Rir6アーカイブ

2005-11-21


色々あって時間がないので簡潔に書く(何故かそうするとよけい訳わかんなくなるんだよなぁ僕の文章は)。

[情報社会論]ネットでの議論は「一方的」です

id:rna:20051118#p1より

ネットの言論は「一方的」?

モヒカン族の方に叱られそうなタイトルですが僕が言ったんじゃありません。昨日行われた中西準子名誉毀損訴訟で原告(松井三郎氏)側の弁護士がそういう主旨の事を言ったのです。専らネットで事件を聞きつけてやってきた人がほとんどの傍聴席にはなんとも言えない空気が。。。

(略)

さて、タイトルの件は昨日の第四回口頭弁論で原告(反訴では被告)松井氏の代理人、中下弁護士が、この反訴に対する反論として述べたことでした。

要約すると「問題となった中西氏の文章は学問的な批判とは言えない」として、以下のような理由を挙げたのです。

  • 会議の場には中西氏もいたのだからその場で批判するべきだったのではないか。
  • それなのに松井氏はホームページ上で反論の場も与えられず一方的に批判された。
  • 松井氏の抗議のメールをなぜ公開しなかったのか。一方的な批判である。

中下氏は「反論の場が与えられない」「ホームページ上で一方的に批判」に類似したフレーズを度々使い、そのたびに傍聴席にはビミョーな空気が流れたのでした。正直言って僕自身も笑いをこらえるのに必死でした。

ネットで批判すると一方的なの!? ネットだからこそ反論の場はいくらでもあるんじゃないですか!? 松井氏には一応ご自身のページがあります。大学の教員紹介のページなのでここに反論を書けるものなのかどうかは微妙ですが、その気になれば無料のブログサービスを利用することだっていくらでもできます。このブログだってそうだし。

ていうか、そんなこと言ったら原告側のプレスリリースだって、ネットの掲示板(化学物質問題市民研究会の掲示板)で公開されてたってわけですが、これは「一方的」じゃないの!?

メールを中西氏のサイトで公開しなかったことを一方的としているところを見ると、同じ場(サイト)に批判した相手の意見を載せられないのが「反論の場が与えられない」ということなのでしょうか? *2

まさか、中西氏のサイトには掲示板がないとかコメント欄がないとかトラックバックできないとか、そういうところが「一方的」で「反論の場が与えられてない」っていうこと!? プレスリリースは掲示板だったからオッケー!?

はっきり言って僕はこの裁判がどんなものかには全く興味がありません。が、少なくともid:rna氏のまとめを見る限り、問題となった中西氏の文章は学問的な批判とは言えないというのは正しいでしょう。ま、モヒカン族の方々は認めたくない事(だから笑って誤魔化そうとする)かもしれませんが、ネットは万能ではないのです。

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通常―というかネット以前においては―学問的な批判・論争はどのような場においてなされたか?こういう討議の場でなされることもあったかもしれませんし、また雑誌への寄稿などの形をとることもあったかもしれません。しかしどちらであったとしても、そこには何かしらの仲介者が存在していました。例えば討議の場ならその場にいた他の人や司会、雑誌ならば編集者がそのような任を担います。何故か?公平性を保つ為です。つまり第三者が議論を仲介し、その双方の議論を公平に司る(一方が何か発言したら、次はもう一方に発言を与えるなど)。それにより批判・論争は公平なものであるとして認められるのです。

しかしネットの場合においてはどうか?ネットの場合、両者は自ページから意見を表明しますから、そこに第三者は(野次馬ではなく司会的役割では)介入出来ません。その為議論の公平性は極めて危ういものになります。ある一方の学者のページが凄い有名で、もう一方の学者のページが無名ならば、そこでの議論はある一方の学者の意見ばかりが見られて、とても不公平なものになるからです。

例を挙げて説明しましょう。例えば「中央公論」とか「論座」とか(*1)での議論の場合、まずその議論は同一の雑誌によって行われますから、その意見へのアクセスのしやすさ(閲覧者にとっての)は殆ど同等なものですし、また編集者も同等なものになるよう努力するでしょう。出来れば双方の意見を同一号に載せ、それが出来ないとしても、ある片方の意見だけを載せるのではなく、かならずそれと対立する学者の意見を要約でも載せようとする。もちろんそれらはあくまで「したほうが良い事」で「しなければいけない事」ではありませんから、完全に公平になるようには出来ないわけですが、しかし公平にしようと努力はしている訳です。そして事実そのような努力によって雑誌などマスメディアでの議論は社会でもある程度の地位を認められているのです。

翻ってインターネットにおける議論ではどうか?まずインターネットにおいては著者=編集者な場合が殆どです。ですから当然記述様式などの公平性は雑誌などでの議論より格段落ちます(同じ所に双方の文章がありませんから一方の文章だけ読んで他方の文章を読まないということも多々あるし、ページを作っている人のページ作成のスキルの差によって読みやすさなども格段に落ちます)。更に言うならば雑誌などのマスメディアはまがりなりにもそのような議論を何回も体験した実績がありますが、しかし情報流動性のかなり高い個人ページにおいてはそのような実績は殆どありませんし、議論が行われる場所が個人のページ毎になるため、実績が蓄積されることも無いでしょう。ですから社会ではインターネット上の議論はマスメディアでの議論よりは劣るものとして捉えられています。これは別にインターネットに対する感情的嫌悪などではなく、極めて合理的な判断なのです。

もしこのような状況が嫌だというなら、それこそ今のように個人の持つページに頼るのではなく、誰か編集者が沢山の人の記事を一カ所にまとめて載せるような、インターネット・パブリックメディアの創造が不可欠でしょう。ですがもちろんそのような場所は今のインターネットにはありません。今のインターネットはそのような環境なのですから、例え司法判断で「インターネットの議論は学問的な論争ではない(*2)」という判断が出ても僕はそれを至極真っ当なものとして支持をします。繰り返しますが、もしそれが嫌なら自分で公平性が保てる場所をネットに作るべきなのであって、司法を嘲笑したりするのはお門違いとしか言いようがありません。


*1: 例に挙げた雑誌の名前に他意はない

*2: 当初書いた時には「ではない」を抜かしてしまいました