http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080415/1208269363を書いた後、吉田アミ(id:amiyoshida)が、僕が引用した記事にこんな追記をしていた。
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20071018/1192701053
追記:早計な! テキストのみで理解するのもいいけど、興味持ったら元ネタのマンガも読んでみよう! ここで糾弾されてる人は批評家じゃないよ。批評以前の問題です。自他共に優れた批評家だと評価されるような人にはまったく当てはまらない。いまだにいろいろリンク貼られるので追記してみた。もう、めんどくさいから消そうかしらこのエントリー。
なるほど……批評以前の問題ですか……
要するにあんたはその引用した文章が示す基準に満たない文章・発言は、たとえ"自称批評家"が発言したものであっても決して「批評」とは認めないと……そして批評ではない以上、そんな文は気楽に書かれた無責任な文章で、どうせそんなものを書いた奴は馬鹿で貧弱な読解力しか持たないんだと、そう言いたいんですね……
そして、「どーせこの文に反論したりする奴は、『ヨイコノミライ』なんか読まずにただこの文章だけ読んで脊髄反射で『ムキーッ!』ってなって書き込んでるんだろ。そんな奴わざわざ相手にするのめんどくせぇなぁ」と言うわけだ……
RSSは[http://r.hatena.ne.jp/feed/http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/rss:title=277]人に登録され、アンテナでは[http://a.hatena.ne.jp/include?http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/:title=1373]人に登録され、雑誌に記事を書き、出版社から単著を出す……そんな人間が、「『ヨイコノミライ』読んで自分で内省してみろ」という訳だ……!
なんだよそれ……なんなんだよ……!
前回の記事と全く同じ言葉しか出ない……
ふざけるんじゃねぇよ!
ヨイコノミライの登場人物は2人しかいない。「平松ちゃん」と「天原君=もう一人の僕」だ。他に登場人物なんか居ない。居るもんか。例え他に人間っぽいモノが出てきたとしても、そんなの「セカイ」が形を変えて人間の似姿をしているだけだ。だから僕は最初読んでいた時、そんな背景のことは一切気にもとめず、ただ「平松ちゃん」を見ていた。
でも、物語がすすむにつれ、セカイは彼女を否定し、そして彼女は最後に、「向こう側」の人間となってしまった。二次元と三次元の距離とか、そんな距離よりずっと離れた場所へ、彼女は行ってしまったのだ。
そして僕は3回目読んだぐらいで、もう一人セカイに否定された人間を見つけた。天原君だ(*1)。彼は一旦セカイに受け入れられた様に見えたが、結局セカイに利用されただけで、やがてセカイに捨てられた。何故?彼はただ自分の好きなアニメやマンガについて、好きな意見を言いたかっただけなのに……彼が罪人ならば、僕もまた罪人じゃないか。巷で人気のアニメをバッシングするなんて、それこそ僕もやっていることだ。
だから僕はひとしきり泣いた後、その彼ら・彼女を否定したセカイが、一体どんなルールで彼ら・彼女を否定したかを考えた。
などなどなどなど……こんなルールを見つけた。
そして気づいた。これらのルールはこの僕が住むセカイにも存在していて、多くの人を苦しめているのだと。
「努力した奴が偉い」というルールのもとで努力しない人が否定され、そして才能のない人が才能のある人に馬鹿にされる。例え何かを望んだとしても、望んだだけでは決して得られないセカイ。努力と才能が至高の価値を持つモノとされ、努力もせず才能もないものは、何を望んだとしてもかなえられず、人間扱いすらされない、そんなセカイ。そしてそんなセカイのもとで、今日も平松ちゃんや天原君の様な人間は虐げられる。そんな歪んだ姿が、このセカイの真の姿だ!
ヨイコノミライとはまさにそんな歪んだセカイを忠実に模写した、そんなマンガなのだと思う。だから僕はこのマンガを「セカイの構造を忠実に模写している」と評価はするが、絶対にそのメッセージや結末を肯定しない。全力で否定する。僕が思うに、このマンガは「植民地を本国の一流学者が見た民族誌」のようなものなのだと思う。確かにその民族誌はその土地の状況を正確に描写する。先住民がどんな風に虐げられた、貧しい生活を送っているか。民族誌は正確に描写するだろう。だから例えその植民地支配を認めない人間でも、その民族誌の資料的価値は認めるだろう。
だが良識的人間ならば、その民族誌に込められたメッセージ、つまり「おまえら先住民はさっさと本国のやり方に従え!」というメッセージは、例え資料価値がどんなに高かったとしても、いや、高いからこそ、否定するだろう。もしその民族誌を留保なしで絶賛する人間が居たとしたら、そいつは植民地主義者だ。
それと同じように、ヨイコノミライを留保なしで絶賛する人間は、「才能」とか「努力」などという境目で身分を分断する、植民地主義者であると断言して良い。そして、その様な歪んだセカイを生み出す歪みの源はまさにそこにある!
さぁ、そろそろ本題に入ろう。そう、だから僕は「ふざけるんじゃねぇよ」と言ったのだ。あの引用した文章のメッセージを賞賛するということは、まさにヨイコノミライのメッセージを賞賛する、ということに他ならない!
もう一度あの吉田アミが自分のブログで紹介し賞賛する文章を引用しよう。
「アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。他人を理解しようともしない、馬鹿だからよ。
気楽なもんね。自称批評家さん。批評っていうのは感想文でも、作者への意見書でもないわよ。
人が作ったものを 安易にくさして 優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。
一読者よりも昇格してるって言うなら、作品にもっと真剣に取り組みなさい。」
「失敬な! 拙者を侮辱する気でありますか!
誠意こそあればこそ
耳の痛い忠告も申してやるのでですわ。
甘受するのは作者の義務ですぞ!」
「誠意?
自己顕示欲でしょ?
アナタの!
誠意があるんなら、セリフの向こうの作者探しや 他の作品とのくらべっこばかりしてないで、内容そのものに興味を持ったら? 貧弱な読解能力でも 少しは使って見せなさいよ!
誤解しないでね。私、本当の批評家は大好きよ。
作品への新しい読み方を提示して、
作品と
作家と
読者に、
新しい道を拓いてくれるから。」
「…!」
「あら。
無責任な感想文に、無責任に感想を言わせてもらっただけよ。
悪く思わないでね。さようなら。」
はっきり言おう。僕はこの言い争いにおいては、明確に天原の方を支持する。マンガの絵の上では天原が女に負けているように見えるが、こんなのゴー宣で小林よしのりがやる、あの論敵を貶める画法と一緒じゃないか!「正しいもの」を美しく描き、「正しくないもの」を汚く描く。戦時中に戦意高揚のために作られたマンガ的技法の無自覚な流用。「小学○年生」のマンガならまだしも(というか最近は小学○年生とかでももうちょっとこういう技法を脱したマンガが描かれるんだけどね)青年誌でこれってどうなんだと思ってしまう。
だが、一方でこれは今のセカイの権力構造を忠実に模写しているのもまた事実なのだ。私たちのセカイは戦時中と全く変わらないという事実。だが、だからこそ私たちはこの模写を批判しなければならないのだ。セカイを否定するために……!
まずここで、以前僕がid:guri_2:20080316:1205641886に対してid:Rir6:20080316:1205682434で行ったように、この対話を、上記の様なマンガ的表現などの余計なものを省いて、純粋に情報だけにしよう。すると、上記の対話は、次のような情報の応酬であることが分かる。
ごめん、情報の応酬と言ったが、よく見たら女が天原君を恫喝しているだけだった。
それではこれらの発言についてそれぞれ分析していきましょうか
1、3、4番について。これらは全て「相手の気持ちの決めつけ」である。もちろんこれはマンガですから、それこそこの女にテレパシー能力があるという推測も可能です(*2)が、まぁその可能性をなしと考えるなら、これは単なる「暴力」だといえる。暴力が対話に存在するのも大問題だが、なぜその暴力が許されるか考える必要があるだろう。暴力はそれ単体だったら規制される。規制されないのは、その暴力を権威づける何かのメッセージが対話の中に隠されているからだ。
5番について。これは前項の暴力への防御としての「自分の気持ちの表明」といえる。つまり「防御」。だが防御である以上、これにも特に意味はない。
問題はこの2、6、7、8番である!ここでまず女は「批評」に感想・意見などとは違う特権的地位を与える。吉田が追記した批評以前の問題という言い方と全く同じだ。彼らのルールでは「批評」はすばらしくて、「批評以前」はすばらしくないものらしいのだ。そして、そのすばらしい「批評」とは
という二つの規定により成り立つ。そして、吉田アミがブログで紹介した以上、吉田アミが賞賛する「批評」も、これであるということができる。
だが、私たちはここでこう問わなくてはならない。「批評」は、作者や他作品を考慮に入れず、純粋に『内容そのもの』を読解しなければならないという。だが、そもそも『内容そのもの』とは何だ?
アニメを例に取ろう。あるアニメが存在する。その作品を構成するものをざっと分解してみるだけでも、ストーリー・演出・作画・声優というように4要素に簡単に分かれてしまう。そして更に言うなら、そのどれもが他者との評価の中でしか自らの価値を決められない。今まで耳が聞こえなくて、全く「声」というものを聞いていなかった人間が、急に耳が聞こえる様になって、何処かの声優の声を聞いた時、その声優の声を批評できるだろうか?もしそれが金朋だったら、その人は金朋の声を「オリジナリティある声」と批評できるか?当然出来ない。もちろん、金朋の声を「オリジナリティある声」と批評するのが、真正の「批評」ではないというなら、この論理は崩れる。だが、もしそうだとしたら私たちはこう問わなくてはならない。「そいじゃあ、真正の批評って何さ?」と。
しかしそれは答えられない。せいぜい貧弱な読解能力でも 少しは使って見せなさいよ!と怒鳴られるだけだろう。当たり前である。そんなもの存在しないんだから。
はっきり言う。この世の中に、他者との比較、作者論などを抜きにした、『内容そのもの』の読解による真正批評なんてものは、存在しない。『内容そのもの』だけを対象にしているように見える批評は、そう見えるだけなのだ。何故そう見えるか?「努力」をしたからである。つまり、本当は他者との比較や作者論なのに、上手くそれをぼやけさせて、『内容そのもの』の批評であるかのように偽装する努力、そしてそれによって得られる、偽装する才能。「才能」を得るためには「努力」が必要だ、と言う場合の「努力」とは、所詮そんなものなのだ。批評に限らず、マンガ家、小説家でも。
しかし吉田アミの様な「(努力した上に)才能ある人たち」はそのことをひた隠しにし、下記のように「『内容そのもの』がすぐれた作品を褒めよー」などという欺瞞を口にする。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3302
でも、このゲーム、相手は全員敵!殺戮の限りを尽くして、相手の息の根を止めるだけになってやしないか。この広い世界でせっかく出合ったんだから殺す以外の方法を選択してもいいじゃない。同じ目的を持った同志が集まってパーティを組むのは馴れ合いとは言いません。孤立しちゃ、スライムくらいしかやっつけられません。経験値が溜まりません。むしろモンスターを仲間にしちゃうくらいの懐の広さで、相手の息の根を止めることを考えるよりは、相手の延命を願いたいものだよねー。今あるルールを疑って新しいルートを考えてみる余地が私たち受け手を自由にしてくれるはずなんだ。
実に優れた「メタ批評」だろう。だって何も言ってないんだから。批評の対象である『内容そのもの』というものが存在しない以上、もっとも優れた批評とは「何も言わない批評」なのだ。まさに「沈黙こそ力」のセカイ。比喩がいつの間にか実際の話となり、何故か批評の話をしていたはずなのにロールプレイングゲームの話となる。これは一般用語では「話をそらす」と言うが、批評用語では「美しい文章展開」となる。大体、今あるルールを疑って新しいルートを考えてみる余地が私たち受け手を自由にしてくれるはずなんだと書くが、ついさっき「批評」「批評以前」という区分けルールを持ち出して批評のルートを狭めたのは誰なのか?
皆さん、もうお分かりになっただろう。このセカイの歪みが。彼ら「才能ある者」が如何に「才能なき者」を虐げ、弾圧しているかが。
もちろん、これはある意味理にかなったことでもある。id:Rir6:20080318:1205768183でも書いたが、この社会は例えどんなに技術が進歩しても、ずっと「努力」し、「才能」を磨き、そしてその努力・才能が搾取され続ける、そんなことを前提としたシステムによって成り立っている。だから、「才能なきもの」、「努力しないもの」が虐げられるのは社会システムの必然だし、もしそれを壊したらセカイが壊れてしまうかもしれない。
だが、それがどうしたというのか!?この歪んだセカイでは、今日もまた、多くの天原君や平松ちゃんのような「才能なきもの」「努力しないもの」が虐げられる。そんな歪んだセカイに、君達は未練があるとでも言うのか?僕は、こんなセカイに未練はない。天原君が天原君のままで、平松ちゃんが平松ちゃんのままで、幸せになれないセカイならば、そんなセカイ、俺がぶっ壊す!
だから僕は、吉田アミの様な「才能あるもの」、「努力するもの」をぶっつぶすために、「プロパガンダ批評」を提唱する!
ヤツらの「真正批評」は批評を特権化し、「批評以前」「批評」というようなルールを作動させて「才能あるもの」が王であるという権力構造を支える。だがプロパガンダ批評は、むしろそれを壊す!
プロパガンダ批評は「批評以前」などという言い方はしない。むしろ、何かある文化的産物に言及すればそれは全て「批評」として扱う。そして、今ある文化は全てそれまでの文化の派生物でしかないと考える以上、「プロパガンダ批評」は文化全体を「批評」として考えるのだ。
そして、それぞれの「批評」は互いにあらゆる手段を使って他を制圧し、自らの支配下に置くかを競う。そのための手段は一切選ばない。例えば僕は上記の『ヨイコノミライ』の「真正批評」概念批判(批評)において、文化資本という概念や、文化社会学という学問の力を借りた(あんな文僕の独力で書けるわけがない!)。プロパガンダ批評は批評を限定しない。だからあらゆる手段を「批評」とすることが出来るのだ!問題は他を蹂躙し屈服させることができるか。ただそれだけ。
だから当然「自尊心・優越感という欲望を批評のエネルギーにする」ことや「作品を飛び越えて作者自身を批判する」こと、「他と比較して批評する」こと(*3)など、真正批評が禁じ手としたあらゆる批評手法が正当化される。むしろこれらの手法は相手が禁じ手だと思っている=防御が薄いということだからねらい目だ!どんどん作品から作者を批判しろ!「こんな作品を作るなんて、やっぱり作者の人格はどっか欠落して居るんだなぁ」と言ってやれ!
聞いているかセカイ中の天原!お前はアニメ作品を語る掲示板で周りと違う意見を言ったら総バッシングにあったそうだな。だがバッシングはむしろチャンスだ!対立する側でも稚拙な意見を選び、そしてその掲示板とは違う場所で叩け!そうすれば何も知らない周りを「正しいことを言っている人間が狂信的な信者に叩かれている」と思わせ味方につけることが出来る!自分の自尊心を満たしたいんだろ、他人を批判したいんだろ。だったら学問を利用しろ!社会学、フェミニズム、現代思想をかじっている人間なんてごくわずかだ。だからそれらをちょっとかじって、そういうものを知らないヤツらの前で利用するだけでお前は強者だ!あんな「真正批評」教の女の言うことなんか気にするな!むしろ僕がやったように、そういう知識で女を完膚無きまでにぶっつぶせ!
お前は「自分のことを知って欲しい」と思っているのかもしれない。良い、全く良い!というか僕も同じだ。だがお前はやり方が甘すぎた。人の心なんか、こっちで無理矢理こじ開けなきゃ開かない。相手の善意に任せていたら罠に勝ってしまう。だから、相手の心の中に入れさせてもらうんじゃない。相手の心を占領するんだ!相手の言うことなど気にするな。敵の甘言に惑わされたら勝てる戦いも勝てなくなる。とにかく耳を塞いで攻めろ!相手を説得するんじゃない、支配するんだ!
批評の倫理?そんなものはどうせ汎用性も低いんだから物置にでもしまっておけ!戦時国際法が実際は勝者の道具でしかないように、「批評の倫理」なるものも勝った後に勝者が後付で決めるものに過ぎない。そして今は「真正批評」が勝っているからそのような人々に有利な「批評な倫理」が作られているが、こっちが勝つ日にはまた倫理は書き換えられる!
だから今はとにかく一人でも多くの「才能あるもの」「努力するもの」を血祭りに上げ、彼らから「名誉」という私的財産を取り上げろ!そしてそれを「才能なきもの」「努力しないもの」に分配せよ!面白くないものを「面白い」と賞賛し、面白いものを「面白くない」とこきおろすんだ!(*4)
「才能なきもの」「努力しないもの」が虐げられない社会のために、私たちは、戦う。
この日へのコメント
『ヨイコノミライ』評はまったく同意です。フィクションだからこそ残酷で酷いことがオモシロイし、美しいと思います。たぶん、誤解されてますが作品として『ヨイコノミライ』に関する評価は自分の中では低いです。賞賛したから引用しているわけではないです。きっと反応する人が多いだろうと思ったので引用しました。実際、あの言葉に反応した人が多かったので、ブログやニュースサイトでとりあげられた結果、あのエントリーだけ妙にアクセス数が多かったです。
Rir6さんの言葉は強くて極端で過剰でだから、面白いですが、殺すか殺されるかしかないみたいなのは逆に選択肢が2択しかないように感じて不自由なので、あまり好きではありません。まあ、私になんか好かれたくないと思うけど(笑)。でも、自分が選択しないだけで、こういう評を認めないとかダメ~とかはぜんぜん思わない。むしろ、オモシロイと思いました。このエントリー読めてよかったです。お疲れ様です。って、書くと上から目線とか思われるのだろうか。そんなんじゃ全然ないです!ほんとに思ったことしか書きません!嘘つくのめんどくさいから。
よかったらこれをプロットに『ヨイコノミライ』批評をまとめられてみてはいかがでしょうか。まとまって読んでみたいです。何かあと、面白そうなマンガあったらオススメします~。『サユリ1号』とかひぐちアサの『ヤサシイワタシ』とかはどうですか?
あと、これもいい言葉!今のムードだとこれに近い作品が増えてきてます。よしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』とか。アニメだと『シゴフミ』が、ダメな部分も受け入れるを選択していたし、『ぽてまよ』なんかもそんなところがありました。自分の中では水木しげるの価値基準で「絶対的な正しさ」を否定する、拒否する、という考え方が好ましいと思っている。ただ、俺がぶっ壊す!までの強い言葉を自分じゃ吐けないので、逆にうらやましい…。ってのふまえると私の受け手2.0話とあんま齟齬がないように思うんだけどどうなのか。って、一回書いた原稿なので、どうとられても仕方ないし、言い訳するのはみっともないのでしないけど。
つうか、長々と書いてウザイ!
認めないって事なんだろうなぁ。どんだけ他人に求めるレベル高いんだよw