http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071022/p1
美貌の男レナードに誘拐されたうえ求婚された少女千鳥かなめは、かれへの嫌悪感をこんなふうに語る。
「隣のクラスにね、すっごいキモい男子がいたわ。体重が一○○キロくらいあって、いつもフウフウ汗かいてて、しょっちゅうあたしとか色んな女子をニヤニヤしながら見てた。ストーカーみたいなこともしてたらしいし、監禁とかロリコンとかのやらしい本をたくさん持ってるなんて話も聞いたことがある。どこまで本当かは知らないけどね。とにかく、そういうタイプ。何考えてるのか全然わからない奴。……さて問題です。そのキモい男子と、あんた。どちらかと付き合わなきゃならなくなったとして、あたしはどちらを選ぶと思う?」
「聞いて驚きなさい。あたしは真剣にこの命題を一日かけて考えたんだけど――本当に分からないの。つまるところ、あんたとあのキモい男子の違いは、イケメンかブイクか、ただそれだけなのよ(略)」
いやいやいやいや、全然違うだろ。
レナードはかなめを拉致監禁したいるけれど、その「キモい男子」は別に何もしていない。かれの罪はただ「キモい」ことだけだ。
(略)
えっと、ようするにかなめは、レナードに向けて「あんたはストーカーとかロリコンとかの疑惑がある100キロのデブと同レベルよ」といっているわけですよね。これ、めちゃくちゃしゃくにさわる言い草だと思うんだけれど、どう?
そりゃ、「キモい」ことに理由なんていらないですからね。「100キロもあっていつも汗かいてるデブってキモいよね」と思うことも彼女の自由。
「ねえ、あいつ、ストーカーみたいなことしているんだってさ。うわ、キモっ」と思うのも自由。
「やらしい本をいっぱい持っているらしいよ。キモいよね」とか「不細工な癖に笑うな。こっち見るな。キモいから」と思うことも自由だ。
じっさいの話、女性はそういう男ににやにや見つめられたら、気味が悪いと思う。とくにかなめさんは美少女ですからね、いつも汗をかいているデブなてさぞキモいことでしょう。
でも、容姿に、体重に、態度に、あてにならない噂、そういった、ひとつひとつ全く次元が異なっているはずのことを全部まとめて「キモい」でくくってしまうような感性が、心底きらいだ。
そもそも、その「キモい男子」は、レナードと違って、かなめに告白したわけじゃない。それなのに、なぜ自分が選ぶ立場であることを前提にして考えているんだ? かなめの好感度、1ポイントダウン。
「かなめの好感度、1ポイントダウン。」
いや、だからそういう言い方がキモイんだって
まず最初に言っておくと、僕はライトノベルとか余り読まない人間(理由は後述)なので、この『フルメタルパニック!』とかいう作品も読んだことありません。ですから、これから書く記述は、あくまでid:kaien氏が引用した文に沿ったものです。
そして、その上で言うならば、僕はこの「千鳥かなめ」というキャラクターは、とても人間味あふれてかっこいい、素晴らしいキャラクターだなと思いました。なぜならこのかなめは、読者に媚びることなく、自分が今思っている感情をそのまま言葉に出しているからです。だから、きっとこの様なキャラクターが出てくる『フルメタル・パニック!』という小説も、実は結構良い作品なんじゃないかなと、予想しています。
僕は普段ライトノベルというものを余り読みません。何故なら、はっきり言ってそれらの作品は殆ど「キモイ」からです。具体的に言うなら、キモヲタが望むような妄想をそのままキャラクター設定やストーリー展開に用いる、そういう作りがキモイ。例えば、何にも自分の魅力をアピールしない・できないようなダメ主人公にも何故可愛い女の子が、悪いときには複数寄ってくるし、そしてその可愛い女の子は決して主人公を否定せず(時には軽い失語症でさえある)、例え一時的に関係が悪くなっても最終的にはラブラブになるというような、もう書いているだけで悪寒が走るようなそんな話が、貴重な紙資源を浪費して本とされる、そしてそういう本をマジになって読む人間が居る、そんな光景が、ライトノベルという業界ではごく普通にある。
しかしこの「かなめ」というキャラクターは―id:kaien氏の記述によればですけど―そんなキモヲタを慰撫するだけのキャラクターではなさそうです。賀東さんはじっさいに100キロを超える読者もいるんだってこと考えなかったのかな。と言いますが(*1)、現実の読者はともかく、この作品の世界では現実に100キロのデブは居るとされていて、そしてそいつに対しこの「かなめ」というキャラクターは決然と「キモイ」という悪意の感情を口に出しているのです。はっきり言って僕はこんなキャラクターがライトノベルに居るということに驚きました。だってライトノベルのキャラクター、特に女のキャラクターって、みんな判を押したように、「憎しみ」とかそういう悪意が欠如しているんですから。まぁ、何も考えずただ自分の妄想しか好きになれないような哀れな「キモヲタ」にとっては、そういう対象でも十分楽しめる、萌えキャラなのかもしれませんが、少しでもまともな「人間」にとっては、そんなキャラクターを提示されたって、人間ではない、単なるモノとしか思えないのですよ。
「別にかなめがあるキャラクターに対し悪意を持つのは良い。ただその悪意の根拠が『キモイ』などという駄目な感情によるのが許せないのだ」と言うキモヲタも居るかもしれません。ですが、僕が言いたいのは、まさにその「俺たちの基準によってヒロインが憎む対象は決まるべきだ!」という風な考えこそが、駄目なのだということです。
だって、そのヒロインはあなたじゃないし、あなたのママでもないんですから。自分の頭を持ち、今までの自分の人生で培われた思考・感情を持つ、一人の人間なんですよ。だったら、どんな感情を持とうがそのヒロインの勝手、厳格に言えば内心の自由なのです。
もっと言いましょうか。「キモイ」、あるいは「憎しみ」という感情は、確かにそれの対象となった本人にとっては辛いのかもしれません(もっともそこで、「じゃあその憎む相手を憎む自分はどうなの」という批判も当然成り立つ)。しかし僕は思うのです。そうやって他者を嫌いになる、そんな感情があるからこそ、人はその憎しみを解消するために、自分をどうやって他人にアピールしようか、どうやって自分をより良く見せようかと頑張るのであって、もしこの世に憎しみというものがなかったら、きっと誰も他人に自分をアピールしたりすることもないでしょうし、そもそも人と人がコミュニケーションしようとすることもなくなるでしょう。だってコミュニケーションする前から、相手が自分を愛してくれていることが分かるのですから。
人は、相手が何を考えているか分からず、もしかしたら自分を憎んでいるかもしれないと思うからこそ、コミュニケーションをします。もしここで、相手の考えていることが全部自分の思い通りになる、もしくは完全に自分の予想通りになると分かっているなら、そもそも他人にアピールしたり、コミュニケーションをすることはなくなるでしょう。それは、キモヲタにとっては確かに楽園なのかもしれませんが、少なくとも僕にとっては、とてもつまらない世界に思えます。
そしてそれは、現実だけでなくフィクションにおいても同じです。登場人物が完全に自分の妄想のままになるフィクション、それは一見楽園の様に見えるかもしれません。しかし、それは裏を返せば、その作品には何の「意外性」もないということに他ならないでしょう。そのフィクションを読んでも、そのフィクションは全て自分の妄想で構成されているから、何も自分の糧になるようなものはないし、読んでも後には何も残らない。キャラクターに限っても同じです。自分の妄想の通りのキャラクターがもしあるフィクションの中に登場しても、そのキャラクターに対し自分は、きっと何も感じないでしょう。だってそのキャラクターの内面・動き全てが自分の妄想どおりですから、何もそのキャラクターのこと―例えばあの行動の背景にはどんな動機があったのかとか、そんなこと―を想像しなくても済むんですから。そりゃあ自分の妄想を具現化したキャラクターですから、そのキャラクターを好きになるかもしれませんが、しかしそれで終わりです。そこには何の生産的な行為も、心的な動きもありません。
また、「しかしそうは言っても、デブをキモイという風に差別するのはいけない」という風に言う人も居るかもしれません。
しかしですね、別に彼女はそのデブに向かって「キモイ」と言っている訳ではないんですよ。ただ内心の感情として「デブはキモイ」と思っている。それが良いことだとは思わないけれど、非難されるべきことであるとも僕は思いません。だって、別にその差別感情によってデブを傷つけたわけでもないのですから。
そして更に言えば、この種の「デブはキモイ」という感情をただイケナイことであるとして否定する行為こそが、デブ差別を助長させるとも、僕は考えます。
だって、id:kaien氏も認めていますが、現実に普通の女子高生の間では、「デブはキモイ」とされています。それがフィクションの中でだけ「デブは別にキモクないよ☆」とか言われても、それはデブ差別がある現実からの逃避でしかないでしょう。そうやって逃避している間にも、現実社会ではデブはどんどんキモイものとされるのです。
そりゃあ確かに自分が認めたくないものを認めるっていうのは辛いですよ。僕も正直女子高生たちなどが持つ、見た目主義にはゲンナリします(ただ一方で、そういう見た目主義により、彼・彼女ら自身も苦しんでいるんだけどね)。ですが、だからこそそれは「フィクションだから許される」などという理由で隠されてはならないのです。普通の女性はそういう風に考えているということを大っぴらにし、そして、それを現実で変えていかなければならないのでしょう。もちろん先に言ったように人は他人の思い通りになんかなりませんから、それは根本的に不可能な作業かもしれません。しかしだからといって不可能が作者の力により可能になるフィクションの世界でそれをやったとしても、それに一体何の意味があるのか?むしろ、そうすればするほど、フィクションが「うそ臭く」なり、つまらなくなるように、僕は思えてなりません。
更に言いましょう。id:kaien氏はhttp://d.hatena.ne.jp/kaien/20070308/p1を参考エントリに挙げています。が、
世界のすべてが自分にとって心地よい形であって当然だ、そうでないものはそのように変わるべきだ、と信じて疑わない「王様病」
は、まさにあなたのことに他ならないのです。
そもそも「好感度」って何よ?「かなめの好感度、1ポイントダウン。」ふーん。だから何? きみが「好感度下がる」と思ったら、そのキャラは改善するよう努力しなければならないの? それって何様? この「かなめ」はきみのものなのか?
そりゃあね、「かなめ」っていうキャラクターは、所詮フィクションの作品の中に書かれた、キャラクターの一つなのかも知れないよ。でも、その『フルメタルパニック!』という作品の中でおいては、そのキャラクターは一人の「人間」としてそこに居るんだよね。だったら、そのキャラクターは当然「人間」として、自分の頭でものを考えるし、それを口に出したりする。それを自分の妄想と違うからって否定するって、その作品自体を「所詮フィクションだから、俺の言うとおりにしろよ」と全否定していることに他ならないでしょう。
挙句の果てに「好感度1ポイントダウン」って、その時点で、まさに「なぜ自分が選ぶ立場であることを前提にして考えているんだ?」ですよ。いや、「かなめ」は「キモイ」という言葉に代表されるように、それが自分の身勝手な感情でしかないことに自覚的で、しかもでもそれは大切にすべき感情であると知っている。でもあんたは、自分の「きらいだ」という感情を、感情のままで擁護することが出来ない臆病さゆえに、無駄にその「きらいだ」に様々な客観を付けて、卑怯にもその「きらいだ」という感情が客観的に擁護されるべきだという風に主張する。何だよ「作劇の方法論」って。俺理論を振りかざすのも大概にしろ。常識的に考えれば、キャラクターにリアリティを持たせるって言うのは、むしろそれこそ「作劇の方法論」の王道でしょう。「既刊十数巻におよぶ大長編小説のメインヒロインが、そんな普通のいやな奴でどうする?」とか言うが、何で普通なことがそんなに駄目なんだ?結局お前の好む妄想でしかないじゃねーか。ヒロインが普通だと駄目な理由って、結局「普通の女子高生じゃ僕のようなキモヲタを好きになってくれないじゃ~ん」だろ?まぁ確かにそれは紛れもない事実だろうけどさw
ここからはid:kaien氏も含むけど、彼に限らないキモヲタ全体への批判。
何でキモヲタって、女の子を自分の意のままに動かしたいという下劣な欲望を、あそこまで大っぴらげに出来るのだろう?オタクの間で流行った「ツンデレ」にしろ「ヤンデレ」にしろ、結局は「デレ」に至る過程がどんなのか良いかっていうことの問いでしかなく、女の子がみんな「デレ」になるということは、自明の理として扱われる。要するに、たとえどんなにその自分たち読者の分身である主人公にツンとしたり、憎んだりしても、結局その主人公を好きになる。要するに安物のポルノキャラクターでしかすぎない。そして、もしこの大原則から外れたキャラクターは、今回の「かなめ」の様に容赦なく叩かれる。
もちろん、そういうポルノキャラクターを好む欲望が男にあることは否定しないよ。でも普通の男性なら、そういう欲望があるのは認めるけど、それを全肯定してもらおうとは思わない。ちょうどチンチンを露出して公共の場に出ないのと同じように。ところがキモヲタはそれを公然と口に出し、あたかもそれが社会に認められるかのように考える。まるで幼児がチンチンを出しながら「僕のチンチン見てー」と言う様に。
最近「初音ミク」とかを出して、「これがあればもう歌手いらね」とか「最近のJ-Popなんかよりぜんぜん良い」とか言うキモヲタも居る(「調教」なんて言葉を大っぴらげに使うことからして、やっぱりキモヲタって露出魔と同じメンタリティなんだなぁと、確信する)けど、それもまさに上記で述べたような「自分の意のままに動く女性が欲しい」というのと同じでしょう。「初音ミク」っていうのはその使い方さえ習得すれば、まさに自分の思ったとおりの声・音が出せる。それの何が面白いのか僕にはよくわかんなかった(だって同じ歌を歌っているなら、絶対初音ミクよりフタエノキワミのほうが面白いもの)けど、そういうことなのだろう。でも何でそれをおおっぴろげに出来るのか?
「恥の欠如」とかそんな俗流若者論の様なことを言うつもりはない。むしろキモヲタは、現実において極端に「恥」に囚われているから、そういう風にネットやフィクションで現実の復讐をするのかもしれない。でも、やっぱりそれって逃避でしかないわけでさ。
そりゃあ、現実と全く瓜二つのフィクションなんか面白くないでしょう。でも一方で、現実と全く遊離した、自分の妄想どおりのフィクションを作ったとして、それが一体何を生み出すというの?僕は、今ここの世界の現実をスタートに置きながら、しかしそれでも、その現実と戦うことによって、そういう現実を何とか超えていく、そんな作品が好きなんだけど、キモヲタはきっとそんな作品大嫌いで、しかも彼らは数が多いから、そういう風な方向に大勢が流れていくんだろう。そういう態度がフィクションを腐らせるんだって、何故彼らは気づかないんだ?
*1: まったくどんだけ自分に向けられた悪意から逃げようとしているんだこのキモヲタはw
この日へのコメント
昨今の、読み手=主人公ととらえ、周りに自分に好意を寄せている女性をひたすら配置した作品など皆無に近かった。
すべてはメディアミックスでアニメ化、そしてグッズの販売まで見込んで作品をこさえてくる作り手側と、それを手に取り嬉々として独り遊びを繰り返す高学歴のバカの存在があると思うしだいです。
売れなきゃ飯も食えないから仕方ないんですが。ところでこのエントリはキモヲタキモヲタって連呼しすぎじゃないですか?
当然これは逃避だけど逃避自体は別に悪いことじゃないし。
でも、気持ちはすごく良く解る。
そりゃ、大量につれるんだろうけどさ・・・・
そもそもラノベ読まないって自ら言ってるそばからラノベ批判めいてますね。せめてヲタの思考を追うつもりならヲタ並みに読んでから批判して下さいよ。
「不可能だろうが、それでも現実を変えようとしろ」?
不可能だとわかってて努力するなんてただのアホじゃないですか。
「キモオタの下劣な欲望」?
現実味のない冬ソナにはまってるおばちゃんや、男ハーレムばかりの少女漫画を読む女の子も同じでしょう。あなたがそこまでオタクだけを取り上げたがるのは単にキモ男が嫌いだからでは?
「現実と戦う作品」
単なる娯楽作品にそんな高度なもの求めるほうがおかしいですね。チャンバラ時代劇に哲学を求めるようなものです。80年代、90年代アニメはそれでも「現実での幸せを求めるか、このまま虚構で終わるか」というのは重大なテーマでした。萌えキャラがどんどん死ぬ作品が増えると言う異常な事態がありました。エヴァもセイバーも「現実に還れ」とメッセージを発しました。現実で幸せになれるかどうか、オタクにとって生きるか死ぬかの問題だった時代、決断をせまられた時代。でも結論はでたんですね。どんなに努力してもダメなヤツは一生ダメだという。そういう出戻りや開き直りがあって「虚構の中でだけの幸せ」しかないことに気づいた。その中で萌えキャラ「キモい」と発言させるのははっきり言って「古い」。オタクにとって自虐、諧謔がアイデンティティである時代は終わってるのに。
キモヲタ扱いされているのが=作者そのものだってのはファンなら誰でも知ってます。作者が自身を自虐して作中ヒロインに罵られているんですよ。これが当作者の持ちギャグのひとつなんです。ですから古いとか現実を突き付けているだとか、そんなのは筋違いなんですよ。的外れです。ただの内輪ウケを狙った自虐ギャグなんです。だから読みもしないで批評なんかするもんじゃないんですよ。
するようなパラノイア。
どうにもまともに会話をする気が起きない。
それって、kaien氏自身が否定するオタク第一世代の論客(唐沢氏や岡田氏など)の態度とどこが違うのだろうか。
おもしろいかおもしろくないか、おもしろくないと言ってるのが大勢のキモオタと、Rir6さんは仰ってますよ?
小説における手法の問題(古いか新しいかといったことはともかく)と、作者が作品に込めた意図の問題とは、とりあえず分けて考えたほうが議論が進めやすいのではないかなあ、と思ったりします。
小説の手法と作者の意図を分離させる必要はとりあえずこの話には関係ありません。
おもしろいかどうかの判断基準はあくまで読者側なので、作者の意図があろうとなかろうと問題ありませんからね。読んでそこから受けた感想が全てです。作品外からの補正はまた別の要素ですから。
ただ、自分の意のままにしたいという願望は、どんな人間にも内在するものであり、
それを否定、完全除外してしまうとエンターテイメント足りえないと思います。
大事なのは、フィクションであっても原因と結果が伴う物語であることではないでしょうか。
例えば主人公(♂)が一般的にキモいとされる容姿、或いは性格をしていたとしましょう。
しかし彼の個性に、女性から見て「格好良い」或いは「素敵」な部分があって、
それを知ったヒロインが惹かれたのなら何ら不自然ではありません。
重要なのはそこにいたるプロセス。私はそう思います。
昨今の質の悪いラノベは、その点を無視してご都合主義に走りすぎ、失敗してると思います。
原因、起点、きっかけ無しで結果を出そうとするから、不自然極まりないものになる。
…正直読んでいて違和感を感じてしまうんですよ。そこが駄目。
要するに、騙すべき部分と、道筋をきちんとつけるべき部分の区別が付いてないんです。
まあラノベ自体がご都合主義を内包している為、バランス取るのが難しい面もあるでしょう。
でも…それができないんだったら、プロ失格ですよね。
いかに読者に違和感を与えず、且つ騙しとおせるか。それこそ腕の見せ所です。
件のフルメタは(人気を知りつい先日既刊全てを読破しました)…プロの仕事でした。
キャラが概ね見目麗しいという設定は、まあ「物語」に外せないので置いておくとして。
口が悪くて手も早い、およそ女らしくないヒロインの、
一体「どこ」に相良が惹かれたのかをきちんと描写してあったと思います。
勿論、相良の「戦争バカ」で「無神経」な部分を補って余りある「魅力」も。
キャラには各々に個性があって然るべきだと、私も思います。
美点があり汚点があってこそ、本当の意味で好きになれるというか。
むしろ汚点すら愛しいと思える事が大事なんじゃないかなあ。
…相手は空想の人物だけど。
「まるで存在しているかのようだ」と思わしめる為には、
そういう不完全さが不可欠なんだと思います。
未熟でいいじゃん。そんなかなめや相良が好きだよ!