別に体を犠牲にしてまで学問と心中する必要はない。
だから、僕は「生理と闘う理系女子」を無条件に賛美するのは、やっぱりおかしいと思う。特に男が賛美するのはゲロゲロである。生理の愚痴を聞いたらというのなら、「とりあえず無理しないで休んだほうが……」と声を掛けようよ。その代わり自分も気分が乗らないときは遠慮せずに休む。理系・文系問わず。
というか、「学問をやるもの」と自分を定義すること自体がおかしい。学問は人生を豊かにするための手段であって目的ではない。「私は普通の女の子とは違う理系女子なの!だから生理なんかには負けない!」というのは、自己搾取のロジックでしかない。周りの人は、きちんと「それは違う」と言うべき。
*1: こういう馬鹿なタームにこそ(笑)を付けるべきだよなぁ
*2: 『働きマン』なんか、まさにそういう空気を代表した作品なのではないでしょうか?
*3: http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20071112/1194883286で「理系/文型」の区別なんてない、ということが言われていたから、それへの反論
この日へのコメント
前半「普通の男の子がつまらなくないとは一言も言われていない」
後半「忙しさといえば否定的に感じるが、充実とも言える。それは個人の好み」
で終了。
このエントリの、隅から隅まで同意する。
同時に自分の中でもやもやしていたけどなんかうまく言葉に表せない、そういったことを
本当に全てすっきりまとめて明快に説明してくれたRir6さんに感謝をしたい。
いや、これは本当に凄いエントリだと思う。ありがとう。
わかろうとしてないんだろうけど