失敗した思考もどんどん書いていこう、と思った。だから[失敗作]カテゴリを作ったんだね。
結局、今本当の意味で問題となっているあらゆることは、「世界」以外に確かな物が存在せず、そのため「私」が存立し得ないということにつきると僕は考える。つまり、マルクス主義やアメリカ民主主義、そしてそのどちらにも対抗したい為に生み出されたヒューマニズムだったり、それらがあった時代はそれぞれその主義主張にあわせて「私」というものが厳然と存在し、そしてそうやって存在する「私」が「世界」に立ち向かうという構図が出来、そしてそれ故にその様なイデオロギーも存立し得る相補関係があったが、しかし高度情報化により人が代替のきくモジュール化し、「私」の独自性が簡単に否定されるようになると、そのイデオロギーもやがてその効力を失ってしまう。そうすると残るのは「世界」と、その世界で動くシステムだけであり、その為そのシステムしかなくなってしまう。
もちろんそれらが本当に上手く駆動しているのならば何も言う事は無い。だが現実は違う。少なくとも僕にとっては。何かが足りないのだ。何かがおかしいのだ。そのおかしさ、足りなさは決して旧来のマルクス主義であったり(僕は明らかにプロレタリアートではなくブルジョワジーだろう)、ニヒリズムなどというカビ臭い言葉では(何に対する怨恨なのか?よく「非モテ」を怨恨の原因として位置づけたり、また女にモテない自分を恋愛プロレタリアートと自己規定する人々が居る。しかし本当に恋愛はそんなに重要な問題なのか?僕はそうは思わない。誰からも愛されなくったって生きていけるのだ。結局彼らは、「非モテ」であることをもって、「私」をなんとか存立させようとしているのだろう。結局バオイモドキとそんなに変わりはない。それは出来るのなら大いに結構な事だが、少なくとも僕は余りに馬鹿らしくて出来ない。)捉えられない。
では何によって「世界」以外のものを発見出来るのか?僕は最初それを「死ぬのは嫌」と言う言葉に見いだそうとした(そしてその思いは今でも有望である)。つまり、世界がどのように存在したとしても、私は「死ぬのは嫌」と考える。世界が自然の摂理というリミットを突きつけたとしても、私は「死ぬのは嫌」と考えるのだ。つまりそこ(=「死ぬのは嫌」というメッセージが発せられるところ)に「世界」以外の、「世界」に対抗することが出来る「私」が存在するのではないか?いやきっとそうだ。そうなのだ。少なくとも僕にとってはそうなのだ……自殺をしたがる人など知るか。
しかし本当にそうなのだろうか?僕はどんなときにも「死ぬのは嫌」と考えている。それは絶対的事実だ。しかしそれすらも実は「世界」の規定に過ぎないのではないか?つまり、「私が生きる」ということは実は世界システムの範疇にあるのではないか。「『死ぬのは駄目』と世界が命じる」、そのように変換するととても合点が行ってしまうのもまた事実なのだ。そしてそれを否定するためには又別の世界とは違う物を見いだす必要があるのではないか?結局堂々巡りなのだ……
つまり「死ぬのは嫌」の何が問題かと言えば、その言葉に未来が無いという事なのだ。「死ぬのは嫌」と行った瞬間「私」は「世界」と対立する(何故なら世界システムは全てを含有しようとするため、異物の存在を許さない)わけだが、しかしじゃあその対立=戦争はどのようにして決着が付くかといえば、それは「死ぬのは嫌」と言う言葉の内には無いのだ。というか、ぶっちゃけて言えば、人間はどんなに頑張ったっていつかは死ぬ。つまり例え「死ぬのは嫌」という言葉で「私」を発見したように見せ掛けられても、死ぬ時になって「結局お前は世界の掌で踊っていただけなのだー」と種明かしされるのだ。そして未来という物は、それに対抗する別の可能性が想定されない限り、規定の事実として先取りされるのだ。では別の可能性は一体何処にあるのか?