三ヶ月ぐらい掛けて読破しました……この本は、本当に若きサルトルの「黒い所」が濃縮された小説ですね。ていうかこの本、確かにギミックは時代的なものに溢れてるけど、根本のところは「世界への憎しみ」という全く普遍的な感情(少なくとも僕にとっては)な訳ですよ。
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つまり、永井豪のデビルマンやら、大槻ケンヂの新興宗教オモイデ教とかと殆ど同じ感情なんですよね。だって例えば↓の文
それはいつてもおこりかねない(略)あるいは、母親が子供の頬を眺めて聞く。「それはなんだい、お腫物かい」、母親は、肉が少し膨れ割れ目が生じ半ば口が開くのを見る。割れ目の奥に第三の眼、笑っている眼が現われるだろう。あるいは奴らは、川の中で泳いでいる人が葦によって愛撫されるように、全身に快い接触を感じるだろう。また、衣服が生きものになったのを知るだろう。また、ある者は口の中に引掻くものがいるのを見つけるだろう。鏡に近寄って口を開けると、舌が、生きた巨大な百足になっていて、脚をばたばたさせ、口蓋の表面を削り取っているのを見るだろう。彼はそれを吐き出したいと思うが、百足はからだの一部になっており、両手でむしりとらねばならないだろう。(略)その状態が暫く続けば、大量に自殺者が出るだろう。そうだ。試しにでも少し自然が変化を起すといい。それこそ私の願いである。(略)私は大声で笑い出しただろう。私は壁に凭れながら、通りすぎる奴らに叫んだだろう。「君たちの学問はなにをしたんだい。君たちのヒューマニズムでなにをしたんだい。考える葦としての威厳はどこにあるんだ。」私は恐怖を抱かないだろうちょっと文体を変えれば上で挙げた作品に挙げられてもおかしくないでしょう(*1)。というか、デビルマンは実際にそういう光景を描いたし、新興宗教オモイデ教だってP260-261
僕は、自分を取りまく者達全てに、平等に、憎しみを抱いて暮らしていたのだ。偉いとされている人のパレードを、アホ面下げて、小旗を振って、わずか数秒のために人だかりをつくって、そんな自分を疑わない、悪いとも思っちゃいない、つまらないとも感じていない、恥じることもない、自らの命を絶つ勇気もない。そんな人間達のこの世界が、そしてそんな世界のやはり一員である自分が、僕は憎くてしかたがなかったのだ。(略)世界を燃やしつくし、壊しつくし、逃げまどう子供たちの耳たぶを焼き切り、はむかおうとするサラリーマンのワイシャツのボタンを噴き出す贓物ではじき飛ばし、奥さんの乳房をくり抜いて、義父の口の中へつっ込み、老人をアザラシと交尾させ、頭から無数のキノコが生えた赤子を産み落とさせる。なんてまさに上の文章を現代風に直したと言っても過言ではないでしょう。(ノゾミ・カナエ・タマエ」とかを聞きながら読んだが、結構合っていたと思う。">*2)
もちろん時系列的に考えれば、「嘔吐」の方が上記の作品2つより明らかに古いのですから、「2つの作品が『嘔吐』の書き方を受け継いだのだ」ということも可能でしょう。というか僕もそれが事実だと思う。だが、何故こんな醜悪なもの(*3)受け継がなければならなかったのか?それは十分考えるべきことだと思います。
といったって、その答えすら、この「嘔吐」の中には書かれているんですけどね(わ。この小説の特異な点の一つは、小説でありながらしかしその小説から出る、つまり作者が感じる力の殆ど(*4)を理論的に説明している所なんですね。要するにある意味サルトルは書きながら批評しているわけなのです。
本っていうのは読んだ後、二つの感想に分かれるんですよ。「理論的には納得できないけど、でもなんか感じる」という感想と、「理論的には納得できるけど、感覚的には何も感じなかった。」という感想。前者の文は「小説」であり、後者の文は「評論」な訳です。しかしこの二つは殆どの場合混合する事はない。何故なら「小説」というのは感覚を刺激する文であり、「評論」というのは思考を刺激する文だからです。
つまり、感覚ってのは基本的に「感じる」のがとても早い訳です。説明が必要ないのですね。しかしその一方で、持続力は小さい。だから、その「感覚」が感じた後、すぐ次の「感じる」場面にいかないとその感じたものは消えてしまう訳です。一方、「思考」はその正反対で、「知る」のはとにかく時間を掛けて説明しないと生じない訳です。しかしその一方で、持続力は長い。すぐ先の場面にいかなくても、知ったことは消えない訳です。このように感覚と思考は正反対の属性を持つものであり、それ故両立することはありえないのです。
しかしサルトルはそれを両立させた。それは一体何故か?僕は、最初の部分ら辺にある様な気がします。多くの人がこの[[嘔吐]]について語る時、「最初は難しかったが、中盤ら辺からすいすい読み込めた」と言います。ぼくもそうでした。実はこれには訳があって、じつはこの最初の部分はサルトルによる読者に対する「トレーニング」だと思うのです。つまり、普通の脳が説明を理解するのに必要な分量の半分で書いているのですね。それ故、思考は「あともうちょっとで分かるんだけど……」と思い、一方感覚は「あともうちょっと感じる事を持続できれば……」と思って、双方がもっと頑張ろうとする訳です。その結果、思考の理解力と感覚の持続力がそれぞれ同じ分だけ伸びて、その結果「理論的にも納得できるし、何かを感じる」という、いわばbestな結果が出るようになっているのではないかと、僕は思うのです。
もちろん上のようなことは、一切無駄が無い文で行わなければなりません。つまり、感覚的にも何も感じないし、思考的にも説明にもなっていないような文は一文字なりとも入れてはいけないのです。ある程度読者にオーバーワークをさせるのですから、作者も大変な苦労をして、純度百%(*5)の本を作らなければならない訳です。しかし、サルトルはそれをやってのけた訳で、まさに天才と言って良いでしょう。
という訳で、話を元に戻すと。何故「嘔吐」はここまで普遍性を持ち得るかということです。これに対しては以下の文が説明になるでしょう。
もし私が実存するとすれば、それは実存することにひどく嫌気が差している〈から〉だ。私が熱望しているあの無から、私自身をひきだすのは私である。この〈私〉である。実存することへの憎悪にしろ嫌悪にしろ、いずれも〈私を実存させ〉、実存の中に私を追いやる方法である。そう。つまり「私」の正体とは実存する事への嫌気なのです。つまり、この僕が「私」である限り、実存への嫌悪が生じるのです。しかし人間社会というのは本当につい最近まで「私」であれという命令を絶えず与えてきた。よって、実存への憎しみも決して止む事は無かったのです。しかし一方で、私が実存するという文からも分かるとおり、実はその「私」が憎んでいる「実存」とは、つまり「私」のことなんですね。平たく言うと「自己嫌悪」です。P.163
さらに、その実存とはある特定の個物ではないのです。むしろ、その個物を超越したところに真の実存があるのです。
私は漂っていた。だが、そのことに驚かなかった。それが〈世界〉であることをよく知っていたから、赤裸々な〈世界〉は、かくて一挙に姿を現わした。私は、この無意味な嵩ばった存在に対する怒りで、息が詰りそうになった。すべてこれらのものがどこからやってきたのか、また、いかにして無の代りに世界が実存する事になったのか、それを不審に思う事さえできなかった。僕はこの文を見た時「その通り!」と叫びそうになりました。そして、実存に対する全ての疑問が氷解しました。実存というのはつまり極論すれば一つなんですね。それは「世界」です。「実存主義とは何か」ではまるで実存が人間の特権、超越性であるかのように語っていて、僕はもうそのような超越性を疑っていたので「どうも『実存』というのは眉唾ものだな」と思っていたのですが、実はあの文章は単なるアジテーション(*6)で、真の実存はこの「嘔吐」にこそある!そう僕はを大にして言いたい。(*7)P.220
さぁもう全体像が分かったでしょう。つまり、この「嘔吐」のメッセージが、それはつまり「『実存』=『世界』=『私』への憎しみ」です。それは「自己嫌悪(否定)」(*8)であり、また「世界=他者嫌悪(否定)」(終末後の音楽へとの「動物化出来ない『人間』」に書いてあると思います。ていうか鬼束ちひろのアルバム「This armor」でも聞けば一発で分かるでしょう。">*9)
ところでここでちょっと閑話休題。この「嘔吐」という文章に穴が一切無い理由の一つに「批評(*10)と小説が両立しているから」というのを挙げましたが、この批評と小説の両立で僕が一番面白いなと思ったところは独学者とのヒューマニズムについての会話です。この文はちょっとでもバランスを崩せば、批評か小説どちらかに落ちてしまう微妙なところにあるのですね。しかしこの文章は絶対にバランスを崩してはならない。何故なら、もしバランスを崩せばそこには「真実」性が欠けてしまうから。(*11)しかしサルトルは見事にその絶妙なバランスを作り上げた。それにより、この会話はとても「リアル」な文となったのです。ちょっと一例を見ましょう。
「いや、こう考えるからですよ」私は笑いながら彼に言う。「私たちがこうにこにこしている間、私たちの貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしている。しかし、存在することにはいかなる意味もない、まったくなにもない、ということなんです」これを見た時、僕は独学者に対し「(^Д^)ぷぎゃーm9」と言いたくなりました。何ていうか、リアルすぎて泣けてくるというか……(*12)。大体もし「人生は生きるに価するか」という問いで「価しない」と出たところで、じゃあお前は自殺すれば全て解決すると思ってるのか?というのが、主人公の問題にしているところなのに……何で「厭世主義」とかそういうのが出るのだろうなぁ。独学者は重々しい顔つきになった。彼は私を理解しようと努力する。私は大笑いしすぎた。数人の顔が私のほうをむいた。それに、しゃべりすぎたことが悔まれる。要するに、これはだれにも関係のないことだ。
彼はゆっくりと繰り返す。
「存在するいかなる理由もない……。というのは多分、人生には目的がないという意味なんですか。それは厭世主義と呼ばれているものではないんでしょうか」
彼はなおちょっと考え直す、それから静かに言う。
「数年前にアメリカのある作者の本を読んだことがあります。『人生は生きるに価するか』という題のものでした。これがあなたの提起なさった問題ではないのでしょうか」
はっきりと違う。それは私の提起した問題ではない。しかし私は、なにも説明する気にはなれない。
「その作者は自発的な楽天主義に与してつぎのような結論を下していました」独学者は、慰める調子で私に言う。「人生は、それに意義を与えようとすれば意義があるのだ。まず行動し、企ての中に飛び込まねばならない。その後で反省をすれば、すでに賽は投げられたのであり、道は決まったことがわかる、というものです。これについてあなたはどうお考えになりますか」
「別になにも」と私は言う。
P.183-184
自分の裡に自分自身を誇らしく持っているものとしては、音楽の調べしかない。ただそれは実存しないのである。実存するものはひとつ残らず理由なく生れ、弱さによって生き延び、出会いによって死んで行く。自殺といえば、実はこの小説の主人公は自傷をしてるんですよね。自殺ではなく自傷、やっぱりこの小説は「今」こそ読まれるべき小説な気がするなぁ……P.218-219
唾液は甘ったるく、私のからだは生温かい。自分が味も素っ気もないものであることを感じる。ナイフは机の上にある。刃を開く。そうしてはいけない理由はあるか。ともかくそれは、物事を少し変えるかもしれない。私は左手をメモ用ノートの上に載せる。そして掌にナイフをぐさりとつき刺す。あまり神経質に振る舞ったので、刃が滑り、傷は浅い。血がでる。そしてそれから。なにか変ったことがあるか。いずれにしても私は、白紙の上に先刻私が記した文字の行を横切っている。私であることをついにやめた小さな血潮を満足気に眺める。話が逸れました。しかし別に主人公は独学者を完全な敵とは見なしてはないのですね。その会話の後、もともと少年愛者である独学者が少年に手を出してしまった(この人を思い出してしまった……あともう一人思い出すべき人が居る気がするが、それはきっとタブーなので触れない。">*13)ときの文P.163
ずいぶん前から、独学者の優しいおどおどした顔が醜聞を呼び寄せるだろうということを感じていたのだ。彼のしたことは重罪に価しない。少年に対する観想的で慎ましい彼の愛は、まあ好色といえば言えるが―むしろヒューマニズムの一形態なのである。しかしいつかは独学者も孤独になるべきだった。アシル氏や私のように。なぜなら、彼は私の種族の者であり、善意を持ってるからだ。いま、独学者は孤独の中に入った。そう、結局考えてるだけ独学者も良い人なんだよ。そこら辺に歩いてる何も考えてない「おろかもの」よりは……P.262
しかしこの主人公も元恋人との対話では自分が独学者になってしまうんですなぁ。ここでの主人公のやられっぷりは本当に「みじめ」の一言に尽きますよ。まるで映画版エヴァの「Komm,suser Tod」前のシンジとアスカの対話みたい(*14)。いつ主人公が元恋人を首締めにかかるかドキドキしてしまいましたが、残念ながらそういう場面はありませんでした。
ではどうやって最後を締めくくるのか?やっぱりその話、しなきゃ駄目ですよね……劇場版が駄目なら、TV版です。そう、「僕はここに居ても良いんだ!」です(*15)。意外に思われるでしょう。というか、思って下さい。「何であそこまで孤独と恐怖と不安と憎しみを語っておきながらそうなるんだよぉー」と、僕はちょっと怒りそうになりましたが、じゃあその他に何か良い終わり方があるのか?と聞かれると、僕は「デビルマン」エンドしか思い浮かばないけれど、でもそのエンドは明らかに「真実」味がないし(終末後の音楽へとに書いてあります。でも、それはあくまで「現代」の話の筈なんだけど……天才は時すら飛び越えるのか!?">*16)、やっぱりこの終わり方しかないのかなぁ、と思い、ちょっと涙すら出てきました。一応「過去における」とかいう言葉は付いているけど、やっぱりそれは単なる照れ隠しだと思うのだ。ちょうどシンジが「でも好きになれるかもしれない。!」という風に「しれない」という言葉を使ったように。
一冊の書物。もちろん、それはまず退屈な疲れる仕事でしかないだろう。しかし、本を書き上げ、それが私の背後に残るときがたしかにくる。私は、その本のわずかな明るさが私の過去の上に落ちるだろうと考える。そのとき、その本を通して、私は自分の生活をなんの嫌悪もなく思いだすことができるかも知れない。恐らくいつか、背を丸くして列車に乗っているときを待っているこの時間を、この陰気な時間をまさしく考えながら、多分私は、自分の胸がいつもより早くときめくのを感じるだろうし、つぎのように独語するだろう、「すべてがはじまったのは、あの日のあの時からだ」と。そうして私は―過去における、ただ過去における―自分をついに認める事になるかも知れない。もちろん此処に合う曲が「Good, Or Don't Be」であることは言うまでもありません。P.291
もちろんこの最後以外は本当に素晴らしいものだと思うし、またこの最後も自分で代替策がない以上受け入れるべきものなのかもしれません。(*17)(「新興宗教オモイデ教」も結局同じようなもんだったからなぁ。)しかし僕はどうしても「これ」を受け入れる事が出来ないのですなぁ。かといって「滅亡」もオウム以降は例え天才じゃなくても選べなくなっちゃったし、うーん、やっぱり最後の道は、自分で見つけなければならないのか……
出来る訳無いじゃん!
まぁ、無事で帰ってきたからこそ言えることなんだろうけど、正直ちょっと騒ぎすぎだったと思う。そりゃあ、まだ小学生の女の子だから、両親が心配する気持ちも良く分かります。だから、僕は別に両親が捜索の為にBLOGを使って捜索願いを出したことは特に否定はしません(肯定もしないけどね)。
でもなぁ……両親とは全く関係ない第三者が殊更に自分のBLOGでこの行方不明者のことを騒ぎ立てるのは、やっぱり僕は良くなかったと思う。
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そりゃあ結果論からしたら、この少女はTVで見たニュースがきっかけで帰ってきたというし、BLOGとかネット上で騒いだことによってニュースになった(のかな?良く分からない)のだから、結果的にはネットで情報提供を呼びかけるという作戦が功を奏したのだろうけど、しかしそれはやっぱりたまたまその公開された情報が悪用されなかったことによるものだったと思うし、もしその情報が犯罪者によって悪用されたときのことを考えると、やっぱりある程度家出が長期化したとしても、悪用されるかもしれないというリスクと比べてたら少ないものだから、ネット上で騒動にはしない方が良かったと思うんだよね……
更に言えば、僕は今回のことがこんな大きな騒動になったことによって、この少女がそれに対して過度の責任を感じてしまうことを、やっぱり心配してしまうんだよね。これはもう教育という側面のことかもしれないから賛否両論あると思うけど、僕は家出という行為を規制する倫理に、「周りの人が心配するでしょ」というのは使っちゃいけないと思うのだ。そうではなく、家出をしちゃ駄目とされるべきな理由はただ一つ。「自分が危なくなっちゃうから」だと思うんだよね。他の人が幾ら心配するとか、そういうことはもう他人の勝手なんだから、言葉は悪いかも知れないけどどうでも良いことなんですよ。そうではなく、ただ「自分が危ない」という、その危険によって、家出はいけないんです。でも今回の様に大きな騒動になってしまったら、多分少女にとってはそういう騒動だけが頭に残ってしまって、「家出は大きな騒動を起こしてしまうから駄目なんだ」という経験則が残ってしまう恐れがある。それが僕はどうにも心配なんだよね。
そりゃあさ、「私」というものは、単体では存在し得ないのであって、必ず周りの人間によって何らかの承認が必要だ、だからその承認を大切にしなきゃいけないというのは僕も分かってますよ。「人間は一人で存在しているんじゃない!」という説教をしたくなる気持ちもとても良く分かります。でもさ、それは逆説的に言えば「人間はどんなにそれを自分が希望したって一人では生きれない」ってことで、耐え難い苦痛にも成り得るんですよ。どんなに他者の承認から離れようとしても、存在している限りその承認からは逃れることは出来ない。そして、幻想を持ってる人(*18)向けにはっきり言っちゃえば存在から逃れることは死をもってしても不可能なのです。
つまり、承認ってのは別に望んでなくても来るんですね。だから、確かに存在がとても嬉しくて、承認もとても嬉しいという人は別に家出したことに対して「他の人が心配するだろ!」と説教するような状況を作り出しても良いと思うけど、よく考えたらそんな人ははなから家出なんかしようとは思わないわけで、家出っていうのはつまり「私は『承認』が嫌だ!」(*19)という宣言を行動の中に内包している訳で、そういう人に「騒動になるでしょ!」と言う(*20)のは、その人の不安・絶望を深めるだけで何にも処方箋にならないのです。
もちろんこの少女がそこまで考えて「家出」という行動に出たかどうかは不明だけど、でも考えてなくても(*21)そういう気持ちが心の底に潜んでいる(*22)のは確かだと思う。だとしたら、やっぱりここまで大騒ぎにしてしまったのは、この少女にとっては余りに酷だと思うのだ。もしそこまで酷な行為が倫理的に出来る人が居るとすれば(*23)、それは親に他ならないと思うのだ。親は唯一承認を嫌う存在に対し、「俺はお前を承認してやる!何処まで逃げたって、絶対に追いかけてやる!」と実効性を持つ言葉で言える存在なのだ。(*24)でも、ネット上の第三者はとてもそんなこと出来ない。この少女のニュースを伝えた後、ちょっと改行して次に新しいニュースを紹介することが出来る、自由だけど、それ故に少女にとって実効性のある言葉は一切言えない存在です。そういう存在が、こういう風な「こんな大騒動を起こして!」という説教メッセージを伝えかねない状況に荷担したということは、やっぱり僕はちょっと嫌悪感を覚えるなぁ。
もちろん、こういう話が承認に嫌悪感を覚えない人達には何の説得にもなっていないことは僕だってよーく分かっています。そして、そういう人達こそがまさに今回の騒動に荷担したということも。だから、僕の文章はそういう人達にしてみれば何馬鹿なこと言ってるんだ。少しでも心配している人が居ることを伝えることの何処が悪い。そういうお前みたいにひねくれたことを言う奴が居るから、こういう風に家出しようとする人間も増えるんだ。ちっとは反省しろ!というような言葉で簡単に無意味化できる文でしょう。だから僕はこの文章については論争する気がないのでご了承下さい。
最後に、これもまた少女がこのブログを読むなんてことは万に一つもあり得ないので、これもまたとても無意味な文章なんだけど、今回行方不明になった少女に向けて。
今回あなたは家出をしました。多分その裏には何らかの理由があったのでしょう。しかしその理由なんか少しも知らない人達が、ネット上でこの行方不明の騒動を散々騒ぎ立てました。もしかしたら、事後的とはいえ、僕もその一人なのかも知れません。
このようなことを見て、あなたは「周りに迷惑を掛けてしまった」ということを、気に病んでしまうかもしれません。しかし断言します。あなたは、確かに自分を危険にさらしたということでは、反省をしても良いと思いますが、周りに迷惑を掛けてしまったことを反省する必要は全くありません。もしかしたら、周りの人がそのことを責めるかも知れませんが、そのときは適当に上辺だけで謝っておいて、心の中で「シラネーヨ」とか言ってやりましょう。
しかし親に「私達は心配したのよ!」とか言われたときは、多少動揺するかもしれません。ですから、その時心の中でも本当に謝るか、上辺だけ謝るかは、僕は自由選択だと思います。親にだけは迷惑を掛けたことを反省するのも良いと思うし、親に対してだって「シラネーヨ」とか思いながら次はもうちょっと上手い手で行こうと考える。どちらも僕は大いに結構だと思います。そのどちらかをを強制する倫理を、社会は既に持ってないのですから。
ただ一つ注意して欲しいのは、「自分は一切何にも知らない人の心配とかも全て背負って生きていきたいんだ!」とか言って、あたかも自由選択の結果として、全世界の心配をあなたが反省しようとしてしまうことです。それは確かに自由選択の結果かも知れませんが、しかしそれは今の日本ではとても危険な選択肢です。今のネット上の人々というのは、はっきり言うと自分が強大な力を持っているにも関わらず、それに気付かず、「自分はとても弱い市井の人々ですよ?」と言いながら強大な力で他人を傷つける大馬鹿者の集まりです。そんな人々の心配を一々背負っていたら、絶対にあなたは崩れてしまいます。承認=存在を得たくないと思って、自らが滅びることを選択するならまだしも、自分が存在=承認を得ようとしてるのにそれが原因で自らを滅ぼすなんてことになったらアホみたいですよね?例え存在=承認を望んでいたとしても、それは親や極近い周りの人々の承認のみを大事にすべきなんであって、ネット上の人の承認なんか掃いて捨ててしまいなさい。大丈夫、彼らは馬鹿だから、上辺だけ取り繕っていれば騙されてしまいます:-)
とにかく、あなたの気持ちが本気で分かるのは、自分だけです。親は大分分かるかも知れませんが、分からないところも残ります。ですから、それを許容するかどうかはあなた次第です。そして、ネット上の人々はあなたの気持ちなど全く分かりません。故に、そういう人達は絶対に許容してはなりません。もちろん、「ネット上の人達」の中には僕も含まれることをお忘れ無く……
64_アミューズメントな人間関係でなく…。@スポンタ通信。 …スポンタ中村です。
土曜日、わたしが主宰しているバンドで、多動症的傾向をしめしている小学生の男の子の頭を叩き、スネを蹴った。……僕は、この記事を書いた中村厚一郎という人を人間として許すことが出来ません。日曜日、同じくバンドのメンバーのダウン症の青年を「わがまま」と怒鳴り、叱り倒した。
信念があっても、はっきり言って辛い。
男の子への体罰は、彼の両親が見ている前で行った。体罰は短く行う。説得力のあるものにする。ねぎらいの言葉はかけない。
メソードどおりに行ったつもりだが、辛い。その両親も私の行動を否定するでもなく、肯定するでもなく…。
自分の行動のCEOは自分。だから、それでいい…。
私としては、サイは投げられてしまったということ。中途半端で終わり、少年を矯正できないのならば、体罰ではなく暴力になる。
この終末にこの行動に走らせたものは、かみさんが聞いてきた話。
体罰をできない先生に代わって他動症の少年の母親が教室に行き、席を離れる度に蹴りを入れたら、一ヶ月ほどで矯正できたという。その少年に小学校の玄関ですれちがったが、表情も穏やかで大人びて見えた。…ことはあまりに単純なのだ。
(略)
多動症的傾向の少年にしてもそうだ。わたしの体罰に瞬間的衝動にかられ、団地の階段から飛び降りても、自分の行動に恥じない。
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まず最初に言います。「多動症傾向の子は体罰すれば治る」なんて言うのは、明らかに間違いです。だって、多動症の子は、別にふざけてるから多動をしている訳じゃなくて、脳の一部に障害があるから先天的に多動症(*25)なのです。ですから、叩いたりしてしつけをすることによってそのような障害が治るというのは明らかに間違いであるばかりか、場合によってはその子の自尊心を著しく傷つけてしまう恐れがあるのです。
今まで述べた様なことは、ADHDについてインターネットとかでちょっと調べれば、簡単に分かることです。もしそのADHDの子に対し教育者たろうとするならば、絶対に知らなければなりません。この様な人間が未だに罰せられることもなく社会でのうのうと教育者としており、しかも記者であるという事実は、僕にとっては脅威以外の何者でも無いような気がしてなりません。この記事を書いている今も、もしかしたらこの中村厚一郎によって、今日もまたADHDだったり、他にも色々障害を持っている子が虐待されているかもしれないのです!
とりあえず、まず僕は世田谷児童相談所と世田谷警察署にこのような児童虐待が行われていることを通報し、ついでにライブドアにこのような人を記者として雇っていることについて見解を質そうと思っています。もし、この記事を読んでいるあなたも、このような児童虐待について酷いと思い、何か行動する余裕がおありでしたら、是非メールでも電話でも手紙でも何でも良いので、この中村厚一郎による児童虐待を上記の機関に通報・質問してくれれば僕は嬉しいです。
なお、僕はちょっと今回の事件について、冷静に事実を把握しようと努めているのですが、何せとても激しい怒りを覚えてしまったので、一部おかしな文などもあるかも知れません。もしそのような所を見つけたら、お気軽にコメントやTrackbackで知らせてください。後「この中村厚一郎はこんなこともやっている」とか「この機関にも知らせた方が良いんじゃないか」とかいうのがありましたら、それも是非コメントやTrackbackで知らせてください。
あと、サイトを持っている人は是非今回のことについてあなたのサイトで取り上げてください。その取り上げ方は、僕の記事に完全に賛同してくれるならそういう内容で良いし、もし僕の文章に何処か変な所があると思ったらどんな書き方でも良いので変な所を指摘してください。僕も出来る限り答えます。
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*1: 実際に完全にパクって現代版『嘔吐』を作ってみるのも面白いかも知れない
*2: 実際、僕は「ノゾミ・カナエ・タマエ」とかを聞きながら読んだが、結構合っていたと思う。
*3: やっぱり何だかんだいっても上の文章は「醜悪」ですよ。でも、だからこそもの凄い力を持っているのですが
*4: 最後ら辺を除くということ。この最後ら辺の解釈は後述
*5: 中身は50対50なんだけど
*6: 僕の文章では被害者と加害者(id:rir6:20050214:1113809867)とかがアジテーションに属すると思う
*7: 一応言っておきますが、僕はアジテーションを「悪」だとは思いません。だって人間っていうのは戦略的な思考が出来るんだから、それを使わないのは「馬鹿」でしょう。
*8: 「私が死んでも代わりはいるもの」
*9: 「コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル……」)でもあるのです!何故なら、この二つは結局同じものなのですから。((この「『実存』=『世界』=『私』への憎しみ」が「私」を成立させているという事に対するより詳しい文章は、終末後の音楽へとの「動物化出来ない『人間』」に書いてあると思います。ていうか鬼束ちひろのアルバム「This armor」でも聞けば一発で分かるでしょう。
*10: =説明
*11: この「嘔吐」は読んでいるこっちの方が苦しくなる文な訳ですが、しかしそれでも私たちは読んでしまう。何故ならそれが「真実」だから。苦しくてしかも真実でない文なんて誰も読みませんよ。
*12: ていうか実際に「意義を与えようとするところに意義がある」という文の欺瞞への批判は「悩み続ける」という戯れ(id:rir6:20050208:1113809554)でやった(わ
*13: この人を思い出してしまった……あともう一人思い出すべき人が居る気がするが、それはきっとタブーなので触れない。
*14: そういやこの元恋人もなかなかのトラウマの持ち主なんですよ。「わたしは母を夢中になって憎んだ。」(P.237)、「12歳のある日、母があたしを鞭で打ったので4階から飛び降りたの。あのときの猛烈な怒りをもう一度経験したい者だわ」(P.238)
*15: まぁ一応「本を書く」とかそういうもっともらしい立ち直れる理由が付いているけど、それは僕にはカモフラージュにしか見えませんでした。
*16: ここの理由も終末後の音楽へとに書いてあります。でも、それはあくまで「現代」の話の筈なんだけど……天才は時すら飛び越えるのか!?
*17: って、TV版エヴァを見終わった後の観想と全く同じだ(わ
*18: もちろんこの少女のことでは無いよ
*19: そして、その承認は突き詰めれば実存(id:rir6:20050329:1113813528)となる
*20: 状況がね
*21: =形而上で
*22: =形而下で
*23: 僕は居ないと思うけど
*24: それが処方箋になるかどうかはやっぱり僕は疑問だけどね
*25: 正確には注意欠陥多動性障害(ADHD)と呼ぶので、ここからはADHDと呼称します。