■ 人権擁護法案について(デスノート風)FLASH@伊藤剛のトカトントニズム
# rir6 『伊藤剛さんが紹介しているFlashへの批判はTrackbackを送ったのでそちらを見てください。「悪い人が作った=悪い法案」/「良い人が作った=良い法案」というのは成り立たない」のは全くその通りです。と言うのなら何で>この法案のとおりなら、「被差別者」「弱者」と認定された者があまりに恣意的で強大な権力を持ってしまうからだ。
「被差別者」「弱者」が家宅捜査・資料押収・情報公開などの権限を持つ訳ではありません。人権委員会がそのような権限を持つのです。さらに言えば、権限だってそんなに強大な訳ではありません。拘留なども一切されませんし……
>けれど、強権をもって相手を処罰する権利を得ようとは思わない。また、それを可能にする機関や回路も必要ない。なぜなら、それによって自分と社会との関係が荒むのが目に見えているからだ。それはそれで嫌な事態だ。強すぎる権力は何も生まないし、有害だと思う。人権侵害に対する「救済」にもならないのではないか。そして、たぶん「差別」の解消に何の役も立たない。
個人としてそのような考えを持つ事は結構な事ですが、それを被差別者全員に広げようとするのはちょっと酷でしょう。大体、「自分と社会」と言いますが、差別・人権侵害をするのは結局の所個人であり、正しくは「自分と他者」です。社会に立ち向かうのではありません。更に言えば、関係が荒れる事をもし恐れるなら、被差別者は何も反論できなくなります。差別者の中には被差別者が反論することすら許せない人も居るのですから……
>それにしても、こんな無茶苦茶な法案は、どのような経緯で、誰の意図で、何を目指して作られたのか。そこにどんな利権が存在しているのか。そういったところから見ていかないといけないと思う。
法案に対して語ろうとするならばそういうことではなく、法案の条文を逐一検証していかなければならないはずです。「悪い人が作った=悪い法案」/「良い人が作った=良い法案」というのは成り立たないのですから。』
# goito-mineral 『>rir6さん
批判のほうは拝見しました。
人権委員会が権限を持ち、「弱者」「被差別者」が権限を持つわけではないのは、形式的にはそうでしょう。正確には「弱者」「被差別者」と認定されたものが強い力を持つということですから、余計に問題なのではないですか。
「悪い人が作った=悪い法案」/「良い人が作った=良い法案」というのは成り立たない」のは全くその通りです。法案の条文をみたうえで今回のエントリーは書いております。また、TBしていただいた先の記述は拝読しましたが、「悪い人が作ったフラッシュ=悪いフラッシュ」でもないと思いますよ。私もリンク先の人々の主張に全面的に賛同するわけではありません。ここでのエントリーもそのような表現になっているはずです。』
それにしても、こんな無茶苦茶な法案は、どのような経緯で、誰の意図で、何を目指して作られたのか。そこにどんな利権が存在しているのか。そういったところから見ていかないといけないと思う。とか書くのか分からないし、私もリンク先の人々の主張に全面的に賛同するわけではありません。ここでのエントリーもそのような表現になっているはずです。と言いますが、それにしたって
ようは、警察よりも強い権限をもち、しかも歯止めのない機関が「これは人権を侵害している、差別である」と認証した言論を一方的に取り締まることができるというものだ。という風に、間違っている所を要約して事実として紹介しているんだから駄目じゃんと思うのだが、それよりも僕が気になった(今挙げた点も十分気になるんだけど)のは、正確には「弱者」「被差別者」と認定されたものが強い力を持つということですから、余計に問題なのではないですか。という所です。
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最初伊藤剛氏は被差別者」「弱者」と認定された者があまりに恣意的で強大な権力を持つと言っていたんですよね。これなら僕も、まだ単なる事実の勘違いなのだから、正しい事実を知れば何とかなると僕は思ったのですね。何故なら、ここで言う権力というのはつまり人権委員会の政治権力の事だと思ったから、確かにそれを被差別者と認定された者が自由に操るようになるのは、もしそういう事があるとしたら問題です。しかし実際はそういうことは無いのですから、それはちゃんと正しい事実認識を持てば解決する問題です。
しかしその後伊藤剛氏は僕の指摘を受けてそれを「弱者」「被差別者」と認定されたものが強い力を持つという言葉に直しているんですね。つまり、彼が恐れているのは別に被差別者が政治権力を独占して操るという事ではないということになる。では一体何を恐れているのか?
この事から導き出される結論は1つしかありません。じつは彼は「権力」というのを、そういう狭義の「政治権力」とかそういう語義において使っているの(*1)ではなくて、もっと広義の意味、つまり「何者かに強制させる強い力」という意味で使っていたのです。そして彼はその「何者かに強制させる強い力」を被差別者が持つことを恐れている。そういう結論しか僕には出せませんでした。
そして、もしこれが僕の読み間違いで無ければ、そういう認識を持つ事は、言論を発表する者としては致命的な過ちに思えて仕方ありません。何故なら、そこには(*2)言論も時には「何者かに強制させる強い力」を持つ事がありえるという認識が欠けているからです。だって、もしそのような認識があるのなら、自分たちも「何者かに強制させる強い力」を持っているということが明らかなのですから、被差別者が「何者かに強制させる強い力」を持ったとしても、それをその事実からは批判できない筈です(*3)。
例えば、ここにAという人が存在したとしましょう。彼は色々な人から差別言説(ヘイトスピーチ)を受けて、遂に自分で自分の命を絶ってしまいました。この場合、確かに自殺という決断はA自身が選んだものですが、では彼には何も「自殺を強制させるような強い力」は働いていなかったのでしょうか?僕はそうは思えません。彼には「言論」(*4)というツールによって、家宅捜査・資料押収・情報公開などと同じ、いや、僕はそれよりも断然こちらの例の方が強い「自殺を強制させるような力」が働いていたと思います。
もちろんこれは極端な例です。しかし、ここまで極端な例でなくても、今ネット上に溢れている差別言説によって、ネット上で発言を出来なくなっている被差別者は一杯居ると思います。つまり彼らは言論、それも差別言説というツールによって「発言しない事を強制させるような強い力」を受けているのです。そんな彼らが、別のツール、つまり人権委員会などの組織によって、「差別言説をしないことを強制させる強い力」を持ったとして、一体何故それが批判できるのでしょうか?
つまり、言論というのも時には権力になり得るのです。しかしそれにも関わらず「他の力は駄目だが、言論の力はOKだ」と言うのは、僕には「言論原理主義」であるとしか思えません。「イスラム原理主義」はイスラムの原理を唯一正しいものであると考え、「市場原理主義」は市場の原理を唯一正しいものであると考え、そして「言論原理主義」は言論の原理を唯一正しいものであると考えます。確かに、イスラム・市場・言論、どれもそれぞれ正しい部分がありますが、しかしどんな正しい原理であっても、必ずその枠からはみだしてしまう人も居るのです。その様な枠からはみ出してしまう人のことを忘れてしまうのなら、幾らその原理が正しい考えであったとしても、結局はファシズムと全く同じなのです。
最後に、僕は別に伊藤氏が自分個人の信念として
当然のことながら、病気に対して差別的なことをいわれたり、中傷の道具にされたら腹が立つ(それをした相手を軽蔑もする)。けれど、強権をもって相手を処罰する権利を得ようとは思わない。という風に考える事は何も批判しません。むしろ、その様な信念を持つ事は素晴らしいこと(*5)だと思います。しかし、それを他人にも強制するのはどうでしょうか?他人には、例えその他人と共通点が多かったとしても自分には全く分からない他人の事情があるのですから、それを考えずにただ一概に自分内の倫理を他人に強制しようとするのは、ある種(そのような倫理は無理だと)分かって強制するよりも恐ろしい(*6)様な気がします……
*1: もしそうであればそれは「力」という風には言い直せなくなるから
*2: 伊藤氏が差別意識を容認していないという前提に立てば
*3: もちろんその事実に付随してくる色々なもの、例えば今回の問題で言えば「法務省外局に人権委員会を設置」とかそういうことを批判するのは可能ですが、少なくとも被差別者がそういう「何者かに強制させる強い力」を持つ事自体は批判できないはずです
*4: 差別言説も今の日本の状況では言論なのだ
*5: 僕はやっぱり、もし自分に対する差別言説・中傷が余りに酷かったら、国家権力にその様なことを言ってる人を罰するよう頼んでしまうと思う……
*6: もちろん自分でそういう倫理は無理だと分かっていて強制する人も卑怯なんだけど、しかしそういう人には弱さがあるからね