あらゆる物の嘘を暴いていったとき、最後に残るはきっと「『私』という嘘」だと思うんですよ。で、人はその時二つの選択肢を選ぶ事を迫られる。1つはその嘘だけわざと見破らず、この先も「『私』という嘘」の基に他人の嘘をどんどん暴いていく。もう1つは、「『私』という嘘」すら破り、世界を許容し、物事を「嘘か嘘でないか」という基準ではなく「世界か反世界か」という基準で裁いていく。まあ僕からしたらどちらもろくなもんじゃないんですが、しかしその選択肢のどちらかを選ばなければならない時は絶対来る訳で、どうすればいいのかなぁ?
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このブログを書いている人は「NHKと自民党が正しく、朝日新聞が嘘を言っている」という考えを持ってる人なんですね。で、その根拠は↓のような考えなのです。
そしてそのポイントとなる、松尾氏が「圧力を感じた」と証言した、という朝日の主張には、根本的に無理がある。かなり濃厚な否定的状況証拠がある。とりあえずまず最初にこの文をまともに受けてしまうお馬鹿さんの為に、この文のどこが間違っているのか指摘しておきますと、まず本田記者という人は、非常にアグレッシブな取材方法で有名な人であって、その人に対して無警戒に真相を暴露してしまうこともあり得ない。と言いますが、しかしながら松尾氏に朝日新聞記者がオフレコで話した時と、松尾氏が記者会見でその発言を「嘘だ」と言った時には大きな違いがあるのです。もし、安倍氏の意向があって松尾氏がそれを受けて改編の指示をしたとしたら、この問題について一番危機感を持っているのは松尾氏である。しかも、松尾氏はこの問題について国会で証言している。だから、それを翻すということは、自身が責任を問われることであって、特別の動機がなければ、あり得ない話だと思う。
1.思想的に転向して、自分を犠牲として告発する意思を固めた
2.利害関係が変化した
3.オフレコとして実態を述べたのを報道された
1や2は、松尾氏がNHKの記者会見で先頭に立ってかなり強い言葉で朝日新聞を告発、批判した事実と矛盾する。3であるとしたら、松尾氏が本田記者に騙されたか乗せられたことになるが、本田記者という人は、非常にアグレッシブな取材方法で有名な人であって、その人に対して無警戒に真相を暴露してしまうこともあり得ない。他にもいろいろ考えてみたが、どう考えても、「圧力」があったとしたら、松尾氏が本田記者に真相を暴露する合理的な理由はない。特に、問題の松尾-安倍会談の後に、大きな改編が行なれたとしたら、なおさら、松尾氏が「圧力を受けた」と話す理由がない。
要するに、「圧力はあったけど朝日は嘘をついている」というのが、論理的に考えて最も可能性の高い結論ではないかと思う。
まず、NHKの人達はこの問題をそんなに大きな問題とは捉えていませんでした。事後にしろ政治家に放送内容を説明するということをしているという事はNHKも認めたということからもそれは明らかです。
しかしながらNHKの外の人々はそれを普通だとは思っていなかったんですね。ですから、この問題はNHKの予想に反して大きな拡がりを見せた。この「予想に反して」という部分をこのブログの人は(故意にしろ過失にしろ)忘れています。
つまり、オフレコでインタビューをした時松尾氏はこの事件がそんなに重要になるとは思ってなかったんですね。ですから松尾氏は「まぁ、当たり前のことだから別に良いか」という様な感じで答えました。しかし、後になってどんどん問題が大きくなって行くにつれ、NHKや安部氏・中川氏も「これはまずいな」と思い、テレビなどのメッセージを通じて「いや、そのようなことはありませんでした」と言うようになった。そしてその過程で松尾氏が朝日新聞に言った事が問題となってきたので、「いや実は朝日新聞は嘘を言ってるんだよ」ということにした……
もちろんこれも例えどんなに客観的で論理的であっても「状況証拠」から判断したものであることに変わりはありません。ですから、この問題を前にしたとき私達が取るべきもっとも正しい態度は崎山伸夫氏が言うように
現時点でのメディアリテラシー的に好ましい態度は、はっきりしない部分は「分かんないね」と判断を留保することですよ。でしょう。別にこの一つだけが私達に提示されている訳では無いんですから、他のもっと確実な情報を元に(例えば安部氏の言う「工作員」の定義とか、NHKの受信料体制とか安部・中川両氏と宗教団体の関係とか)判断すれば良いんです。ですから、僕はこれまで特にこのことについて発言しませんでした。しかし、もしあえて例え今あるのが「状況証拠」であっても、どちらが嘘でどちらかが真実であるという結論を出さなければならないという風なこのブログのルールに則るとしたら、僕は客観的かつ論理的に「NHKと安部・中川両氏が嘘を付いている」と答えるでしょう。
しかしこれだけの事なら別に僕はこのブログには書かないでしょう。ここまではあくまで誤解を呼ばないための前ふり、問題はそういうことではなく、「しかし何で私達は『論理的』とか『客観的』ということに従わなければならないのか?」ということなのです。
実際、僕は上記で「論理的」とか「客観的」とかいうことを敢えて書きましたが、実はその時口がむずむずかゆくなってくる衝動を感じていました。このかゆさは一体何なのか?
「朝日新聞が正しいと言うから朝日の記事は正しいのだ」というのが、朝日新聞が繰り返し主張していることです。朝日の正統性の根拠というか始点は、「朝日新聞は正しい」ということにあります。創発的権力っていうのはつまり↓のような事だそうです。それに対して、2ちゃんねらや朝日を批判するブログは私も含めて、客観的な証拠を元に論理的に考察して、「朝日新聞は間違っている」と言います。この主張の正統性の根拠は、「我々の主張は論理的であるから我々が正しい」つまり、「論理的で客観的なものは正しい」です。
さらに「なぜ、論理的で客観的なものは正しいのか」と聞かれたら、私は「論理的で客観的な主張は、推論の過程を共有しやすく納得しやすいから」等と答えるでしょう。 それではさらに「共有しやすいものはなぜ正しいのか」 と聞いたらどうなるか。
こういうふうに、とことん議論の根拠を問いつめられたら、最後には私もキレて「俺が正しいと言うから正しいのだ」と言う地点にたどりつくでしょう。
あらゆる主張には、これ以上説明できない、正統性の始点が存在します。
「そもそも朝日新聞は絶対正しい」という始点と「客観的で論理的な主張は正しい」という始点では、明らかに後者が優れているように思えますが、始点があることでは同じです。
そして、これが学問の話であれば、結論を出す必要はありません。
「そもそも朝日新聞は絶対正しい」という所からスタートすれば「朝日の報道には問題がない」という結論が出る。
「客観的で論理的な主張は正しい」という所からスタートすれば「朝日の報道には問題がある」という結論が出る。
この二つの主張は共存可能です。
しかし、政治(報道も広義の政治活動として)というのは、結論を一つにしなければならないので、この二つの主張のうちどちらかを取らないといけない。それは、究極的には「正統性の始点」の取りあいです。「正統性の始点」を暴力的に奪いあうゲームです。
朝日新聞が、「そもそも朝日新聞は絶対正しい」という公理を正統性の始点として採用した以上、徹底してそれを押し通すしかないわけです。だから、間違いを絶対認めない朝日新聞も実は政治活動としては論理的なことをしているし、本質的には批判者も同じことをしているわけです。朝日新聞と批判者の違いは、質的なものではなくて量的なものであるということは、よく意識しておくべきだと思います。
そして、あらゆる政治活動には「正統性の始点」 があると思うのですが、創発的権力にはそれが無いような気がします。だから、政治的に創発的権力を止めることはできないのではないかと。それでいて、創発的権力は政治的な効果を及ぼしますから、この非対称性は不気味だなあと思うのです。
創発的権力という言葉は、ハウル第二弾の記事で、何の説明もなく思いつきで使った言葉です。もちろん例によって厳密な定義とかは考えてないのですが、とりあえず、漠然と2ちゃんねるやGoogleのように、誰にもコントロールできないもので、人や組織の行動に影響を与える権力のことを指すとしておきます。しかし、問題は、それがどちらに向かっているかだと思います。てくのーとさんも引用されている、こちらの記事の要するに「今までの権力(*1)というのは結局全て突き詰めていけばその正当性の起源は自分にある『オレオレ正当性』の権力だった。しかし2ちゃんねるというのは民主的、理性的、論理的である『創発的権力』だ。これにはどのような権力も対応できない。故に2ちゃんねるというのは素晴らしいものであるのと同時に恐ろしい……」ということを言ってるのです。2ちゃんということで抵抗感を持っていたんだけど、読んでみると有用な情報が集まってるなぁ。という感想が示す通り、周辺にあるさまざまなサイトを含めて、2ちゃんねるは増殖しながら質を高めているわけです。2chの議論に必要な見識を持つ人は、今は、2chの必要性を感じていないかもしれませんが、そのうち見直して使いはじめるのではないでしょうか。つまり、創発的権力は民主的、理性的、論理的な方向に向かって、非可逆的に進化するということです。
もちろんこの文に対して「そんな訳無いよ。2ちゃんねるなんて馬鹿の集まりなんだから。どんなに集まったって俺を含む知識人に敵う訳ねーじゃん」と反論することも可能でしょう。しかし僕はその様な事を信じることは出来ないのです(*2)。何故か?それは結局「嘘」だからです。そして大多数の人々はこの「嘘」が嘘であることを知ってしまった。上記の文は、そのような現代の問題を如実に表しました。
どういうことか?2ちゃんねるというメディアと、今までのメディアの違いというのは大きく分けて次の3つでしょう。
1.文章を作る事以外のスキルや特権や手間が無い(*3)
2.リアルタイムで情報のやり取りがなされる
3.全員が殆ど同じ名前(*4)で投稿する
もちろんこの他にも色々な違いがあるのでしょうが、まぁ今回問題とするのはこの3つです。
さて、ではこの3つの違いはどのようなことをしたのか?それはつまり「大量の情報から『私』を抹消し、戦わせることによって、本当に質のいい私達に提示する」ということです。そしてその結果人々は気付きました。「『私』なんてものは、自分により良い選択肢を受け取る為の情報を受け取るには邪魔なもので、本当に私たちに必要なのは、『私』なんかではなく、世間で何回も複製されるような『知識』と、それを効率的に運用する2ちゃんねる的なものなんだ。」という事に。
これはとても重大な変化です。人々は常に良識として「『私』を持て、情報ってのは結局『私』によって解釈されるのだから。『私』が正しいことを決めるのだから、『私』が正しいと言えばそれは正しいのだ。」ということを信じて生きてきたのですから(*5)。しかし今それは崩れた。「『私』という嘘」がばれたのです。
ですから、私たちは2つの選択肢を選ばなければならなくなったのです。その2つとはつまり
1.「『私』という嘘」がばれたことを隠し、再びあえて「『私』という嘘」の庇護のもとに他人の嘘を暴く
か
2.「『私』という嘘」をばらし、創発的権力のもと「正しさ」ではなく「それが『私たち』にとって好ましいかどうか」で情報を判断する
か
ということです。
そして見るところこのブログは2を選択したようなのです。
ということですが、つまり「(書く)俺」の権力が「(読んでいる)お前」によってでしか発揮されないということなのですから、それは結局「私」ではなく「私たち」に成ってしまうわけで、それはつまり2の選択肢を選ぶということでしょう。創発的権力の正統性始点は「(読んでいる)お前が正しいと思うから、正しいのだ」では無いでしょうか。fullさんという方からのコメントですが、こういうのこそ「素晴しい洞察(+1)」ですね。この言葉によって、私が創発的権力と呼んでいるものをつかまえることができると思います。つかまえれば、批判することも軌道修正することも、いざと言う時に破壊することもできます。
例えば、「2ちゃんねるはこの原則に準拠しているか」という批判は、2ちゃんねるに対する最も根本的な批判になると思います。もし、2ちゃんねるがこの原則を満たしてないとしたら、その点を基準に2ちゃんねるを軌道修正するような対抗権力を打ち立てることができるでしょう。もし、これに添っているなら、その運動は、言葉によって表現されたひとつの原則に基づくイデオロギー的な権力になるでしょう。
そして彼はその立場から朝日新聞を批判します。
このような倫理の体系を意識的に言語化する人はめったにいませんが、私は、ほとんどの人がそのような二階層のシステムを無意識に持っていると思います。という様に「本当はみんな『私』なんて持ってないんだよ」と言い、例えば、ワンマン企業の社長が「俺が正しいと言うから正しいのだ」と言ったとします。彼が正統性の始点としているのは「俺が正しい」ではありません。彼が正しいのは、経済的な従属関係の中で自分が優位に立っているからです。ですから、彼も取引先との力関係の中では、自分が正しいと思えないことを正しいと受けいれることがあるでしょう。
つまり、彼の正統性の始点は「強い者が正しい」だと思います。そこが絶対的に動かせない原則であって、その上に、「俺が強い→俺が正しい」という正統性の連鎖が発生しているわけですが、これは状況によって変化する相対的、一時的な真実です。だから、取引先との力関係で「俺が強い」という仮定が成り立たない状況があったら、「俺が正しくない」というそこから派生する結果を彼は受け入れるのです。
つまり、彼の「正統性の連鎖」のシステムの中では、彼自身が相対化されています。
朝日新聞の独特な所は、自己言及する際の視点が、他者に向けるものと根本的に違う所です。自己弁護の為の無理な正当化はどのような組織でも行なうと思いますが、それが、朝日のよって立つ倫理的な基盤と根本的に矛盾する、という所が独特です。「朝日だけ『私』と『他人』が違うと使い分けてる、それはずるい!」という風に言うわけです。鳴かぬなら鳴いたと書いてすりあわせに引用した、953氏、962氏の発言は、その点を明解に指摘していると思います。
From: [953] 名無しさん@5周年 <>
これで回答をしました、というのなら、
この間の岡田に対する小泉の答えに対して文句を言うなと
From: [962] 名無しさん@5周年 <>
>>953
なるほど。
「危険地帯に行かない自衛隊がいるのだから、そこは安全地帯なのです」
「事実しか報道しない朝日新聞なのですから、書かれた記事は事実なのです」
朝日新聞が、外部を批判する時に用いる論理をどのように展開しても、現在の朝日新聞の対応(質問に対する実質的無回答)を正当化することはできないと思います。
ちなみに分かっていると思いますが953氏、962氏の発言の間違いを指摘しておくと、何故朝日新聞が小泉首相の発言を批判しているかと言えば、つまり「『イラク自衛隊派遣』が間違いだとする小泉首相の判断」が間違いのにそれを正しいと思っている事と、それが何故正しいかの説明をしないからなのであって、別に「自分の判断が正しいと、国会で言うこと」自体を批判してるわけではないのです。さらに言えば、「危険地帯」かどうかは未来においての、しかも相対的なこと(*6)であり、例え小泉首相であっても結局沢山の状況証拠からしか分からないわけで、ですから説明が必要な訳ですが、しかし今回の問題は過去の、しかも絶対的なこと(*7)なのですから、どんなにしてもあれ以上の説明は不可能な訳です。
ですからこのブログの人が言いたいのは結局953氏、962氏の様な幼稚な嘘ではなく、結局「朝日だけ『私』と『他人』が違うと使い分けてる、それはずるい!」ということなのです。
しかし僕は確かに「『私』によって裏打ちされたもの」を単純に信じることは出来ませんが、しかしだからといって「『私』を捨て『私たち』となり、『正しさ』ではなく『私たちに良きもの』を目指す」方向もやはり嫌なんですね。じゃあ1の選択肢を選べば良いかと言えばそんなに単純な事じゃないわけで……
上記で僕は「現時点でのメディアリテラシー的に好ましい態度は、はっきりしない部分は「分かんないね」と判断を留保すること」という崎山伸夫氏のコメントを引用しましたが、じゃあその結果どうなったのか?声を挙げぬものは声を挙げるものに駆逐される。今はっきり言ってネット上の意見の大多数は「朝日新聞は捏造した」派であり、捏造記事の書き方講座なんて記事がblogmapのURLランキングの上位に入ったりする。でもそれを防ぐ事は出来ない。何故か?答えは「敢えて」という言葉にある気がしてなりません。
つまり、他人の嘘を批判しながらも、何処かで自分を疑うんですね。で、一通り自分を疑った後「でも敢えて私は……」という風に他人の嘘を批判する。それを毎回行わなければならない。でも、それだけだったらまぁ許容できる範囲なんですよ。問題はそれを繰り返していく内にそれがルーチンワークと化し、そして本来「『私』という嘘を疑う」ことを敢えてやることによって効果を発揮するようになっていた「『他人』への嘘を暴く」ことが、その最初の「『私』という嘘を疑う」ことをなおざりにやる事によって「『他人』への嘘を暴く」ことまでもなおざりになっていく。そんな現象が進行している気がして仕方がないのです。
電波なブログ晒しと治療薬としての良質ブログ@本宮ひろ志先生を支援する勝手連
これは絵ではありませんが、病棟の廊下に何かメモが落ちていました。という風に言う事が出来る人に郷愁にも似た心地よい感覚を感じてしまうのです。もちろんこういうブログが世間の流れを変える力なんて無いのは分かってるし、逆に言えばこういう人達が世間を変えるようになったらそれこそ不幸だ、という様なことも良く分かっています。磁石と重石の発見は今回の問題についてこんな記事を書いて、患者の物と思われますので報告します。きもすぎる (2005-01-23 21:17:55)
↓
★ http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050123
なんとなくだけどね。朝日もNHKも、安倍、中川の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」もそして「VAWW-NETジャパン」にも同じような嫌らしさを感じるんだよね。そういう「ファナティック」さを諫めています。でも……それは何かというと「この社会はコントローラブルなものである」と思い「わたしがこの社会を変えなければならない」というようなひん曲がった使命感と言うか、エリート意識と言うか、選民思想と言うか。
(略)
人間にできることはせいぜいが身の回りのことでしかないだろう。そしてできるならば身の回りの己の権限が届く範囲を少しずつでも広げて、そこに居るヒトぐらいは泣かせずに済むように努める。これぐらいしかないだろう。
ところが何等かの「メディア」を持ってしまうとこの「身の丈」を読み誤る人々がでてくる。周囲から「先生」とか呼ばれるともうお終いだ。肥大化した自我の増大は止められなくなる。
(略)
理念に踊らされているだけなら、それは政治活動でもなく単なる宗教じゃないのか。
社会主義(「VAWW-NETジャパン」が社会主義だといっているわけではない)も国家社会主義(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が国家社会主義だといっているわけではない)も共に「社会主義」であろう。そこではエリートの思い上がりと腐敗が生まれる。そして理想に燃えた(萌えた)社会建設の掛け声の下、国民がないがしろにされるんだ。それが組織というものの一面であり、歴史が教える教訓だ。
ま、「でも」の後の言葉なんか考えつく訳無いんだけどさ。
*1: その権力には「私」も含まれる
*2: コミュニケーション上の技法としてその様なことを言うのは可能でしょう。しかし、内的に心の中でそれを「信じる」のはやはり不可能なのです。
*3: 出版社と関係があったり、HTML言語を知っていたり、自分で製本をしたりしなくても大丈夫だということ
*4: 要するに「名無しさん」
*5: 「日本には『私』なんて無かったんだよ」とか言う人も居るかも知れないが、しかし少なくともその様な「良識」があったのは事実だったと思います。最も、中にはその様な「良識」に反抗してきた人も居て、その様な人は今2ちゃんねるを無条件に賛美してます。しかし、2ちゃんねる以前にそのようなこと(つまり「『私』を捨てろ」とかそういうこと)を言うというのは、その時代に於いてはむしろ「私たち」にとっても害悪だったのではないでしょうか?
*6: 自衛隊の施設が破壊される可能性やら、自衛隊が死ぬ可能性やら、一口に「危険」と言ってもそこには複数のものがある
*7: 「言った」が「言わない」かしかない