人権擁護法案について議論している最中に僕は思うのですが、何か議論している双方が常識としていることが全く異なるんですね。例えば、僕は「ナチスは『言論の自由』とか『多数決』とか、そういう民主主義の原理から産まれた」とか、「一言に『自由』と言ってもその解釈の仕方には色々なものがある」ということは常識だと思っていたのですが、どうやらある種の人々にとってはそれは常識ではないようで、一方僕は、彼らの言う「人権ゴロ」とか「差別利権」、「逆差別」と言われるものがどういう手続きを得て普遍的なものとして立証されたか全く分からないんですね。
これじゃあ議論が進む訳も無い。ということで、今回僕は僕みたいな左の人間が「常識」として身につけていることを紹介した本を選んでみることにしました。しかしもちろんこれは別に右の人達に「お前らこういう本読んで少しは勉強しろ!」という意味ではありません(そう言いたい気持ちは山々だが)。そうではなく、この記事は要するに「僕達が常識だと思っていることはこういう本に則ってるんだ。じゃあ君たちは一体どんな本に則ってそういう主張をしてるの?」ということを問うための記事なのです。ですから、この記事を読んだ、僕とは全く違う考えの人が「あー、こういう本読んでるんじゃああいう馬鹿らしい考えになるのも仕方ないな。仕方ない、一丁俺がもっと為になる本を教えてやるか」みたいな感じでその僕とは全く違う考えの基になっている本を紹介してくれること、それが僕の望みなのです。(出来ればそういう記事を書く時はコメントやTrackbackで知らせて欲しい……)
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さて、この本はポプラ社の10代の教養図書館というシリーズで刊行されているもので、こんなもの今更読めるかよという人も多いと思うのですが、しかしその分専門用語は使ってませんので、事前に何も知識の無いひとも簡単に読めますし、しかもそれでいて結構突っ込んだ内容まで説明していますので、僕はこの本はどんな年代の人にもお勧めだと思います。
P.128-129
アメリカ・ナチスの行進事件は、国内に大きな反響をもたらしました。「民主主義を否定するものも、包容するのが民主主義」という裁判所の判断は正しいかどうかをめぐって、賛成、反対、さまざまな意見がくりひろげられたです。多数決を「言論」に変えてみると今回の議論にも援用できる気がする……このときの議論は、多数とは正しさを保証する根拠であり、多数決で決めたものを正義と考える「絶対的多数決」か、多数決は正しい決め方だが、多数決では決められない事柄があるという「制限的多数決」かという対立です。
「公」の呪文からの「私」の解放ということは、しかし、「個人」という価値の解放にそのままつながるわけではない。それどころか、私益を失わないためには、「個人」の良心のこだわりなどは捨てたほうがよい、ということも希ではない。「みんなで渡れば……」という風土の社会では、むしろ、それが普通かもしれない。「会社人間」という言葉もある。「私益」の追求は、こうして、時として、個人の解放の邪魔になる。だから、「私」の解放は、個人の解放という人権理念の実現にとって、十分条件ではないし、ときによっては妨害条件にすらなる。この後、なんかこの本を読んだ頃の僕はしかし必要条件であることは確かだ。と書き込んでますね。うーん。P.200
……しかしマルクスにとって、ユダヤ人問題は、「原則からの例外ではなく、むしろ原則の確証」であった。人間の差別一般が問題なのであり、政治的解放にもかかわらず―いなそれゆえに―、市民社会がそれ自身のうちにたえず差別を生みださざるをえないことが問題のである。市民社会は、「国家生活からおのれを完全に切り離し、人間のあらゆる類的紐帯をひき裂き、利己主義、私利的欲望をもってこの類的紐帯におき換え、人間世界をたがいに敵対しあうアトム的個々人の世界に解消してしまう」。このようにして、スミスやベンサムが自然調和をみた市民社会に、マルクスはむしろ差別と対立の構図をみる。何かマルクス日本の右翼みたいなこと言ってる気もするがなぁ……P.90-91
「本音を語ることが人間的」だ、という安易な発想は、公的な演技を通して生まれてくるアーレント的な意味での「人間性」を衰退させ、アイヒマンのように陳腐で、自分では考えないで安易な方向に流れる"人間"を作り出すだけである。必死になって不自然な「仮面」を被り続けようとしているからこそ、「人」と「人」の間に多様性が生まれ、「人間らしい」活動が可能になるのである。「『差別言説』の中にも本音があるんだ。本音を規制するのは良くない!」という意見が一部の法案廃案派にあったので引用してみる。P.64-65
暴力と名指しされている行為は世界にあふれています。しかしたとえば、国際的にもいくども非難されている占領地においてタンクでもっていきなりパレスチナ人をひき殺す強大なイスラエル軍の暴力とパレスチナの子どもが握りしめた石をそのタンクに投げつける暴力が、あるいは手榴弾を身体に巻いて警官の前で自爆する若者の行使する暴力が同じ力なのでしょうか?米軍のデイジー・カッターによる破壊と、アメリカのゲットーでAK47を振りまわす黒人ギャングの暴力が同じ力なのか?多国籍企業が第三世界で秘密警察を雇って労働組合の活動家を殺害する暴力と、ついこのあいだ名古屋でおきた詐欺めいた企業に対して爆死した一人の労働者の暴力は、これも同じ力なのでしょうか?いわゆる民族紛争のなかのレイプ、先進国における幼児虐待、暴力団の抗争、いじめ、そしておびただしい自死、死刑―――さらにさまざまな文脈で、さまざまに行使される暴力があり、それはますます複雑化していくようでもある。それらをすべて、暴力でありだから同じものと均してしまうには、あるいは国家によって正当化された暴力と、そうでない犯罪でしかない暴力と簡単に裁断するには、少なくともなにかためらいが残らないでしょうか。ま、言論の自由弾圧も一つの「暴力」であることは確かでしょうな。しかし、「暴力」であるから即悪として批判するのは、やっぱり何かがおかしいんですよ。この暴力のどれかが「正しい暴力」だ、というわけでは全くありません。たとえば「きれいな原爆」などというものがあるはずがない。ちょっと信じられませんがかつてこういう言い方があったのです。ソ連は平和勢力だからその原爆は正しい、という意味です。このような発想は、そもそも暴力を腑分けしているようで、見極める能力の欠如があらわれています。力の腑分け、つまり批判は、教条によってはなしえないのです。
P.11-12
差別する側もされる側も同じ人間なのだ。される側だけが清廉潔白であるはずはもちろんない。する側だけが劣悪であるはずももちろんない。世界は善悪や正誤などの二元論で構成されていない。絶対的な正義や悪という観念に僕らは陥りがちだが、その混在が世界なのだ。差別という構造も同様に、「する側」と「される側」という単純な数式ては割りきれない。きっと何かが余り何かが足りない。大事なことはそのすべてを見つめることだ。絶対に切り捨ててはならない。なぜならその曖昧さにこそ、人の優しさや世界の豊かさが息づいているのだから。この文章はともすれば人権関連法案に関するまとめの手助け(臨時)に対する批判にもなっちゃうかもしれないんだけどあえて引用。だって、もしこの文章で完全に論破されるような文章を書いているとすれば、それは早めに直したいですから。
左の人「お……オカルト教団は怖い。信用できないよあんな教団!」という表現に余りにむかついてしまったので紹介(このFlashに対する批判は「人権擁護法案について(デスノート風)FLASH版」の問題点にあるのでそちらを見て下さい)。この本ではオウム真理教(現アーレフ)の内部から、オウム騒動を調べたドキュメンタリー。これはちゃんと映画の方もDVD化されているので(A、A2)そっちも見て貰いたいです。しかしなぁ……この本で出てくる、転び公妨なんかを見ると、絶対に法務省なんかには人権擁護なんか出来ない様な気もしてくるんだよね(まぁ、それは何処に置いたって同じだろうという批判もあるんだけどさ)。だから、何で既存の法案反対派は全然そのことを突っ込まないのか?陰謀論を語って良いんだったら、そっちの方によっぽど陰謀のにおいを感じると僕は思いますけどね。真ん中の人「はい、ミサさん。その発言は「差別的発言」です、家宅捜査、資料押収、情報公開」
左の人「横暴よ!」
真ん中の人「はい横暴です。」
思い出して欲しい。僕らは事件直後、もっと煩悶していたはずだ。「なぜ宗教組織がこんな事件を起こしたのか?」という根本的な命題に、的外れではあっても必死に葛藤をしていた時期が確かにあったはずだ。事件から六年が経過した現在、アレフと名前を変えたオウムの側では今でも葛藤は続いている。でも断言するが、もうひとつの重要な当事者であるはずの社会の側は、いっさいの煩悶を停止した。「憎悪」に燃える(「萌える」と出たがあながち間違いでも無いのかもしれない)僕を含めた人へ。剥きだしの憎悪を燃料に、他者の営みへの想像力を失い、全員が一律の反応を無自覚にくりかえし(半世紀以上前、僕らの父や祖父の世代は、こうしてひとつの方向にのみ思考を収斂させることで、取り返しのつかない過ちを犯してしまったはずではなかったのか?)、「正と邪」や「善と悪」などの二元論ばかりが、少しずつ加速しながら世のマジョリティとなりつつある。
P.252-253
在日朝鮮人の国籍問題は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約にある国籍選択方式を念頭におきながら、やがては国籍のいっせい喪失へ、そして、それ以降の日本国籍取得は「帰化」によって対処する。その際も、「日本国民であった者」とも「日本国籍を失った者」とも扱わない、ことによって完結した。歴史の責任を負うことが出来ない輩に、「ナショナリスト(愛国者)」と名乗る権利は無いと僕は思うのですがねぇ……いつの間に「ナショナリスト(愛国者)」の定義は、「歴史に責任を持たず、自分の我が儘を押し通す者」に変わったんでしょうか?それは、かつて「帝国臣民」たることを強制した者を、一般外国人とまったく同じ条件で帰化審査に付すことを意味し、みごとに"歴史の抹消"がなされたといえよう。
そもそも、帰化というのは、日本国家がまったく自己の好みによって相手を自由に"選択"できる制度なのである。前に見た西ドイツにおける国籍選択は、オーストリア人の選択に西ドイツが従う制度であり、日本とはまるで正反対である。
かくして、いったん「外国人」にしてしまえば、あとは日本国民でないことを理由に国外追放も可能なら、さまざまな"排除"や"差別"も、ことごとく国籍を持ち出すことにって"正当化"され、それが基本的に今日も維持されているのである。
クリティカルな政治情況を前に自分はどういう立場どりをすべきか――「右翼的」とも「左翼的」ともみえる試行錯誤の末に雨宮が出した答え=基準は、「「自分が燃える」かどうか」であった。この実存を特権化した基準を前に、標準的な左/右のイデオロギー対立は失効を余儀なくされる。「右派」的なナショナリズムに動機づけられて右翼を気取るのでも、「左派」的な理想に動機づけられてイラク戦争に反対するのでもない。「この私」の実存を担保してくれる「何か」こそが、コミットする対象となるのだ一応言っておきますが、僕はこの本を持って既存の反対派を揶揄しようとかそういうことは思ってません(それだったらもっと簡単な本持ってくるよ:-))。これは確かに既存の2ちゃんねらーが抱えている問題であれば、一方で僕みたいなネット右派も抱えている問題なのですから……もちろん明示的に自分のポジショニングを語る雨宮は、特異な存在ではある(その点が無意識を生きる窪塚と決定的に異なる)。しかし彼女は、きわめて象徴的にロマン主義的シニシズムの機制を分節化してくれている。
P.225
以上、最後の一冊以外は全て人権擁護法案について考えるときは必ず役立つと、人権擁護法案反対→人権侵害救済法制定派である僕が考えた本です。僕が怒っていることがいまいち感覚的に良く掴めない人は、これらの本を見てくれれば感覚的にも僕が言っていることが分かると思います。逆に、僕は既存の人権擁護法案廃案派のメンタリティが良く分からないので、そこに属すると自分で分かることは、その考えの根拠になるであろう本を紹介してくれると幸いです。
*1: 当たり前だが、日本は朝鮮戦争・ベトナム戦争という戦争に、アメリカに武器・基地を送るという形で実質的に"参戦"してきたのだ。それを見ずに「日本は今まで平和を守ってきた素晴らしい国だ!」などというのは欺瞞に他ならない。日本は今まで戦争に参加してきたことを前提に、「ではこれから戦争に参加しないようにするにはどうすれば良いのか?」を考えるべきなのが真の護憲派であり、それを考えないでただ今の憲法を守れば良いと思うのは「実質改憲派」だと思う。